六月七日 孝雄、得な話を聞く
突然、スマホが震え出した。
塚本孝雄は、いきなりの出来事にビクリと反応し、その場から飛び上がらんばかりに驚いた。
どうやら、布団を被っているうちに眠ってしまったらしい。ポン中の睡眠は非常に浅く、数分で目が覚めてしまうことも珍しくはない。
それにしても、いったい誰だろか。そもそも、今の自分に連絡を寄越す者などいないはずなのだが。
孝雄は恐る恐る、スマホの画面を見る。
電話をかけて来た者は、阿部という男だった。孝雄に覚醒剤を売っていた売人・小津を通じて知り合った男である。過去に何度か、顔を合わせたことがあった。しかし、特に付き合いが深いわけでもないはずだった。
いったい何の用だろう? 孝雄は一瞬、迷った。
しかし、気がつくとスマホを手にしていた。ずっと一人で悩んでいることに嫌気がさしていたのである。さらに、この奇怪な状況を一時でも忘れさせてくれるかもしない……そんな思いが、彼の手をスマホに向けたのだ。
(よう塚本、久しぶりだな。実は、いい話があるんだよ。あのな、ネタをグラム五千円で売ってくれる人と知り合ったんだ。お前も買わねえか?)
グラム五千円、つまりは一グラムあたり五千円で売ってくれるということだ。それは確かに安い。今まで孝雄に覚醒剤を売ってくれていた小津は、一グラムに換算すると十万ほどで売りつけていたのだから。
しかし、そうなると疑問が生じる。
「すみません、ちょっと聞きたいんですが……そのネタは本物なんですか?」
いかにも不審そうに尋ねる孝雄。そう、覚醒剤には様々な種類がある。中には、おかしな効き目をもたらす物もあるのだ。
さらに、砂糖などで嵩を増している者もいる。そうなると、いくら安くても意味はない。大量に射たない限り効き目が弱いからだ。
(いや、そこは問題ないよ。俺もやったけど、効き目はバッチリだよ。しかも、初めはただで一グラムを味見させてくれるぜ。これはお得だろうが)
「えっ、本当ですか?」
(ああ、マジだよ。なあ、ものは試しだ。やってみないか? 言っておくがな、ネタは上物だ。小津のネタなんかよりも、確実に質は上だぜ)
もちろん、迷う筈はなかった。孝雄は今まで、自分の部屋にあるネクタイのことでずっと頭を悩ませていたのだ。覚醒剤さえあれば、この悩みから解放される……。
しかも、初回はタダでくれるらしい。それならば、断る理由などないのだ。
「分かりました。是非お願いします」
客観的に見れば、これは狂っているとしか言い様の無い所業だ。部屋には、誰の物か分からないネクタイが置いてある。しかも、それは連続殺人犯と関係があるかもしれない物なのだ……普通に考えれば、覚醒剤など射っている場合ではない。
しかし、孝雄は覚醒剤の方を選んだ。彼は覚醒剤を射つことにより、全てのトラブルを忘れることにしたのである。
そんなことをしたところで、何の解決にもならないのに。いや、むしろ新しいトラブルを引き起こすことになるのかもしれないのに……。
孝雄は外に出た。周囲を、きょろきょろ見回しながら歩く。まずは、やらねばならないことがあるのだ。
彼は、目についたコンビニに近づいて行く。そこに設置されたゴミ箱に、ある物を放り込んだ。部屋にあった、灰色のネクタイの切れ端である。
結局、孝雄は……部屋にあった出所不明のネクタイをハサミで切り刻んだ。そして、あちこちのコンビニのゴミ箱にばら蒔くことにしたのだ。
言うまでもないことだが、こんなことをしても根本的な解決にはなっていない。自分の部屋に何故、こんな見覚えのない物があるのか? その謎が解かれていない限り、孝雄の身は安全とは言えないのだ。いや、そもそも自身が正気であるかどうかもはっきりしていないのに。
しかし、孝雄は考えることを止めた。もともと、困難な事からは逃げ続ける生き方をしてきた男である。面倒くさいことは、放っておけば何とかなるだろう。いざとなったら、他人に責任を押し付けて逃げてしまえばいい……全ての物事に対し、そんな風に考え対処していたのだ。
今回もまた、彼はそのように対処した。現在の悩みの種であるネクタイを切り刻み、あちこちのコンビニのゴミ箱に放り込んでいったのだ。とりあえず今、目の前にあるストレスから逃れることさえ出来れば、後はどうなろうと構わなかった。
買った覚えも、貰った覚えも無いネクタイが自分の部屋にある……そんな奇怪な事実など、今の彼にとってはどうでも良かったのである。それよりも、一グラムの覚醒剤がただで手に入る、という事実の方が孝雄にとって重要だった。
孝雄は電車を乗り継ぎ、阿倍との待ち合わせ場所に着いた。だが、阿倍はまだ来ていない。
苛々しながら、阿倍の到着を待つ孝雄。薬物の依存症患者には、様々な共通点があるが、時間にルーズな点もその一つだ。人を待たせることに、何のためらいもない。もともとの性格もあるのかもしれないが、薬物の使用も要因の一つであるのは間違いないだろう。
阿倍は待ち合わせの時間から、およそ十五分ほど遅れて現れた。自分よりも歳上なはずなのだが、小柄な体格と童顔ゆえに実年齢よりも若く見える。いや、幼く見えると言った方が正解か。
ポン中に限らず、中途半端な犯罪者というのは、実年齢より若く見える者が多い。それは、同年代の一般人と比べると社会での経験が浅いためである。社会人ならば味わうであろうことを一切経験せず、自堕落に生きてきた……それゆえ、顔には人間としての成長の痕が無い。
「いやあ、悪いねえ……遅くなってゴメンよ」
阿倍はヘラヘラ笑いながら、いかにも馴れ馴れしい仕草で孝雄の肩を叩く。その目はギラついており、覚醒剤が効いているのが一目で分かる。
孝雄は内心イラつきながらも、にこやかな表情で会釈した。
「いえいえ。お久しぶりですね。それより、本当にタダでいいんですか?」
「ああ、もちろんだよ。お前、マジでツイてるぜ。こいつは本当にいいネタだからよ」
言葉と共に、阿倍は封筒を取り出す。いかにも大物ぶった笑みを浮かべながら、孝雄の上着のポケットに入れた。
「本当にいいネタだぜ。気をつけてくれよ」
阿部と別れた後、孝雄はこっそりとパケの中身をチェックしてみる。
確かに、量は多い。一グラムは確実にありそうだ。これなら、一週間は持つだろう。孝雄は軽い足取りで帰途についた。




