六月六日 義徳、ちょっとイラつく
「あ、あのう、すみませんが……ここは?」
いきなり現れた珍客。彼女は、明らかに戸惑っているようだった。もっとも、仕事中に彼女に乱入された二人の男もまた、若干ではあるが困惑していた。
緒形義徳と西村陽一の二人は今、地下一階のオフィスに居る。ここは本来ならば、誰も来ない場所のはずだった。満願商事の社員でも、ここに足を踏み入れる者などほとんどいない。
だが、そこに一人の若い女が現れたのだ。化粧の薄く気の弱そうな、全体的にパッとしない印象の女だ。地味なカーディガンにスカート姿で、こちらをじっと見ている。明らかに場違いだ。恐らく、入社したばかりなのだろう。あるいは派遣社員か。
「いったい何の用ですか? 私たちは今、忙しいんですがねえ」
OL風の女に対し、冷たい口調で言い放つ義徳。恐らく、来る階を間違えたのだろう。さっさと追い払わなくてはならない。
だが、横から口を挟む者がいた。
「あ、義徳さん。これにちょっと目を通してもらえませんか?」
陽一が、メモ用紙の切れ端を差し出して来る。
その紙切れに視線を落とす義徳。だが、その表情が歪む。
(あの女、今すぐ始末しますか?)
義徳が顔を上げると、陽一は氷のような冷たい目でこちらを見ている。顔のどこにも、冗談だとは書いていない。むしろ、殺気すら漂わせている。
間違いない……この男は本気だ。自分が指示を出せば、このOLを何のためらいもなく殺すだろう。今すぐにでも。
「そうだなあ……いや、この件は俺に任せてくれ。陽一君の手を煩わせるほどのことじゃない」
努めて軽い口調で言いながら、義徳はOLの方を向いた。いかにも不快そうな表情で睨み付ける。
「君、いつまで居るんだ? ここは総務三課だよ。我々に何か用があるのか? だったら、突っ立ってないで用件を言いたまえ!」
鳩が豆鉄砲を喰らったような、きょとんとした表情で立ち尽くしているOLに向かい、義徳はキツい表情で怒鳴りつけた。
すると、OLの態度が一変する。
「あ、す、すみませんでした!」
OLは怯えた表情で頭を下げ、慌ただしく去って行った。
「いいんですか、行かせてしまって?」
ごく普通の口調で尋ねる陽一。義徳はぞっとなった。思った通り、この男は危険だ。健児とは全く違うベクトルを向いているが、共通する部分はある。既に人間を辞めてしまったような匂いを感じるのだ。
自分が殺れと言ったら、陽一は何のためらいも無く、あのOLを殺していたのだ。それも、今この場で。
「いや、いいよ。あの娘はどうせ、何も聞いてないだろうし」
「そうですかねえ。ああいう女は口が軽いんですよ……昔、部屋に置いといた拳銃を、当時付き合ってた女に見られたことがありましてね。仕方ないんで、口を封じました。あの時は本当に参りましたね」
苦笑しながら、そんな台詞を吐く陽一。義徳の目が、スーッと細くなった。
「死体の始末が面倒だ。それに、あんな女、放っておいても何もしないよ」
「どうですかねえ。ああいうタイプは、余計なことをベラベラ喋りますよ。まあ、俺は義徳さんの指示に従いますがね。殺せと言われれば殺しますし、殺すなと言われれば殺しません」
そう言って、陽一は手元の資料に視線を移す。
義徳はふと、疑問を感じた。目の前にいる男は、どんな経歴を経て今の生き方にたどり着いたのであろうか?
「陽一くん、言いたくなければ言わなくてもいいんだが……君は何故、こんな仕事を始めたんだい?」
「うーん……あえて言うなら、気がついてみたらこうなってました。それまでは引きこもりでしたし」
「えっ、引きこもり? 君がかい?」
さすがにびっくりして、思わず聞き返す義徳。だが、陽一は微笑みながら頷いた。
「ええ。俺は高校を中退して、家にずっと引きこもっていたんですよ。やってることといえば、誰も読みもしないような小説書いてただけです。勉強も仕事もせずに、ね。今思えば、本当に無意味な時間でしたよ」
淡々とした口調で語る陽一。だが、義徳は唖然としていた。陽一の過去は、想像とはまるで違っていたのだ。確かに、陽一の見た目は平凡である。パッと人目を惹くような特徴があるわけではない。
だが、その内に秘められたものは、平凡とは真逆である。この男はほんの数分前、本気であのOLを始末するつもりだったのだ。
怒りに任せて人を殺すのは、難しいことではない。怒りという感情は、強いエネルギーを秘めている。理性のタガを簡単に吹き飛ばせるくらいに。実際、口論の挙げ句に逆上し人を殺す……などという事件は、よくある話なのだ。
だが、心身ともに平静な状態で人を殺すのは、非常に難しい行為である。特に現代人の場合、平静な状態では死に物狂いのネズミ一匹ですら、殺すのは困難なのだ。ましてや人間を殺すことなど、心を意図的に狂わせない限り不可能であろう。
少なくとも、常人には……。
だが、陽一は違う。先ほど迷い込んできたOLを、陽一はぞっとするような目で見ていたのだ。自分が殺れという指示を出せば、陽一は何のためらいもなく即座に行動していただろう。
そんな義徳の思いをよそに、陽一はにこやかな表情で語り続ける。
「こう見えても、昔は小説家志望だったんですよ。それがいつの間にか、自分が小説の登場人物みたいな人生を送るハメになってましたね」
そう言って、陽一は自嘲気味の笑いを浮かべた。
「しょ、小説家かい」
「ええ、小説家です。もっとも俺に書けたのは、クソつまらない小説でしたがね。とあるネットの小説投稿サイトに載せてたんですが、誰も読んでくれませんでしたよ」
苦笑しながら、陽一は言った。
義徳は改めて、この奇妙な青年を見つめる。まさか、そんな過去があったとは想定外だ。少年時代の陽一は、今とは完全に真逆の人生を歩んでいたのだ。義徳はさらに尋ねた。
「なあ、その小説だが、まだ読めるのかい?」
「いや、もう読めませんね。既に、全作品を削除しましたから」
「そうか、それは惜しいな。是非とも読んでみたかったよ」
それは、お世辞などではない。義徳の偽らざる本音であった。この西村陽一という青年は、義徳の知るどのタイプにも当てはまらない。陽一のような青年の原点がどこにあるのか、今後も付き合わねばならない以上、ある程度は知っておきたかった。
「そうですか。お世辞でも嬉しいですね。でも、本当につまらないですよ」




