六月六日 将太、思考の迷宮にはまる
ふと気がつくと、既に夕方になっていた。
今日もまた、バイトを休んでしまっている。これで、二日目の無断欠勤だ。もはや、強制的にクビになってしまっているのではないだろうか。仮にクビになっていないとしても、どの面下げて出勤すればいいのやら……もう、バイトは辞めざるを得ないだろう。桜田将太は、思わずため息をついた。
これから、どうすればいいのだろうか?
やがて、将太は立ち上がった。そして、部屋の中を歩き回る。まずは今、自分の身に何が起きているのか……それを知らなくてはならない。
昨日は、ポストの中に紙切れが入っていた。あなたの家の近所には、殺人犯が住んでいます……と書かれた紙切れだ。ノートのページを破り、そこにボールペンで書いてポストに直接放り込んだように見える。しかし、誰が何のために、こんなことをしたのだろう。
今朝、またしても奇妙な紙切れが入っていた。
(あなたの家のすぐ近くには、佐藤隆司という名の殺人犯が住んでいます)
佐藤隆司とは、いったい何者なのだろうか。まったく聞き覚えの無い名前だが、本当に殺人犯なのだろうか……将太は念のため、佐藤隆司という名前をネットで検索してみた。だが、ヒットした件数はあまりにも多過ぎる。軽く一万件を超えてしまっているのだ……いくら何でも、これでは埒があかない。
そこで今度は「佐藤隆司 逮捕」で検索してみた。すると、一つの事件が浮かび上がってきたのだ。
今から八年ほど前のことだ……路上で数人の若者と口論になり、落ちていた角材を振り回して一人を殴り殺し、二人に怪我を負わせた男がいたらしい。男は駆けつけた警官に、傷害致死の現行犯で逮捕されたとのことである。
その男の名前が、佐藤隆司だった。
となると、その佐藤隆司が刑務所を出所し、この真幌市に住んでいるのだろうか?
それにしても、人ひとりを殺しておいて十年も経たずに出て来るというのは……いくら何でも、刑が軽過ぎないだろうか。人ひとりを角材で殴り殺したような男が、僅か数年の刑で自由の身となり、この周辺をのうのうと出歩いていていいはずがない。
もし、そいつを見つけたら……。
俺がきっちり痛めつけてやる。
将太は、本気でそう思っていた……だが当の自分も人殺しであることなど、彼はすっかり失念している。
将太にとって、闘いの末に人を死なせたことと殺人とは、また別のものなのだ。
そして、これは将太に限らず……アンダーグラウンドの世界に生きる者たちに共通の意識でもある。彼らは皆、法律よりも彼らの中での掟を重んずるのだ。彼らにとって、自分たちの掟に反する者こそが悪なのである。
その掟に反する者には、個人的な形での制裁を加える。それが、彼らのやり方なのだ。暴走族やギャングといった連中も、ヤクザやマフィアのような集団も、その点に関しては変わらない。
その時、テレビから流れてくるアナウンサーの言葉を聞き、将太はふと眉を潜めた。
(昨夜……真幌市にて、またしても絞殺死体が発見されました。被害者は真幌市在住、十九歳の大学生である麻木洋子さんです。麻木さんは一人暮らしをしており、自宅のリビングにて紐のようなもので首を絞められて殺害されていました。さらに現場には、灰色のネクタイが残されているとのことです。真幌市では、若い女性が絞殺される事件が相次いでおり、警察では関連を調べております……)
将太は、テレビの画面をじっと眺めた。どうやら、また絞殺魔の犠牲者が出たらしい。数日前から、真幌の絞殺魔などとマスコミが騒いでいる。しかし二〜三日前に、怪しい男が警察に事情聴取を受けているという報道を聞いた気がするのだが……してみると、真犯人は別にいるのだろうか。
まあいい。今の自分には関係ないことだ。もし真犯人が目の前にいたら、確実に仕留めてやるのだが……それは無理な話である。
それよりも、この手紙のような紙切れを自分の家のポストに放り込んでいく者の目的は、いったい何なのだろうか。これで二度目である。もっとも、今の自分にはそれを知る術はないのだが。
いや、ちょっと待てよ。
その時ふと、将太の頭に妙な考えが浮かんだ。ひょっとしたら、その佐藤隆司こそが絞殺事件の真犯人なのではないだろうか。このメッセージを書いた者は、佐藤隆司の凶行を止めるために、自分に手紙という形で知らせているのではないのか?
しかし、将太は首を振った。いくら何でも、それはあり得ない。考え過ぎだ。そもそも、こんな回りくどい方法を使う必要などないだろう。
自分はどうかしている。こんな狭い部屋にじっと閉じ籠り、座ったまま考えてばかりいた。そのせいで、思考がおかしな方向に向いている。
やがて、将太は立ち上がった。両足を肩幅くらいに開き、左足を前に出す。次いで、両拳を顔の位置まで上げて構える。
その構えから、虚空めがけてパンチを繰り出す。鋭く早い左ジャブ、腰の回転を利かせた右ストレート、さらに体重を乗せた左フック……目に見えない何かに向かい、パンチを次々と繰り出す。
次第に、体が温まってきた。額には汗が滲んできている。それとともに、心のモヤモヤもすっきりしてくる。将太は頭の中に次々と湧いてくる雑念を、体を動かすことで振り払おうと考えたのだ。このままでは拉致があかない。今の自分は思考の迷宮にはまりこんでしまっている……まずは、気分を変えよう。
シャドーボクシングを続けているうち、全身から汗が滴り落ちていた。それでも、将太は動くことを止めない。虚空に向かい、拳を打ち出す。左ジャブ、右ストレート、左フック……多彩なパンチのコンビネーションを放っていく。体を動かし汗を流しながら、己の心の中で蠢いているものと真正面から向き合い、その声に耳を傾ける。
今さら、じたばたしても仕方ねえ。
まずは、相手の出方を窺うとするか。
ここはまず、様子見だ。普段通りに生活しよう。
そこまで考えた時、将太はある事実に気づいた。自分は恐らく、バイトをクビになっているはずだ。となると、この先の生活費をどうやって稼げばいいのだろう?
将太は動きを止めた。汗を拭き、水を飲む。こうなったら仕方ない。まずは、職探しに集中しよう。仕事が見つかるまでは、夜のトレーニングはお預けだ。当分の間、おとなしくしているとしよう。




