六月六日 孝雄、部屋で怯える
一体、どうなってるんだよ……。
塚本孝雄は、呆然とした表情でベッドの下にある物を凝視する。出来ることなら、覚醒剤のもたらす一日限りの幻覚であって欲しかった。こんな物が、自分の部屋に存在するはずがないのに……。
だが、十数時間が経過した今でも、それはベッドの下に存在していた。あたかもホラー映画に登場する禍々しい亡霊のように、ベッドの下からじっと孝雄を見つめていたのだ。孝雄は蛇に睨まれた蛙のように、じっと動けなかった。
孝雄は必死で、ここしばらくの自分の行動の記憶を掘り起こしてみる。ひょっとしたら、あれは以前に買ったことがあるのかもしれない。その事実を、自分が忘れているだけなのだとしたら……。
しかし、孝雄の中にそんな記憶はなかった。頭の中にある引き出しを全て開けてみても、こんなものを買ったという記憶は見つからない。そもそも、こんなものを自分が買うわけが無いのだ。そんな金があるなら、少しでも多く覚醒剤を買おうと考えるのだから。
ひょっとしたら、俺は夢遊病なのだろうか?
眠っている間に、あちこちをさ迷い歩いているのかもしれない……。
ふと、そんな考えが頭を掠める。長らく覚醒剤をやっていた者の中には、睡眠障害を発症しているケースも少なくない。寝たままあちこちを徘徊してしまうような症状もあるのだ。症状が重くなると、意識がないまま外に出て、人と話したり買い物をしたりするケースもあるという。
いや、違う。
俺の金は、減っていなかったぞ。
あんなもの、買っているはずがない。
そうなのだ。財布の金は減っていないし、レシートらしき物もない。店で買ったような気配が、部屋のどこにも無いのだ。
となると、誰かがこれを自分の部屋に置いたとしか思えない。自分が留守にしている間に、何者かが部屋に侵入した。そして、あれを部屋に中に置いて、こっそりと立ち去る……。
「バカバカしい! んなこと有り得ないだろうが!」
孝雄は一人で、思わず怒鳴っていた。どこの何者が、どんな理由でそんなことをするのだ? 自分のような人間を引っかけて、何の得がある? 何のメリットもないではないか。
しかし、現に買った覚えの無い物がある。これは一体、どう説明すればいいのだろう……。
孝雄の頭から疑問が離れず、同じところを堂々巡りしている。このままでは埒があかない。強引ではあるが、昔どこかで買って、その事実を忘れている……それで自身を納得させるしかない――
いや、待てよ。
無い物を、現実に有る物として知覚してしまう……昔、そんな病を抱えた主人公の映画を観たような記憶がある。ひょっとしたら、自分もそういう状態なのではないか?
俺の今、見ている物は……本当に現実なのだろうか?
今、俺は夢を見ているのかもしれない。
孝雄の頭に、そんな考えが浮かぶ。
まともな人間なら、バカバカしくてたどり着かないであろう結論だ……しかし、覚醒剤に思考を支配されている人間は、たとえバカバカしい結論でも気になってしまうのだ。ポン中という人種は、日常生活によくある僅かなズレ、ちょっとした歪みなどが気になって仕方ない。さらに、そのズレから有り得ないような恐ろしい事態を想像する。
ジャブぼけ、もしくはヨレていると表現される、この状態……覚醒剤依存症には有りがちなのだ。誰かの発したつまらない言葉がきっかけとなり、あらぬ妄想に取り憑かれた挙げ句に他人を刺し殺してしまう……。
実は、このような事件は枚挙に暇がないのだ。ただし、殺人と薬物とでは扱いに大きな差がある。殺人で逮捕された場合、薬物の使用についてはいちいち調べたりはしないのが普通だ。もちろん、明らかに挙動不審な場合や、取り調べの際に容疑者のポケットから覚醒剤のパケが出てきたりした場合は話が別だが……。
警察官も人間である。大きな犯罪について調べている最中に、好き好んで小さな犯罪について調べたりはしない。
今の孝雄もまた、思考と疑念の堂々巡りを続けていた。いったい何が起きているのか。誰かが、自分を嵌めようとしているのか?
それとも、自分は人殺しなのだろうか?
ややあって、孝雄は決意した。このままでは埒があかない。まずは、ベッドの下にある物を調べる必要がある。
孝雄は、ベッドの下にそっと手を伸ばした。己れを悩ませている物を掴み取り、ベッドの下から引きずり出した。
それは、灰色のネクタイである。
今、世間を騒がせている真幌の絞殺魔……犯人は灰色のネクタイで女を絞殺し、そのネクタイを死体に残したまま立ち去って行くのだという。既に、三人の女が殺されているのだ。
もっとも、テレビのワイドショーによれば……その犯人らしき男は今、警察に取り調べられているとのことだ。今のところは、重要参考人として事情聴取を受けている、というオブラートに包んだ形で報道されている。
しかしマスコミのあの取り上げ方からして、警察が犯人であると判断している可能性は高い。いずれ容疑者として実名が報道されるのも、時間の問題だろう……。
だが、もし自分が真犯人なのだとしたら?
知らない間に、次々と女を絞殺していたのだとしたら?
「バカバカしい! 有り得ないだろうが!」
またしても、自分に怒鳴りつける孝雄。そう、有り得ない話だ。いくら何でも、自分が殺人を犯すはずがない。何のためにそんなことをする?
しかし、その時……孝雄は思い出した。これまでに友人知人から聞いた、数々のポン中の末路を。「電波が聞こえる」などという妄想に取り憑かれ、通り魔と化した者。幻覚に追われ、走ってくる電車に飛び込んだ者。他にも、そういう者は大勢いる……。
ついに自分にも、そういった末路が訪れるのではないのか?
孝雄は頭を抱えた。覚醒剤が、最悪の形で彼の精神を蝕んでいる。こういう場合、どうすればいいのだろうか?
(ネタ食って幻覚を見たり幻聴を聞いたりするようになったら、まずは眠ることだ。目を瞑って横になっているだけでも、ずいぶん違うから)
前に言われたことを思い出し、孝雄は布団を被る。布団の中で、現実を拒絶し目を閉じた。
再び目を開ける時、全てが丸く収まっていてくれることを祈りながら。




