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六月一日 孝雄、ネタを買う

 塚本孝雄ツカモト タカオは憤りを感じた。

 差し出されたパケの中に入っている粉末は、いつもより更に少ない量だったからだ。

「おい、何だよこの量は! おかしいだろうが!」

 目の前の男に、そう怒鳴りつけたい気分を必死で押さえていた。今のところ、覚醒剤を手に入れるには……目の前にいる小津オヅに頼むしかないのだ。ここで小津と揉めてしまったら、覚醒剤は手に入らなくなる。

 小津もまた、そのことを知った上でふざけた真似をしているのだ。小津はプロの売人ではない。むしろ、プロの売人から買っている側の人間である。売人から覚醒剤を買う。その覚醒剤をさらに小分けし、ぼったくりに近い値段で孝雄のような人間――買うための独自のルートを持たない者――に売りつける。それが小津の手口だ。

 結局、覚醒剤の末端価格を高騰させているのは、小津のようなチンピラの存在である。むしろヤクザの方が、ずっと良心的な値段で販売しているのだ。


 もっとも、覚醒剤のパケをポケットに入れた途端、孝雄の怒りは薄れていたが。そんなことより、一刻も早く覚醒剤を射ちたい……孝雄は自転車に乗り、家に急いで帰ろうとペダルを漕いだ。

 しかし、前から警察官がやって来るのが見えた。自転車に乗った、パトロール中の警察官だ。孝雄の鼓動は早くなり、体には緊張が走る。だが、孝雄はそのまま自転車を走らせた。ここで、急に向きを変えるのはバカのすることだ。孝雄は平静を装い、そのまま進み続ける。

 幸いなことに、警察官は孝雄に何の注意も向けなかった。孝雄と警察官はすれ違い、そのまま走り去って行く。

 孝雄は内心、胸を撫でおろした。警察官に会ったからといって、向きを変えて逃げるのは……俺は法に触れる行為をしてます、と宣言しているのと同じだ。こういう時には、避けずに何食わぬ顔で通り過ぎるのがセオリーである。孝雄はそれを、知人や先輩たちから学んだ。もっとも、そのほとんどが今は刑務所にいるが。


 何事もなく、無事に家にたどり着くと、孝雄はすぐさま部屋に駆け込む。

 そして、隠しておいた注射器を取り出した。注射器の中に、白い結晶のような覚醒剤を少しずつ入れていく。

 やがて、注射器の目盛り十のところまで粉末が入った。孝雄は、その注射器で水を吸い上げる。すると、水が粉末を溶かしていく……注射器の中で、覚醒剤の水溶液が出来上がった。

 孝雄は左腕を伸ばした。左肘の内側にある、ひときわ太い静脈に注射器の針を突き刺していく。すると、静脈内の血液が僅かながら注射器に入りこむ……静脈に、ちゃんと突き刺さった証だ。

 その時、孝雄は注射器の中身を一気に注入した。覚醒剤の水溶液が、静脈へと流れ込んでいく。

 次の瞬間、頭を突き抜けるような独特の快感に襲われる。脳内に、強烈な波が襲ってきたような衝撃だ……そのまま気絶してしまいそうな感覚に何とか耐え、孝雄は注射器の中にもう一度血液を入れた。さらに、また注入する。注射器に残った水溶液を、全て血管に注入するためだ。

 それが終わると、孝雄は震える手で注射器と覚醒剤の入ったパケをDVDのケースに入れた。その顔には、奇妙な表情が浮かんでいる。瞳孔は大きく広がっており、尋常でない雰囲気を漂わせていた。まるで、何かに取り憑かれているかのようだ。


 孝雄の生活は、覚醒剤を中心に廻っている。現在、定職には就いていない。建設作業員などのアルバイトで、一週間ほど働いて金を貯める。その金で覚醒剤を買い、ずっと射ち続けるのだ。その間は家にこもったままである。食事も睡眠もほとんど取らないまま、薬のもたらす快感に溺れるのだ。


 こんな爛れた生活を、孝雄は二十歳そこそこの頃からずっと続けている。覚醒剤を買うためにのみ、生きている日々……そうしているうちに、いつの間にか二十六歳になっていた。まともに暮らしている友人たちとは疎遠になっている。そもそも、孝雄の周囲にはそういった人間がほとんど居なかったのだが。

 結果、孝雄はますます覚醒剤にのめり込んでいった。将来には何の希望も抱けず、友は離れて行き、社会的には存在していないも同然である。両親も、さじを投げているような状態だった。覚醒剤をやっていることには、まだ気づかれてはいないようだが……。




 孝雄が覚醒剤を始めたのは二十歳の時だ。都内でも指折りの低レベルな工業高校を卒業した後、運送会社に就職した。だが、高校時代の悪友たちとの付き合いは残っていた。たびたび彼らとつるみ、休みの日には夜通し遊んでいたのだ。

 そんな時、仲間の一人から覚醒剤を勧められた。


 抵抗がなかった、と言えば嘘になる。だが当時、仲間たちが勧めてきたのはガラス製のパイプだった。ガラス製のパイプに覚醒剤を詰め、ライターの炎で炙るのだ。そして気化した覚醒剤を吸い込む……周りにいる友人たちは普通に吸っていた。映画やドラマで描かれているような、キチガイじみた状態には陥っていない。覚醒剤中毒者の映像描写といえば……半開きの口からよだれを垂らし、意味不明なことを叫びながら通行人に襲いかかる、といったものが一般的だ。

 しかし、孝雄の目の前にいる者たちは、そんな状態になっていない。一見すると、みな普通の状態だ。

 大したことないじゃねえか。そう思いながら、孝雄はパイプの中の煙を吸いこんだ。

 直後、特に何か変化があったわけではない。気化した煙には、味があるわけでもない。タバコの煙より吸いやすかったし、むせるようなこともない。格別、愉快になったわけでもない。

 にもかかわらず、気がつくと朝になっていた。疲れはなく、楽しい一時を過ごしたなあ、という気持ちだけが残っている。よく言われるような幻覚も見なかったし、幻聴も聞いてはいない。

 当時の孝雄は、覚醒剤ってこんなもんか、としか思わなかった。









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