scene 07「汚らわしく散る」
算数が苦手なわけではない!(何
みゆきは、三日続けて部活を休んだ。
いや、厳密には欠席ではない。退部届を提出していないだけで、もう行くつもりはなかった。みゆきはバスケ部を辞めたのだ。
そして、ダラダラと何もない日々を過ごしているうちに、やがて土曜日を迎えた。
みゆきは沈んだ気持ちを切り替えると、朝一番で尚人の家を訪れた。その距離、徒歩にして約十秒。自宅を出てササッと歩けば、そこはもう幼なじみの家だ。
「絶対に逃がさないからね、尚人!」
決意を胸に宣言する。
早朝からの「監視」で、尚人が外出していないことは知っていた。いきなり家に押しかければ、ふたりきりで話すことができる。それがみゆきの狙いだった。
(宮下千尋、あの女狐の陰謀を暴いてやる!)
みゆきは納得していなかった。どうして尚人が、急に千尋と交際を始めたのか。何か事情があるとしか思えなかったのだ。それを突き止め、ふたりの仲を引き裂いてやるつもりだった。
尚人の家の前で深呼吸をしたみゆきは、エイッとばかりにインターホンを押した。すると、すぐに見慣れた顔がドアから現れた。尚人の母親だ。
「あら、みゆきちゃん。いらっしゃい」
「おはようございます、おばさん。尚人いますか?」
もちろん尚人がいることは承知で、みゆきはそう訊ねた。
「ええ、部屋で寝ぼけてるわよ。入ってちょうだい」
「お邪魔します」
勝手知ったる幼なじみの家。みゆきは玄関で靴を脱ぐと、リビングのドアを通り過ぎて階段に向かった。尚人の部屋は二階にある。
「あ……」
踊り場のところで、壁に付いた小さな傷が目に入る。
「これ、ちーちゃんが付けたヤツ」
ふと子供の頃を思い出した。妙に懐かしくて、みゆきの顔に知らず笑みが零れた。
彼女の脳裏に浮かんだのは、もうひとりの幼なじみ「ちーちゃん」のことだった。といっても、覚えているのはそのあだ名だけだ。顔も本名も、今ではすっかり忘却の彼方だった。
ちーちゃんは幼稚園のとき、両親の離婚が原因で引っ越してしまったのだ。尚人はその別れを悲しんだが、彼とちーちゃんの仲を嫉妬するみゆきにとっては、まさに平穏の訪れだった。尚人を独占できることが、幼い頃のみゆきはこの上なく嬉しかった。
しかし今度は、その平穏を宮下千尋が奪っていったのだ。
(何としても取り返してやるんだから!)
みゆきは再び決意を固めると、尚人の部屋のドアをコンコンとノックした。
「おはよう、尚人」
「……」
寝癖頭の尚人が、仏頂面でみゆきを迎え入れる。いかにも嫌そうな態度だった。母親が家に入れてしまったので仕方なく、という気持ちがありありと窺えた。
もちろんそれは、みゆきが見越した通りの展開だった。
「おまえさ、俺もうカノジョいるんだぞ。少しは遠慮しろよ。そこんとこ分かってるか?」
「ごめん。でも、そのことで話をしたかったから」
尚人の冷たい言葉にも挫けることなく、みゆきは気丈に会話を続けた。
「単刀直入に訊くけど、尚人は本当に宮下さんのことが好きなの?」
「……ああ、この前そう言っただろ」
後ろめたそうに視線を逸らした尚人は、感情の欠落した声でそう答えた。
――どう見ても怪しい。
やはりふたりの交際には何か裏があるのだと、みゆきは改めて確信した。
「ウソつかないで、本当のこと言ってよ!」
みゆきが語気を荒らげて言うと、尚人は露骨に顔をしかめた。
「べ、別にウソじゃねえよ。第一どうしてみゆきが、そんなこと気にするんだよ?」
「どうして? そんなの――」
ずっと抑えていた感情が、みゆきの中で一気に爆発する。
「尚人が好きだからに決まってるじゃない!」
思わず叫んでいた。
「意地悪なこと訊かないでよ。わたしが尚人のこと好きだって知ってるでしょ?」
「それは……」
尚人は、ゴニョゴニョ言いながら俯いてしまった。
最悪な告白だ。
みゆきは、頬が熱くなるのを感じた。つい勢いで言ってしまったが、ここまでハッキリと好意を示したのは初めてだった。そして、尚人に想いを告げてしまった以上、もうあとには退けなかった。千尋から尚人を奪い取るしかない。
みゆきは直球勝負に出た。
「お願い、宮下さんと別れて! 幼なじみじゃなくて、恋人としてわたしと付き合って!」
「いや、それは……」
「わたし、尚人の理想の女性になれるように努力するから!」
プライドをかなぐり捨てて必死に懇願する。それでも尚人は、決して首を縦に振ろうとはしなかった。
「だったら!」
みゆきの声がにわかに上ずる。
「カラダで……。最初はカラダ見当てでもいいから」
尚人は途端に表情を曇らせた。
「おまえ、どうしてそこまで俺のこと……?」
「分からないよ。だけどわたしは尚人のことが好きで、ずっと好きで、ずっとずっと見てきたから。尚人のいない人生なんて考えたことないし、考えられないの。だから……お願い」
理屈ではなかった。
みゆきにとって、尚人は欠かせない存在なのだ。
「わたし本気だから。カラダなら宮下さんに負けないと思う。ほら、確認してよ」
みゆきはそう言うと、ゆっくりとブラウスのボタンを外した。
こんなことで尚人の心を繋ぎ止めても意味がないことは分かっている。それでもみゆきは、尚人を取り戻せる可能性があるならば、何でもやる覚悟だった。もはや千尋の陰謀など、どうでもよくなっていた。
みゆきのブラウスがパサリと床に落ちると、尚人は目に見えて狼狽した。
「バ、バカ、やめろ!」
「下におばさんがいるから?」
「そういうことじゃ――」
「だったら場所を変える?」
「だから、そういうこと言ってんじゃねぇよ! 汚らわしいから、脱ぐのやめろっての」
「汚らわ……」
みゆきは絶句した。ショックだった。
まさか、自分の身体を汚物のように言われるとは思いも寄らなかったのだ。悲しくて、情けなくて、いつの間にか涙が両頬を伝い落ちていた。
「もう帰ってくれ」
尚人は、みゆきの身体にまったく興味を示さなかった。
昔のままだ。幼なじみの距離は、思春期を迎えた今も変わらなかった。恋愛どころか、異性として意識すらされていない。これまでの素っ気ない態度も、照れ隠しではなく単に興味がなかっただけなのだ。
どんなに努力を重ねたところで、これでは尚人の心を捉えることは永遠にできないだろう。彼は決して手の届かない場所にいるのだ。そう思うと、みゆきは絶望的な気持ちになった。
「分かった、帰る。もう二度と来ない」
力なく告げる。
みゆきはブラウスを着ると、勢いよくドアを開けて尚人の部屋を飛び出した。廊下で驚いた顔のおばさんと擦れ違ったが、気にも留めなかった。
一体どうやって帰ったのか、気づけば自分の部屋のベッドで俯せに倒れていた。とめどなく溢れる涙が、枕に黒いシミを作って広がる。まるで、今のみゆきの心を投影しているかのようだった。
「手に入らないのなら、いっそ……」
涙声でつぶやくみゆきの胸中に、ドス黒い感情の炎がチロチロと揺れ動いていた。




