scene 01「貧弱なストーカー」
「よし、今日の練習はここまで!」
体育館の広い天井に、阿久沢尚人の凛々しい声が響き渡った。
男子バスケ部の部員たちが、その声に応じて和気藹々とコートを引き上げていく。
となりのコートでドリブル中だった岡部みゆきは、男子バスケ部が立ち去る様子を横目で確認すると、露骨に顔をしかめた。
(ああんもう、尚人が先に行っちゃう!)
男子と同時に終わらせてくれれば良いのだが、女子バスケ部の部長はキリの悪いところでは終わりにしない性格だった。今も単なるスリーオンスリーの練習なのに、どちらかがシュートを入れるまでは決して終了しない。
みゆきは早く練習を終わらせようと、崩れた体勢のままスリーポイントシュートを放った。
彼女の手から離れたボールは、鮮やかな放物線を描くと、パスッという心地よい音を立ててリング中央に吸い込まれた。おお、と周囲がどよめく。
「はい、じゃあ女子も終わりにしましょ」
部長が、パンパンと両手を叩いて部活終了の合図をする。みゆきは待ってましたとばかりにボールを片付けると、脇目も振らずに女子更衣室に飛び込んだ。
早くしないと尚人が行ってしまう。
みゆきは、いつも待ってくれない照れ屋の幼なじみを恨めしく思った。
「早く、早く――」
淑やかさもあらばこそ、ロッカーの扉を豪快に開け放つ。
みゆきは素早く着替えると、乱れたショートヘアにサッと櫛を入れた。備え付けの鏡には、キリッとした眉目のボーイッシュな少女が映っている。
鏡を見つめていた彼女に、あとから入ってきた女子部員たちが冷やかしの声をかける。
「ほらほら、のんびりナルシストしてると阿久沢先輩が行っちゃうぞ!」
「はぁ~、それにしてもみゆきはいいよね。あんなステキな幼なじみのカレシがいてさ」
みゆきは慌てて振り返った。
「違っ! 尚人はそういうのじゃなくて、ただの腐れ縁ていうか……」
否定しながらも、ついつい頬が緩んでしまう。
阿久沢尚人は、みゆきよりひとつ年上の高校二年生。男子バスケ部に所属し、その部長を務めている。運動神経は抜群で、整った目鼻立ちと相まって女子生徒に人気だった。
そんな尚人のカノジョと目されて、みゆきも満更ではなかった。口では何だかんだと言いながら、相思相愛の仲を自認しているのだ。
「待ってよ、尚人!」
更衣室から校門前まで猛ダッシュしたみゆきは、すぐさま尚人の背中に追いついた。
「おっと、お姫様の登場だ」
尚人と一緒だった男子部員たちが、軽口を叩きながら四方に別れ散る。幼なじみのふたりに気を利かせたのだ。しかし振り返った尚人は、迷惑そうに眉をひそめた。
「おまえさ、たまには女子の友達と一緒に帰ったら?」
「何でよ。尚人とは家がとなり同士なんだし、別にいいじゃない」
そもそもみゆきは、尚人と一緒に帰りたくてバスケ部に入部したのだった。別々に帰ったのでは、好きでもないバスケ部で汗を流す意味がない。
本当は、男子バスケ部のマネージャーがみゆきの第一志望だった。一緒に帰ることが目的なら、マネージャーのポジションこそが最も理想的だろう。しかし、マネージャーひとりの募集に希望者が殺到したため、みゆきは選に漏れてしまったのだ。
「たまにはさ、尚人がわたしのこと待っててよ」
背の高い尚人を見上げて、みゆきが小さな唇を尖らせる。
「めんどくさい」
尚人はそっぽを向いたまま、小声でボソボソと答えた。
「ふんだ、相手が『ちーちゃん』なら絶対待つクセに。尚人はちーちゃんラブだもんね」
「そ、それは子供の頃の話だろ! ほら、行くぞ」
尚人はムキになって言うと、誤魔化すように早足で歩き出した。
みゆきが、慌ててそのあとを追う。
「ごめんって、もう言わないから待ってよ!」
何とか歩調を合わせて、みゆきは尚人のとなりに並んだ。
赤く染まった夕陽が、ふたりの影を長く伸ばしていく。会話が弾むことはあまりないが、ふたりきりになれる貴重な時間だった。
それだけに、みゆきにはどうしても許せないことがひとつあった。
(今日こそは、あの邪魔者を排除してやるんだから!)
チラリと視線を横に走らせる。
通学路の脇道。その狭い曲がり角に、こちらの様子を窺う男子生徒の姿があった。顔は影になって見えないが、着ている制服は尚人と同じものだ。
みゆきが彼の存在に気づいたのは、ちょうど一週間前。最初はただの偶然かと思ったが、何度も同じ場所で見かけては、さすがに疑わざるを得なかった。
――彼はストーカーに違いない、と。
だからみゆきは、尚人をカレシだと紹介して追い払ってしまえばいいと考えていた。それなら、さりげなくカップル宣言もできて、まさに一石二鳥だ。
「ねえ尚人、気づいてる?」
「ん、何が?」
「ここ最近、わたしのこと見てるヤツがいるの。あれってストーカーよ」
「へぇ、そいつはまた物好きな……あっ!?」
みゆきが目配せした方角を見やると、尚人は言いかけた軽ロを引っ込めて短く叫んだ。その顔が見る間に青ざめる。本当にストーカーがいるとは思わなかったのだろう。
「大丈夫、わたしが追い払ってくるから」
みゆきはそう言い置くと、ストーカーを退治すべく脇道に向かって走り出した。
「ちょ、ちょっと待て!」
「待たない」
尚人の制止を振り切り、猛然と曲がり角に迫る。
「ちょっとあんた!」
みゆきが叫ぶような勢いで言うと、壁際に隠れていた男子生徒はビクンと身体を震わせた。
「あ……」
小さく声をあげ、怯えた様子でみゆきを見返す。
線の細い顔に、華奢な体格。その男子生徒は、今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。外見も態度も、みゆきの方がよほど男らしい。
「いつもここで、わたしのこと見てるでしょ? 悪いけど、わたしには尚人っていう立派なカレシがいるの。遠慮してもらえないかな、ストーカーさん!」
みゆきがビシッと指先を向けて言い放つと、男子生徒は驚愕と困惑を混ぜ合わせたような顔つきになった。
「そんな、僕のことが……」
小さな口から、女子のようなハイトーンボイスが零れ落ちる。男子生徒は、みゆきから目を逸らすと、助けを求めるように尚人を見た。媚びを売るような眼差しだ。
その態度に苛立ちを覚えたみゆきは、さらに食ってかかろうとする。しかし、それより先に背後から肩を掴まれた。
「もうやめろ、みゆき。遠山が困ってるだろ」
尚人の言葉を耳にして、みゆきは即座に振り返った。
「遠山!? 尚人、この人のこと知ってるの?」
「……ああ、俺と同じクラスの遠山ヨシキだ。悪いヤツじゃないよ」
そう言われて、素直に納得できるみゆきではなかった。
「でも毎日わたしのことコソコソ見てるし、どう考えてもストーカーでしょ。クラスメートなら、尚人からも言ってやってよ。この辺をウロチョロするなって」
みゆきが催促すると、尚人は眉間にシワを寄せた。
「いや、それはおまえの思い込みじゃないのか。別に何かされたわけでもないだろ?」
「……まあそうだけど。でも何かされてからじゃ遅――」
「とにかく、証拠もないのに疑うのは失礼だぞ!」
それは確かに正論だったが、尚人が彼を庇っているようにしか思えず、みゆきは不愉快だった。尚人の態度が、どうにも腑に落ちなかった。
「百歩譲ってストーカーじゃないとしても、壁際に隠れていたら不審者よ。今度この辺りで見かけたら警察に通報するから、覚悟しなさいよ!」
遠山をキッと睨みながら、みゆきは脅しつけるように言った。
「と、とにかく遠山は、その、何というか、あまり寄り道しない方がいいぞ」
みゆきに続いて、尚人がしどろもどろに言う。すると遠山は、恨めしそうにふたりを一瞥してから、夕焼けの向こうに姿を消した。
――この些細な出来事が、みゆきの人生を大きく狂わせることになるとは、このときの彼女は知る由もなかった。




