第九話 『許容』
教室に忘れ物を取りに戻った海鉾さんを待っていた私と土館さんは、遷杜様からの電話の後、急いで教室へと向かった。
「これは……いったい……」
息を切らし、汗をかきながら教室の手前に辿り着いたときのことだった。遠目にもよく分かるくらいに、教室の中が一面真っ赤に染まっているのが見える。私は最初、地獄のようなその光景の正体が何なのかを理解できず、思わず絶句して立ち竦んでしまった。
しかし、意を決して教室の中を覗くと、そこにはまさに惨状と呼べる光景が広がっていた。
教室の中は、ある二点を中核にするかのように辺り一面真っ赤に染まっている。教室の四方を囲んでいる透明な強化ガラスだけでなく、天井や床、机や椅子までもが例外なく。その真っ赤な色の正体は紛れもなく、血だ。人間の体の中から流れ出した、大量の血に他ならない。
ふと見てみると、教室の床一面に広がっている血の海の中に、いくつかの塊が浮いていることが分かる。少しだけ教室に足を踏み入れてそれを確認してみると、それは人間の右足と左足なのだということが分かった。また、それとは少し離れたところには、人間の右腕と思わしき物も浮いており、他には、弾力のありそうなゼリー状のものや白くて硬そうな何かの破片も浮いている。
「……誰が……誰がこんなことを……っ!」
そんな血の海の中に一人、遷杜様はいた。何か、真っ赤に染まった制服に包まれている、大きな塊を抱えながら。それによって、自分の体も真っ赤に染まってしまっているのにも関わらず、そんなことはまるでどうでもいいことかのように。遷杜様が抱えている塊はまるで、人間の上半身のように見えた。遷杜様はその塊を力強く抱き締めながら大粒の涙を流し、怒りを表す大声を上げている。
まるで現実味のない惨状を目の当たりにした私はどうすることもできず、しばらく教室の入り口で沈黙しているしかなかった。でも、何もしなければ何も始まらない。そう考えて無理やり自分を納得させ、遷杜様に話しかけた。
「遷杜様……『それ』はもしかして……」
「ああ……」
「……っ!」
私が声をかけると、遷杜様は抱き締めていた塊から少しだけ力を抜き、その前面に相当する部分を見せた。その塊は……先ほど遷杜様が電話で言っていたように、冥加さんの上半身だった。冥加さんは寝ているのか、それとも死んでいるのか分からないほど、安らかな表情をしている。
冥加さんは胸から下の部分……厳密には肋骨から下の部分の体を失って死んでいる。真っ二つに引き裂かれた上半身の切り口からは肋骨や背骨と思わしき白い骨と、どの部分なのかは不明だけど内臓も見えており、今でもそこから流れ出る血は一向に治まる気配を見せない。
冥加さんの身に何があって、こうなってしまったのかは分からない。でも、目の前に広がっている惨状と冥加さんの体の状態から推測するに、教室の床一面に広がっている血の海に浮いている二本の足は冥加さんのものなのだということが推測できる。
おそらく、冥加さんは何者かによって、腹部から腰までを爆弾かそれに類似する何かで吹き飛ばされてしまい、上半身の肋骨より上の部分と足の部分の二つに分断されてしまったのだろう。教室中に広がる嫌な匂いの正体は大量に撒き散らされている血だけでなく、冥加さんの体内から飛び出た内臓のせいでもあるのかもしれない。
私は知っている。人間の体をこんな風に真っ二つに分断させる威力を持つ場合もある、設定の仕方では非常に殺傷能力の高い特殊拳銃のことを。そして、私の身近にいて、その特殊拳銃を持っている人物のことを。
でも、私がその人物に渡した特殊拳銃の設定は殺人を犯せるような状態ではなかったはずなのに、どうして――、
「それで、そこに落ちている足は冥加君のものだとして、『これ』は海鉾ちゃんのものってことになるんだよね? あ。そういえば、木全君はいつ、どうしてここに?」
「……土館……さん……?」
不意に、それまでずっと黙り込んでいた土館さんがそんなことを言い出した。私は俯けていた顔を上げて返答してみると、いつの間にか土館さんは教室の中央付近に行っており、教室の床一面に広がっている血の海に浮いていた右腕と思われる塊を拾い上げていた。
何のためらいもなく、ただただ無感情に。
土館さんが拾い上げた右腕と思われる塊からボタボタと絶え間なく血が滴り落ちる。また、そのたびに、教室の床一面に広がっていた血の海に落ちた滴が跳ね、土館さんが履いている靴やソックスに薄っすらと赤い斑点を染み込ませる。
軽く、しかし容易に狂気を感じてしまうようなその絵に、私は驚きを隠せなかった。しかし、冥加さんの死体を長時間見てしまったことで感覚が狂ってしまったのか、遷杜様は土館さんの状態に驚きもせず、台詞を返した。
「俺は一階の階段付近で冥加のことを待っていた。どうやら天王野に呼ばれていたらしいことは分かっていたからな」
「あー、確かに、教室でそんな会話があったね。どうやら、あの二人は私たちに気がつかれていないと思っていたみたいだけど」
「……? そうだったんですか? まったく知りませんでしたわ」
「それもそうだよね。今日一日、ずっと金泉ちゃんは『なぜか』ボーっとしてたもんね」
「……っ」
土館さんは海鉾さんの右腕と思われる塊を持ちながら、笑顔で、しかしやけに憎々しい感じで私にそう言った。土館さんの言う通り、今日私は一日中ボーっとしてしまっていた。何をするにしても集中できず、まったく周囲に気を配れない状態だった。
だからとはいえ、土館さんの発言にはどこか引っかかる部分があった。つい先ほどまで、正確には遷杜様から電話があるまでは一昨日までの正常な土館さんだったはずなのに、今はそうではないように思える。具体的には、昨日の捜索の帰り道のときのような、あの異常な土館さんに戻ってしまったのではないかと感じられる。
私が土館さんの姿と台詞に圧倒されている間も、遷杜様と土館さんの会話は続く。
「冥加と天王野が放課後に二人で残って話をするなんて珍しいと思っていたが、それほどおかしいことでもないし、どうせ五分程度で終わるだろうと思っていた。だが、十分経ってもあいつは一階に降りてこなかったんだ。俺は何かがおかしいと思って教室に戻り、冥加の様子を確認しようとした。そうしたら――」
「こんなことになっていた、と」
「ああ。それで、お前ら二人ならまだ学校にいて、俺が連絡をしたらすぐに駆けつけてくれそうだと思い、金泉に電話をしたというわけだ」
「なるほどね。……それで、一つ気になったんだけど、いい?」
「何だ?」
「冥加君は真っ二つになっているから死んでいると分かっても、何で海鉾ちゃんも死んでいると分かったの? 腕程度の破損だったら、保健室や病院へ治療に行っているかもしれないでしょ? それに、そもそも海鉾ちゃんの死体そのものがないわけだし」
「いや、海鉾はおそらく死んでいるだろう」
「何でそう言い切れるの?」
「まず、海鉾が失ったのは右腕だけではない、というのが俺の意見だ。教室に散らばっている内臓や骨の破片をかき集めれば分かると思うが、明らかに冥加の体内にあったと思われるものよりも多い。そもそも、いくら腹部を何かで吹き飛ばされたとはいっても、ここまで大量の血が教室中に撒き散らされるとは思えない」
「言われてみれば、とてもではないけど、人間一人の体内にあったものとは思えないほどの量だよね。これは」
遷杜様の台詞の後、土館さんはテキトウに教室の中を見回すと、そう言った。そんな土館さんの台詞に、遷杜様が返答する。
「ああ。それに、仮にも海鉾が右腕と内臓をいくつか失った状態で治療に行ったとしても、どうやったら『廊下や階段に血を垂らしたり引きずったりせずに移動できるというんだ?」
「あー……それもそうだね。私たちがここに来るときも廊下はいつも通り綺麗だったし、誰かの人影を見たわけでもなかったしね」
「俺が階段を上ってきたときも、いつも通りだったはずだ」
「なるほどね……というか、よく考えてみれば、右腕を失って、内臓や骨をいくつか失った状態で移動することなんてできるわけがないよね。たぶん、私なら移動中に出血多量とか痛みで力尽きて死んじゃうよ」
「いや、それは何も、土館だけに限ったことではないと思うがな」
「それじゃあ、今のところは、海鉾ちゃんは冥加君同様に死んだってことで」
何かがおかしい。二人の会話を無言で聞いていた私は、率直にそう思った。
どうして、この二人はここまで冷静に状況の分析ができているのだろうか。確かに、私も二人と同じ惨状に足を踏み入れ、すぐに自分なりの推理をした。でも、それを口に出そうとは思えない。それはあまりにも不謹慎だし、それ以前に、そんなことは海鉾さんと冥加さんの友人としては許されないとすら思える。
いや、そもそも私たちは友人たちの鮮血によって染まった教室の中にいるという異常な状態にあるというのに、教室の中には内臓や骨の破片も飛び散っているというのに、表情一つ変えずにそんな中にいられるのだろうか。
しかも、教室の中には友人の死体があり、行方不明となった一人の友人の生死さえも独断で決定してしまった。二人が言っていることは一見すれば説得力がありそうだけど、本質的にはそんなことはない。実際には、無感情に状況分析をしているだけでしかない。
遷杜様は今だに上半身だけになった冥加さんの死体を抱えており、土館さんは今だに海鉾さんのものと思われる右腕を持っている。私は客観的に見れば異常過ぎて狂気じみているこの状況に対して吐き気を覚え、思わずその場で嘔吐してしまいそうになった。
必死にその感情を抑えつつ、体を震わせて、口を手で押さえていると、土館さんが話しかけてくる。
「……あれ? 金泉ちゃん、どうしたの?」
「……『どうしたの』って……お二人とも、何か変ですわ……」
「私たちが変? どこが? どの辺が? 私は見ての通り、いたって正常だよ?」
「そんなこと……決まっているじゃないですか……何で遷杜様は冥加さんの死体を抱えていて、土館さんは海鉾さんのものと思われる右腕を持っているんですか……? いえ、それ以前に、血の海になるほどの惨状の中にいつまでもいることもおかしいですし、海鉾さんと冥加さんをこんな風にした犯人が近くにいるかもしれないということや、先生方に伝えずに私たちで解決しようとしていることもおかしいですわ……! 全部全部全部全部……! 何もかも狂っていますわ……!」
「金泉、とりあえず落ち着け」
「こ、こんな状況で落ち着けるわけがないですわ!」
「俺と土館だって金泉のように、冥加と海鉾の死を実感できていないんだ。これほど大量の血を目の当たりにしたのも、内蔵や骨の破片を目にしてしまったのは、十七年間の人生でこれが初めてだしな。だから、俺たちの中で何かが吹っ切れてしまったのかもしれない。おそらく、金泉もそうなんだろう」
私には、遷杜様が何を言っているのか理解できなかった。地曳さんが殺されたという報告を受けたときは、その死体も惨状も見ていないのだから現実味がないと思っても仕方がないかもしれない。
でも、今はそうではない。私たちがいる教室の中で、海鉾さんと冥加さんは殺された。何者かによって、跡形もなく、悲惨な姿で。それなのに、ここまでされているというのに、まだ二人の死を実感できていないというのはどういうことなのだ。
私が言いたかったのはそういうことだった。しかし、遷杜様にそれは伝わっていなかったらしい。
「まあ、私は木全君の意見とは少し違うし、ある程度の目星は立っているんだけどね」
「目星というのは……?」
「それは今のところは秘密かな。それじゃあ、金泉ちゃんの言う通り、先生たちを呼んでくるね」
土館さんはそう言うと、手に持っていた海鉾さんのものと思われる右腕を無造作に教室の床に落とした。すると、教室の床一面に広がっていた血の海から赤い滴が跳ね、ピチャッという音とともに、満面の笑みを見せていた土館さんの顔に赤い液体が付着した。
「……あ、そうだ。どうやら金泉ちゃんは分かっていないみたいだから、一つだけヒントを教えてあげるね」
そして、教室を後にする直前、土館さんは改めて私のほうを向いて言った。
「私たちや木全君が教室に来るまで冥加君と話していたはずの天王野ちゃんはいったい、どこに行ったんだろうね?」




