第八話 『棄世』
「……ん? 何だ、遷杜。待っててくれたのか?」
無事に天王野との会話を終えた俺は『何事もなかったかのように』教室から出て、そのまま校舎の一階へと降りた。すると、階段を下りてすぐ近くのところに遷杜が壁にもたれかかって立っていた。おそらく、親友として俺のことを待っていてくれたのだろう。
遷杜は何か考え事でもしていたのか腕を組みながら目を閉じていたが、俺が声をかけると俺が来たことに気がついたらしく、いつも通りの落ち着いた冷静な感じで返答してくれた。
「ああ、やっと来たか。まあ、気になることもあったからな」
「気になること?」
「……いや、何でもない。気にするな。それで、もう用事は済んだのか?」
「一応は、な」
「そうか。何もなかったようで何よりだ」
遷杜はそう言って俺に背を向けて歩き始めた。わざわざ遷杜に聞くまでもないが、たぶん遷杜以外のみんなはもうとっくに帰ったのだろう。逸弛は火狭と仲直りをすると言ってかなり急いでいたし、逸弛以外のみんなも俺のことを待つ必要なんてないからな。でも、遷杜は残っていてくれたから、一人寂しく下校しなくて済みそうだ。
わざわざ本人に聞かなくても分かる遷杜のその小さな気遣いに俺は感謝しながら、俺の前方数メートルの地点を歩く遷杜の背中を追いかけた。そして、残り数メートルで校舎を出ようかというときに、ふと思い出したことについて遷杜に聞いた。
「そういえば、遷杜。結局、昨日は何をしてたんだ?」
「……野暮用だと言ったはずだが」
「まあ、言いたくないことなら無理に言う必要もないが、悩み事があるのならまずは俺に相談してくれよ? これでも俺は、みんなの相談受付係みたいなポジションにいるんだからな。あ、でも、そういえば、昨日金泉も似たようなことを言っていたな」
「……もしかすると、そのうち冥加には話すことになるかもしれない」
「ああ。俺はいつでも大丈夫だから、気軽に言ってくれ。ただ、金泉のことも気にかけてやれよ?」
「金泉……ああ、分かっている」
誰かから相談を持ちかけられてそれの解決に努めることに喜びを感じているのか、俺は自慢とも取れるそんな台詞を遷杜に言った。遷杜の悩み事といえば、勉強のことか火狭が可愛過ぎてつらいくらいのものなので、おそらく今回もそのどちらかなのだろう。
やれやれ、それにしても俺の友だちグループは仲がよくてもその恋愛事情は本当に複雑だな。最終的に、この複雑さが破滅を導かなければいいが。まあ、遷杜にはいまさっき俺が来るまで待っていてくれたという借りもできたし、いつも以上に真剣に対応させてもらうとしよう。
あと、一応金泉のこともフォローしておいたが、相変わらず遷杜は金泉の気持ちには気がついていないみたいだった。たぶん、普段の金泉の遷杜に対する接し方にも問題があるのだとは思うが、こんな状態が一年半も続いていれば心配にもなる。……というか、俺も土館に対して似たような境遇にいたのを忘れていた。
そのとき、不意に遷杜が自分の左腕に取り付けていたPICを腕ごと上げて、その表面に取り付けられているタッチパネルを操作し始めた。どうやら、誰かから連絡が入ったみたいだ。数秒後、遷杜は少し驚いたような表情をした後、その電話をかけてきた相手と通話し始めた。
俺はなるべく他人の電話は聞かないようにしようと思い、遷杜から少し離れた距離に行った。それでも、その電話の内容が少しだけ俺のほうへと漏れてきていた。俺は聞こえてくる音を頼りに電話の内容を推測してしまう。
『せ、遷杜様! た、大変ですわ!』
「どうした、金泉」
『つい先ほど、海鉾さんから連絡があって、今私と土館さんもそこへ向かっているのですが――』
「だから、何があったんだ」
『実は――』
「……何だと?」
遷杜は電話相手らしい金泉の台詞を聞いた後、一瞬だけ俺のほうを睨んできた。だが、俺にはその行動の意味が分からず、そこに立ったまま遷杜のほうを見返すことしかできなかった。
遷杜に睨まれることなんて滅多にないが、もしかして、遷杜が火狭のことを好きだということがみんなにばれたとか、そういう非常に重大で深刻な問題か? 遷杜が火狭のことを好きなのは俺くらいしか知らないはずだから、もしそうだとすれば俺が睨まれても仕方がない……のか?
「……分かった。俺と冥加もすぐに行く。まず、金泉たち二人は現場で何を見ても取り乱さず、できる限り冷静にしていろ。あと、まだ現場には近づくなよ、いいな?」
『わ、分かりましたわ!』
珍しく長めの台詞を言った遷杜だったが、そのすぐ後に用件を話し終えたらしく、少し離れたところに立っていた俺のほうへと歩いてきた。俺は校舎と校舎の外の境界に立ちながらそんな遷杜の様子を見る。そして、遷杜の様子が何かおかしいと思いながらも、電話も終わったみたいだからそろそろ帰れそうだな、と呑気なことを考えていた。
しかし、現実は俺の考えた通りには進まない。
「冥加。お前、教室で天王野と何があった?」
「え? いや、大したことは……」
「……まあいい。詳しい話は現場に行ってからだ。俺たちも教室へ行くぞ」
「何で教室に……って、おい! 遷杜!?」
遷杜は俺に状況の説明することなく、急ぎ足で廊下を走り階段を駆け上って行った。何でまた教室に戻らないといけないのか、何で遷杜はそんなに急いでいるのか、遷杜は今の金泉との電話で何を言われたのか。状況もその理由も何も分からないまま、俺は走ってそのあとを追った。
というか、何で今になって天王野のことを聞いてくるんだ? 俺は遷杜に『教室で天王野と話した』とは一言も言っていないが、まあ、あの状況なら簡単に分かるだろう。でも、何で今の会話の流れで天王野が出てくるのか。そのときの俺にはその理由が分からなかった。
俺が通っている学校にはエレベーターやエスカレーターなどの移動用機械の設備があり、それを利用して校舎内のフロアを移動することも可能だ。だが、遷杜はその待ち時間も惜しんで、少しでも移動時間を短縮するためにあえて階段を選んで俺のクラスの教室へと向かった。そして、三階にあるその教室の近くまで来たとき、俺は思わず自分の目を疑った。
教室のすぐ手前には、金泉と土館が驚きのあまり呆気にとられている姿があった。だが、俺が自分の目を信じられなかったのはそんな二人の様子のことではない。
むしろその先、透明な強化ガラスの奥のほうが、なぜか生々しく真っ赤に染まっている。しかも、その赤さはどこかで見た記憶がある嫌な赤色であり、それは長時間見続けると気分が悪くなってしまいそうな光景だった。
遷杜が一言何かを呟いた後、俺たちはその意味有り気で奇妙な状態の教室へと急いで向かった。
「……っ!」
そこにあったのは、まさしく『地獄』とでも呼べるような光景だった。気持ちが悪いだとかグロテスクだとかそんな領域を遥かに凌駕している、偽りようのない言葉通りの『地獄』が一部分だけこの世界に切り取られてきたのではないかと思えるほどで、そう比喩しなければならないと思えてきてしまうような光景が、その場に居合わせた俺たちの目の前には広がっていた。
俺たちの目の前にあったのは、つい先ほどまで俺と何気ない会話をしていたはずの天王野だった。しかし、天王野のその華奢な体は透明な強化ガラスの壁に頭から打ち付けられており、その衝撃で頭蓋骨が割れたのか頭部からは血液とはまた異なる液体が溢れ出てきていた。
また、天王野の全身には地曳のときと同様に大量の切り傷や刺し傷があり、それらから流れ出たのだと思われる大量の血液が教室中にぶちまけられていた。
今朝の天王野の死んだふりのときとは血の量も現場の悲惨さも比べものにはならなかった。教室の壁としての役割を果たす透明な強化ガラスが一枚丸々真っ赤に染まるくらいの量の血がぶちまけられ、本来は真っ白だった床には大きくて真っ赤な水溜りがいくつもできあがっていた。
そして、そんな状態にあった天王野の表情は例の狂気じみた笑いそのものであり、血で赤く染まった白髪で目は隠れて見えなくなっていたが、その表情が俺たちにさらなる恐怖と不安の感情を植え付けていた。
ここまでの状況を判断した直後、俺は目の前の光景の悲惨さのあまり、気分が悪くなって胃の中にあったものを全て床にぶちまけてしまいそうな衝動に襲われた。でも、それよりも前に俺たちにはしなければならないことと調べなければならないことがあると思い、それを実行するには至らなかった。
まずは俺たちの目の前にあるこの光景が本当に俺が想像しているような状態であることなのか、その確認だ。今朝みたいに天王野の自作自演の可能性も否定はできないからな。
そう考え、俺は本当は心の中ではどんな答えが返って来るかなんてことが分かり切っていたはずなのに、震えて掠れそうになる声を必死に落ち着かせてその場にいたみんなに聞いた。
「なあ……これって、本当に……」
「……残念だけど、死んでるわ。もう息はしていないし、心臓も動いていない……それに、こんなに血が出てたら、もう……」
「……っ!」
俺の質問に、唯一その現場の近くにいた海鉾がその瞳から涙をぼろぼろと流しながら非常につらそうな様子で答えた。海鉾は天王野の死体を発見して真っ先に駆け寄って救急蘇生法でも使用したのか、顔や着ていた制服のいたるところには大量の血がこびり付いていた。
普段は平和な教室の中にある天王野の悲惨な姿とそんな状態の海鉾を見た俺と遷杜は思わず顔を見合わせた。また、先ほど遷杜にこのことを教えてくれた金泉と土館はまさに顔面蒼白といった様子で、全身が小刻みに震えており声にもならない声を発していた。
どうせまた、今朝同様に天王野の死んだふりの演技に決まっている。そして、今回は今朝よりも現場の作り込みがレベルアップしていて、それに海鉾も付き合っているだけだ。俺は自分の思いを偽って心の底からそう思い込もうとした。しかし、それが叶うことはなかった。すなわち、状況が今朝とは違い過ぎるのだ。この光景全体の生々しさも、死体の状況も、みんなの反応も。
誰かが何かの理由でどうしても天王野のことを殺さなければならなかったとしても、何でここまでする必要があるんだ。もう少し、別の方法もあったはずだ。地曳のときだって、あんな風に全身を切り刻む必要がどこにあったというんだ。
何で俺の友だちばかり、たった三日間で二人も失わないといけないんだ。
「嘘……よね……?」
「土館さん……?」
「本当は天王野ちゃんと海鉾ちゃんは裏で打ち合わせしていて、それで私たちをびっくりさせようとしているんだよね……? そうだよ、そうに決まってる。今朝だって、冥加君が――」
「土館!」
「……っ!」
土館が目の前で広がる悲惨な光景に対して必死に現実逃避をし始めたとき、遷杜が大声を張り上げてそんな土館の台詞を中断させた。遷杜が誰かを怒鳴ったり、何かに怒ったりすることは極めて稀だ。しかし、普段はそんな冷静で落ち着いた様子の遷杜が大声を張り上げるほど、今の状況からは何があっても目を背けることができないということを暗に意味していた。
土館は遷杜に怒鳴られたあと、一言二言何かをぼそぼそと呟いていた。しかし、土館以外のその現場にいた全員の視線が集まっていたことに気がつくと、がくっと膝から床に崩れ落ち、小声で泣き始めた。
またしても友だちを一人失ったことと残酷な光景を見てしまったことで俺たちはみんな、例外なくつらかった。だからこそ、そんな土館のことを慰めてやることもできなかった。
不意に、目の前にある吐き気を催しても仕方がない残酷な光景を長時間に渡って見てしまったことによって気分が悪くなり、胃の中にあったものが逆流し始めたのか、土館が床にうずくまりながら咳き込み始めた。
そんな危険な状態の土館のことを心配した金泉は土館の背中を手で擦りながら、俺と遷杜に『ひとまず、保健室に連れて行きますわ』とだけ言って、今にも倒れそうな状態の土館をかばうような形で歩いて行った。
全身がふらふらと不安定な状態になりながらも歩いて行った二人の後ろ姿が透明な強化ガラス越しでも見えなくなったとき、遷杜がいつも通りの冷静な雰囲気のまま海鉾に尋ねた。
「海鉾。第一発見者はお前か?」
「……うん」
「なぜ、わざわざ教室に行ったんだ? 忘れものをしただとか、教室でし忘れたことなんてないはずだろ?」
「……冥加くん葵聖ちゃんが二人きりで教室に残って何をしてるのかが気になって、それで、帰る途中に引き返して教室へ来てみたらこんなことに……」
第一発見者は海鉾だった。海鉾はみんなが教室にいたときに俺が天王野と教室に残って何かをしていることを知り、興味本位でそれを覗こうとした。しかし、海鉾が見たのは海鉾が予想していたであろうことのどれとも合ってはいなかった。天王野は血まみれの状態で殺されており、俺を含めて他には誰もいなかった。
そして、救急蘇生法を使用するがそのときにはすでに天王野は死亡していて意味がなく、金泉に電話をかけて応援を呼んだ。その金泉は土館と下校中であり、自分たちも現場に向かいながら海鉾から聞かされたことを遷杜に伝えた。あとは、俺が知っている通りの出来事しか起こっていない。
海鉾に質問した後、遷杜は眉をひそめて何かを考えている様子だった。そして、海鉾は天王野の死体のすぐ傍で床に座ったまま、俺と遷杜は教室の出入り口で立ったまま、数十秒間の沈黙が流れた。その時間は普段ならば一瞬で通り過ぎるものだったかもしれない。しかし、状況が状況だからなのか、今は非常に長く感じた。
そんなとき、俺は不意にあることに気がついた。天王野の左腕にPICがない。地曳のとき同様に二人を殺した犯人が持ち去ったのか、天王野の左腕にはPICはなく、テキトウに辺りを見回してもやはりなかった。これでは、犯人を特定したりすることもできない。
俺がそのことを現場に残った二人に言おうとしたとき、何かを思いついた様子の遷杜が教室の中にあるその悲惨な現場に向かって歩きながら、教室の入り口付近で立ったままの俺に質問をしてきた。
「冥加。お前は天王野と教室にいたんだよな?」
「あ、ああ。みんなが教室にいるときに天王野に呼ばれて、『二人だけで話したいことがある』って言われて――」
「それで、お前と天王野が話しているとき、天王野や他の何かの様子がおかしいと思ったりはしなかったか?」
「……確かに遷杜の言う通り、天王野の少し様子はおかしかったかもしれない。おかしな笑い声を上げて、何だか凄く楽しそうに話していたから。でも、それ以外に特におかしなところはなかったはずだ」
「そうか。それじゃあ、もう一つ質問だ。お前は『天王野と何を話した』んだ?」
「……? 何でそんなことを? それは……あれ?」
遷杜にそう聞かれた直後、俺は自分の脳内で信じられない異常が起きていることをすぐに察知した。教室にいたときに天王野に呼ばれて、二人きりになった途端に天王野の様子がおかしくなって、でもそれ以外には何かおかしなことはなくて、無事に話を終えて遷杜と合流したら金泉から電話がかかってきて、それで――、
「地曳の殺人事件について何かを話していたのは覚えている。でも、俺は一体、その話題について『天王野と何を話していた』んだ?」
俺は天王野と話した大まかなことは覚えていてもその具体的な内容は何一つとして思い出すことができなかった。何か、とても大事で大切なことを話していた、ということは分かる。でも、それは一体何なんだ?
俺の記憶からは、つい十分程度前のその部分だけが綺麗に抜け落ちていた。