第十六話 『呼出』
「それじゃあ、また明日ー」
「……また明日」
時刻は午後六時を少しすぎたころ。今日から始まったミズシナのバイトは八時間近くの労働を経てようやく終わりを迎えた。ワタシは、ミズシナと同じタイミングで帰る組織の人たちの見送りも兼ねて、仕事場の玄関先で軽く手を振っていた。そんなワタシにミズシナは手を振り返し、いつものようにさわやかな笑みを見せた。
ミズシナはワタシが想像していたよりもよく働いていたように思う。ワタシが用意したあの山のような資料も午後四時くらいにはすべて整理し終え、そのうえほかの仕事はないかと聞いてきたくらいに。何千枚もあって、ところどころ複雑な分類が必要なものもあったはずだけど、ミズシナはいとも簡単にそれをこなしてしまった。
ミズシナが早めに仕事を終えたときのために、念のためにほかの資料を用意しておいてよかったと思う。それに、自分の用意周到がこれほどまでに役に立ったと思ったことは、もしかするとはじめてかもしれない。つまり、それほどまでにミズシナの働きっぷりはワタシの予想を上回っていた。
それはともかくとして、あれから、つまりミズシナがワタシが住んでいる家に入ろうとしていたとき以降、ミズシナに不穏な動きは見られなかった。やはり、本当にトイレに行きたかっただけなのだろうか。でも、それならそうとさきに言えばいい話だし、そもそもあえて別の理由を言って家に侵入する意味がわからない。
ミズシナが何かを企んでいそうだということはなんとなくわかる。でも、その確信をもつことができない。ミズシナの予想外の行動と、まるで不審感を感じさせないその言動。いつものミズシナと何ら変わらないはずなのに、拭うことができない違和感。
しばらくのあいだは、ミズシナへの警戒態勢をより強める必要がありそうだ。何はともあれ、ミズシナのバイトの件やそのあいだに起きたことはもう過去のこと。これからに繋げられれば何の問題もない。そして、ワタシにはこれからするべきことがある。
PICを操作して、例の電話相手の女性に電話をかける。ここではあくまで、例の電話相手の女性がツチダテだという前提を崩し、例の電話相手の女性とツチダテが別人だと仮定して話を進める。しばらくすると、音声のみの通話が始まる。
『はいはーい。何かあったのー? 今日は何人殺せたー?』
「……、」
相も変わらず、毎回毎回キャラが崩れすぎな気がするのはワタシだけだろうか。いや、これまでの二回の電話のときの会話と今回のものを見比べてみれば、誰だってそう思うはず。ワタシは少しだけ面倒臭いと思いながらも、一度溜め息をつき、話しかける。
「……いや、今日は誰も殺害できてない。……これから一人は殺害するつもりだけど」
『あ、そう? それじゃあ、殺せたらいつものようにその死体を写真で送ってねー』
「……それはわかってる」
『ありゃりゃ? 何か落ち込んでる? もしかして、嫌なことでもあった? 私は相談には乗れないし、話も聞く気はないけど、依頼を断ることはしないでほしいねー』
「……別に何かあったわけではないけど、あなたに一つだけ確認したいことがあって」
『ん? 私に?』
「……そう」
電話相手の女性は、いつもに比べてやけにテンションが高いような気がする。いや、一番最初に電話をかけたときのあの冷淡な感じはどこに行ったのか、その後からはずっとテンションが高かったような気がしなくもないけど。
それはともかくとして、ようやく本題に入ることができそう。今回、ワタシがこの人に電話をかけたのはほかでもない。例の電話相手の女性とツチダテは同一人物なのか。その確認だ。少し間を空けたあと、ワタシは続けて質問する。
「……あなたは、土館誓許? ……それとも、それとは別の人?」
『違うよ』
ワタシの質問に対する答えは、間髪を入れずにすぐに返ってきた。
『私は土館誓許ではない。でも、そのすぐ身近にいる人ではある。ただ、私は土館誓許のことをそれほど好いてはいない。別に、嫌っているわけでもないけど。少なくとも、もう少し違うタイミングで、どこか別の場所でこの世に出てこれたのならこんなことにはならなかったんじゃないか、とだけは思う』
「……どういう意味?」
『深い意味はないから気にしないで。いまの私の台詞はただの戯言程度に思って聞き流してもらえれば構わないよ。とりあえず、私が言えるのは、私は土館誓許ではないということだけ』
「……わかった。……ありがとう」
電話相手の女性は、ついさっきまではやけに砕けた話し方をしていたにも関わらず、いまはむしろそんなことはなく、最初に電話したときのように冷淡な雰囲気を醸し出していた。
その話し方、雰囲気、台詞の意味。なぜ、話し方と雰囲気が変わったのか。そして、いまの台詞の意味は何なのか。ワタシにはよくわからなかった。ただ、それらが何か重要な意味を指し示しているのだということは薄々気づいていた。
「……もう一ついい?」
『何?』
「……しばらくワタシはあなたに電話をかけられなくなるほど忙しくなると思う。……もちろん殺人は続けるし、その死体の写真も順次送っていく。……でも、間隔が開いてしまうとお互いの声を忘れて、つぎ電話をかけたときにわからなくなる可能性があるから、合言葉を決めておきたい」
『合言葉?』
「……そう、合言葉。……何か、通常の会話ではまず登場しなくて、はたから聞いても意味がわからない合言葉、思いつく?」
『うーん……』
正直なところ、ワタシはいままでもこれからもずっと忙しい。でも、いまはこうして電話をかけることができているのだから、これからは電話をかけられないなんてことはない。それに、いくらなんでも何年間も間隔を開けて電話するつもりもないから、声を忘れるなんてことはまずありえない。
それならばなぜ、ワタシは合言葉を決めようなどと提案したのか。その理由は後々判明することになる。あと、合言葉は部外者が聞いても絶対にわからない程度のものであれば何でもよかった。どうせ使うのは一回か二回だけだろうし。
電話相手の女性は何をそんなに真剣に考えているのか、『うーんうーん』という唸り声のような声を出していた。そして、そのまま五分くらいが経過したとき、何か思いついたらしく、不意に話しかけてきた。
『それじゃあ……“オーバークロック”でどう?』
「……“オーバークロック”? ……ワタシは別にそれで構わないけど、一応理由を聞いておく」
『何となく』
「……あっそ」
『あ、そろそろお風呂交代の時間だから、もう切るねー』
「……合言葉を忘れないように気をつけて」
『はいはいー』
『お風呂交代の時間』ということは、電話相手の女性には家族がいて、それなりに親しい関係なのだろうか。そんなことを思いつつ、ワタシはPICの通話機能を切った。
さて、合言葉は“オーバークロック”か。よくわからないうちに、よくわからない合言葉になってしまったけど、元々何でもよかったから、何の問題もない。それに、“オーバークロック”ならば最近できた刑である“オーバークロック刑”以外で使われることはまずないし、そもそもそれが日常会話に出てくることはまずない。
そう考えると、電話相手の女性のチョイスは絶妙なラインをいくうまい考えのような気がしないでもなかった。それはそうとして、ワタシは再度PICを操作して、例の電話相手の女性ではなく、ツチダテに電話をかけた。今回は音声通話ではなく、映像通話。
しばらくすると、PICの立体映像上にツチダテの顔や部屋の様子が映し出される。ツチダテは雨に打たれてきたのか(今日は偶数週水曜日ではないけど)、髪が濡れており頭にタオルをかけていた。
『あ、葵聖ちゃん。珍しいね。どうしたの?』
「……“オーバークロック”」
『へ?』
「……何でもない。……わからなければそれでいい」
つい数分前にワタシと例の電話相手の女性が決めた合言葉、“オーバークロック”。ツチダテが例の電話相手の女性なら、もし隠そうとしていても、何か反応を見せるはず。でも、いまのツチダテはワタシが何を言っているのかまるで理解できていない様子で、まさに言葉の通りポカンとしていた。
このことから、ツチダテが例の電話相手の女性ではないということが確定した。つまり、ツチダテと例の電話相手の女性は何らかの密接な関係にあり、どちらかのPICをもう片方に貸し、それによって例の電話相手の女性はワタシと会話を交わし、ツチダテはそれを装着して登校してきた。
これならば、これまでの事柄に大体の説明がつく。いや、これはもう確定といってしまっても何ら問題はないだろう。これでようやく、不穏因子であったツチダテを殺害することができる。
ワタシは、自分の計画が想像以上にうまく進んでいることに喜びを覚え、思わず緩んでいた口元を直して、ツチダテに話しかける。
「……いま、近くには誰もいない?」
『え? ああ、うん。さっきまではいたけど、いま部屋にいるのは私だけかな』
「……いまからワタシが言うことはほかの誰にも言ってはだめ。……そして、誰にも見つからないように行動してほしい」
『う、うん。何を言われるのかはわからないけど、とりあえずわかったよ』
「……明日、ワタシの家に来てほしい。……ツチダテ一人で、午後四時ごろに」
『葵聖ちゃんの家? あー、そういえば、ほかのみんなの家に遊びに行ったことはあったけど、葵聖ちゃんの家には行ったことがなかったかも……うん、わかったよ。明日の四時に一人で行けばいいんだよね?』
「……そう。……くれぐれも、誰にも言わずに、誰にも見つからずに、一人で来るようにしてほしい」
『何か相談事かな? まあ、詳しい話はまた明日聞くことにするね』
「……ありがとう、じゃあまた」
何もかもがワタシの計画通り。ツチダテと例の電話相手の女性が同一人物ではなくただの他人であるということを判明させ、ツチダテを呼び出すことに成功した。あとは、不穏因子であるツチダテを殺害して、例の電話相手の女性の動向を伺う。
「アハハハハハハハハ!!」
家の中から、ワタシのそんな笑い声が響き渡った。その笑い声は、自分の計画の進行がスムーズであることや、予定以上のことを達成できていることについての喜びの意味もあった。でも、それ以上に、ワタシ自身が、とっくの昔に狂ってしまっていたことを意味しているものでもあった。
その日の晩、ワタシは昼間にワタシに話しかけてきた例のあの男性を射殺し、ワタシの義理の父親が頼んだという資料をデスクから奪い取った。