第五話 『受信』
今朝、タイヨウロウに昨晩の殺人事件について説明したり、保健室でカイホコに殴られたりしてから、約八時間が経過した。今朝のいくつかの出来事を除けば、今日は普段と何ら変わらない一日だった。でも、ワタシにはこれからするべき重要なことがいくつもある。
そんなことを考えながら、帰る仕度が済んだワタシは自分の鞄を持って教室の外に出ようとした。そのとき、まだ教室に残っていた友だちグループのメンバーに対して、不意にミズシナがいつものようににこやかに微笑みながら声を発して呼びかける。
「みんな、僕から一つ提案があるんだけ――」
「……あっ、逸弛! 私、帰りにちょっと寄りたいところがあるんだけど、いい?」
しかし、ミズシナが声を発した直後、それを遮るように自分の席にいたヒサバがミズシナに話しかける。ワタシを含めた他の友だちグループのメンバーは、そんな二人の様子を不思議そうに黙って眺めていた。
「え? ああ、うん。それはもちろん、沙祈の頼みなら僕は大丈夫だよ」
「もしかして、みんなに何か用事でもあったの?」
「うーん……まあ、また明日でもいいかな。それほど急ぎの用事ってわけでもないし。ごめんね、みんな。今のはあまり気にしないで」
「さっ、行こう? 早くしないとお店閉まっちゃうから!」
「まだ四時過ぎだけど、そんなに早く閉まっちゃうようなお店に用があるの……って、沙祈!? 引っ張らなくてもちゃんと行くから、少し待っ――」
ワタシを含めた教室に残っている他の友だちグループのメンバーは、ヒサバに力強く腕を引っ張られ、軽く引きずられるように教室の外へと連れて行かれるミズシナの姿を心配そうに見ていた。
ミズシナはワタシたちに何か用事があったみたいだけど、どうやら、その幼馴染みであり恋人でもあるヒサバの用事を優先したらしい。どちらにしても、ワタシはもう家に帰るつもりだったからあまり関係がないけど、少しばかりそのことについて違和感を感じざるをえなかった。
ミズシナが何を言いかけたのか、なぜヒサバはそれを遮ったのか。そんな、些細で何気ない、ワタシにとっては何ら関係のないようなことが気になってしまった。ただ、そんな気持ちは数秒後には消え去っていたけど。
「どうしたんだ、あの二人……? いや、あれはあれでいつものことか」
「さあな。それじゃあ、俺たちも帰るか」
「……あ、そうですわ。みなさん、私から少し提案があるのですが、聞いていただけますでしょうか?」
「……? 提案って?」
ワタシが教室を出ようとしているとき、その後ろからそんな風な四人の会話が聞こえてくる。でも、これからするべきことがあり、その会話に対して特に興味が沸かなかったワタシは足を止めることなく、そのまま教室を後にした。
「……」
教室を出てから徒歩で約三十分後、ようやくワタシは今自分が住んでいる家に辿り着いた。なぜ『今自分が住んでいる』という言い方をしたのかというと、この家はワタシが元々住んでいた家ではなく、義理の両親が住んでいる家だから。ワタシが元々住んでいた家は、ワタシの家族が全員殺されたすぐ後に解体され、今はもう別の建物に建て代わっている。
あと、ワタシは自宅から学校までの距離が決して近いわけではないのに、自動運行バスなどの交通機関を利用せず、徒歩で登校している。別に、何か変わった理由があるわけではないけど、どちらかといえば、ただ単純にワタシが人混みを好きではないからということが理由として挙げられる。まあ、徒歩で登校しても困ることはないし、今さら変える必要もないので、このままでいいような気もする。
「……ただいま」
現代では極めて珍しくなった一戸建ての家の手動ドアを開け、自分にしか聞こえないような小さな声でワタシは言う。家の中から人の気配はせず、当然のことながらワタシの台詞に言葉は返ってこない。
この家にとって、本来ワタシはいてはいけない存在。だから、たとえ今のワタシの台詞を誰かが聞いていたとしても返事をするわけがない。それに、今の時間帯はまだ、義理の両親は仕事の最中だろうし、義理の兄弟姉妹は学校にいるか外で遊んでいる頃だと思う。
ワタシには、義理の両親二人と義理の兄弟姉妹が五人いる。義理の両親は、第三次世界大戦終戦とともに廃れた原子力や核燃料の復帰を狙う組織の統率者夫婦として、そこで働いている。義理の兄弟姉妹は、全員年齢がバラバラであり、男三人と女二人という、やけにバランスのいい構成になっている。
でも、ワタシはそんな義理の家族とは基本的に会話を交わさない。まず、ワタシからあの人たちに話しかけることは絶対にないし、あの人たちがワタシに用事があるなんてことはほとんどない。
たとえそんなことがあったとしても、それはワタシに何らかの仕事や作業を押し付けたり、日頃のストレス発散のためにワタシのことを痛めつけたりするくらいのもの。しかも、前者の場合は膨大な時間と体力を消費し、後者の場合は軽く骨が折れたのではないかと思えるほどの激痛を与えられる。
だから、ワタシはあの人たちのことが嫌いだ。本来ならば、本当の家族を全員失ったワタシのことを嫌々ながらも引き取ってくれて、何年間も養ってくれているということに感謝するべきだろうけど、それでもやはり、どうしても人としての扱いをしてほしいと思ってしまう。いや、それ以前に、酷いことをしてくる時点で好きになれるわけがない。
この家でのワタシは、ただただ雑用をこなし、ストレス発散の対象となるだけの存在。満足な食事を与えられるは極めて稀であり、自分の部屋はなく、時には深夜に家の外に放り出されることもある。家の中では気を休めることもできず、常に暴力と暴言を受ける毎日。
元々明るい性格ではなく、表情も出にくかったワタシだったけど、この家に来てからはさらにその状況は進んでしまっているような気がする。また、ワタシのそんな無表情に対して苛立ちを覚えたのか、何度か兄弟たちに殴られたこともあった。理不尽だ。
戻りたい。ワタシの本当の家族が全員生きていたあの頃に。こんなワタシのことを認めて支えてくれていたお母さんが生きていたあの頃に。一番最初にワタシの異常な家庭状況に気づいてくれたジビキが生きていたあの頃に。
「おい」
「……っ」
自分の部屋を持たないワタシは普段、一階の廊下を抜けた先にある物置裏を自分の部屋代わりにして生活をしている。そして、ワタシがそこへと行こうとしているとき、不意にそんな恐々しい男性の声を聞き取った。それと同時に全身に嫌な寒気が走り、少しだけ気分が悪くなる。ワタシは顔を青ざめながら、恐る恐るゆっくりと、その男性の声がした方向を振り向いた。
そこには、案の定、ワタシの義理の父親である人物が立っていた。義理の父親は眉間に皺をよせ、明らかに何かに対して怒っているのだということが伺えた。
「お前、昨日の夜に人工樹林に行ったはずだよな? そのとき、探し出せと言った例の物は見つかったのか?」
「……な、何を探せばいいのかが分からないから、まだ探せてない……です」
「何だと? 人工樹林にあるということは言ったはずだが?」
「……さ、探し物の外見の特徴とか、どの辺にあるのかを教えてもらえないと、探しようがない……です」
「ちっ……ちょっとこっちに来い」
「……は、はい……」
義理の父親に指示されるように、ワタシは目を合わせないように俯きながら前へ数歩歩いた。その最中、ワタシは心の中で必死に自分のことを弁護する。
ワタシは何も悪いことはしていないし、何もおかしなことは言っていないはず。どちらかといえば、この人のほうが人間として破綻している。探し物を頼むならまだしも、その探し物の特徴を教えてくれておらず、しかも視界が悪くなる深夜に探しに行かせるということ自体がおかしな話だ。
昨日はワタシも、ミョウガへの復讐のことで頭が一杯で、これからどうすればいいのかを考えていたし、警察官たちに指示を与えるのに忙しかった。だから、今の今まですっかり忘れていたけど、そもそもそんな条件で探せるようなものでもない。警察官たちに頼んで探しておくという手も一瞬だけ思いついたけど、探し物の特徴が分かっていないのならそれも叶わない。
でも、ワタシは――、
「うぜぇんだよっ! お前の存在が、その喋り方がぁ!」
「……っ! がっ……ぁあっ……!」
不意に、ワタシの腹部に強烈な圧力がかかるとともに激痛が走る。直後、ワタシの体は数メートル後方に跳ね飛ばされ、勢いよく廊下の壁に背中を強打した。そして、痛みと衝撃によって全身から完全に力が抜けたことにより、ぐったりと無造作に床に倒れこむ。
体が内側から破裂してしまうのではないかというほどの強烈な痛みを感じたワタシは、何をできるわけでもなく、ただただその場に倒れているしかなかった。今、ワタシの身に何が起きたのかを認識できたのは、その数秒後のことだった。
どうやら、ワタシの存在と喋り方に不満を抱いた義理の父親が膝でワタシの腹部を突き上げたらしい。それにより、ワタシの腹部は内臓破裂寸前の圧力を受け、後方にあった壁に当たるはめになった。ワタシは痛む部分を手で押さえる力も出せないまま、体を震わせていた。
「何で、何でお前だけ生き残っているだよ! お前もあのときに死ねばよかったんだよ!」
「……ぁ……ぐっ……!」
義理の父親に髪を引っ張って持ち上げられ、全身ボロボロになった体を無理やり起こされる。未だに全身に走り続けている激痛により力が入らなくなり、すでに体力の限界に達していたワタシはその行動に抵抗することすらできなかった。
義理の父親はワタシの顔のすぐ目の前でその恐々しい表情をこちらへと向け、つばを飛ばしながら次々とワタシのことを罵倒する。こんなやつに何を言われたところで全然悲しくないし、つらくもないはずなのに、少しずつワタシの精神力が削り取られていくのがよく分かった。
するとそのとき、ふと義理の父親がワタシの髪から手を離したのが分かる。全身の激痛はまだ残っているが、それでも腕や足にだいぶ力が入るようになってきた。反撃すれば余計に痛めつけられるだろうからしないけど、これなら多少は抵抗できるはず。
そんな希望を抱きながら、ワタシはゆっくりとまぶたを開ける。
「……え……?」
まぶたを開け、目の前にいるの義理の父親を確認したとき、ワタシは何が起きているのかを全然認識できなかった。夢でも見ているのか、それともこれは幻覚なのか。いや、そうであってほしい。そんな、現実逃避をしたくなるような光景がそこにあった。
それを信じられなかったワタシは、思わず手で自分の髪を触り、本来はそこにあるはずのものの存在を確認する。しかし、ワタシの希望を打ち砕くかのように、この世界は非情な現実を突きつける。
ワタシは日頃から自分の髪を一本の赤色のリボンで結んでいた。結んでいたといっても、ほとんど飾り付けているだけに過ぎなかったが、ワタシにとってこのリボンは大きな意味があった。簡単に言ってしまえば、このリボンはワタシのお母さんがワタシにくれた最後のプレゼントであり、今となってはお母さんの形見に他ならないものだった。
でも、そのリボンは今このときはワタシの髪に結ばれていない。それでは、どこにあるのか。その答えは、目の前にいる義理の父親の手の中。しかも、義理の父親はそのリボンを両手で引っ張るように持ち、力を込めているのがよく分かった。
「……や……やめてええええええええ!!!!」
ワタシの絶叫の一瞬後、ワタシにとって他の何よりも大切な一本のリボンが無残に真っ二つに引きちぎられる。その非情で残酷な光景に唖然としていると、義理の父親は鼻でワタシのことを笑った後、続けて三回ほどちぎれて短くなったリボンをさらに引きちぎった。
ワタシの目の前で。
そして、とても髪を結べるような長さではなくなったとき、ただの赤い布切れと化したワタシのリボンを乱暴に床に放り投げた。その後、義理の父親はワタシに刺々しく言い捨て、すぐに近くの部屋へと入っていく。
「いつまでも過去にしがみついてんじゃねぇぞ、クズが。そんなところでくだばってないで、さっさと例の物を探しに行け。殺すぞ」
「……ぁ……あぁ……」
目の前でワタシのリボンを、お母さんの形見を引きちぎられ、もう使えない状態にまでされた。ワタシは床に散らばる赤色の布切れを拾い集め、両目から大粒の涙を零しながら、何をどうすればいいのかが分からなくなっていった。
悲しさ、つらさ、苦しさ、もどかしさ。義理の父親がワタシにしたこと、お母さんの形見にしたことに対する怒りの感情よりも前に、そんな負の感情が次々と湧き上がってくる。
どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう……。
唐突に目の前で起きた悲劇に、ワタシは考える力を完全に失っていた。いや、ワタシは他の人や何らかの物にすがらなければ、それを心の支えにしなければ生きていけない人間。だから、その心の柱の一つであるお母さんの形見がバラバラにされてしまった今、ワタシの精神状態は酷く不安定になっていた。
リボン自体なら、同じものを買えば済む。でも、そうじゃない。リボン自体なら、同じものを複製すればいい。でも、そうじゃない。これでなければ、ワタシのお母さんが生きている間で最後にワタシにくれたこのリボンでなければ、駄目なのに。それなのに。
「……」
ワタシの心が負の感情に支配され、ろくな思考もできていないまま現実に悲観しているとき、まるで空気を読まないといった感じで、PICからメール受信のアラーム音が聞こえてくる。左手で赤い布切れの塊を握り締めながら、右手でPICを操作して、その文面を読む。
『殺人をしてほしい』。そのメールの文面のうち、一行目はそんな突拍子もないものだった。