第二十七話 『緊張』
次の日の朝、時刻は午前八時二十五分を少し過ぎた頃。今日は一ヶ月に二度だけ存在する、偶数週の水曜日、つまり雨が降ることになっている日だ。現代では、そんな風に『天候』だけでなく、もっと細かくいえば『季節』や『気温』までもが自然現象でもなんでもなくなった
雨が降るという日は二ヶ月で二度だけと決まっている上に、冬の季節になると代わりに雪が降ることになっているので、年間を通じて数えてみても、その日の数は思いのほか少ない。
かといって、雨の日は人間にとって何かと不都合が生じることが多いし、何よりも慌しくなるのでわたしはあまり好きではない。それに、今日に限っては、天候が雨だろうが雪だろうが、そんなことは全くもって関係なかった。
今日は雨が降っていて少し混み合うことを考慮していつもよりもさらに早めに学校に来たわたしは、登校後、数分間自分の席に座って冥加くんが登校してくるのを待った。その間、先に誓許ちゃんが登校していたけど、余計なことを言ってしまったがためにまた何か言われるのも面倒なので、『おはよう』以外は何も喋らないようにした。
そして、八時十五分頃、ようやく冥加くんが教室へと入ってきた。そのときの冥加くんは、雨が降っているからなのか、それとも昨日のことをまだ引きづっているからなのか、あまり浮かない表情をしていたように思えた。
そんな冥加くんの表情を見てしまったことと、これからわたしが冥加くんに言おうとしていることを思い出すと、なぜかわたしの足は前に進まなくなり、声が出なくなる。
今の状況がよく分からなくなり、冥加くんの意図が読めなくなったから、それを確かめるためにわたしは冥加くんに直接話を聞きに行こうとしているだけなのに、それすらも遠く険しい。
昨日、せっかく心に誓ったのに。誓許ちゃん以外では、わたしを阻む者はもう誰もいないというのに。あと少し頑張れば、これまでの努力が報われて、冥加くんとの幸せな未来が待っているのに。それなのに、わたしは自分の席に座ったまま冥加くんの後ろ姿を眺めながら、十分間も動くことができなかった。
「……よしっ!」
一時間目の授業が始まるまであと数分となったとき、そろそろ冥加くんに話しかけにいかないと一生機会を失ってしまうと自分を責め立てたわたしは、自分の席に座ったまま小さな声で気合を入れると、そのまま雨が降っている窓の外を眺めている冥加くんの席へと一直線に向かった。
お手洗いにでも行っているのか、教室には誓許ちゃんはいない。冥加くんは背後に忍び寄るわたしのことに気づいていない。今なら、言える。そう思ったわたしは、迷うことなく冥加くんの背中に密着するかのように接近しながら、満面の笑みで声をかけた。
「あ、冥加くん。ちょっと良いかな?」
「え? お、おわぁ! 近っ!」
「あはは。そんなに驚かなくてもいいでしょー?」
「わ、悪い……。でも、俺が振り向いた場所がもう少し前だったら当たってたぞ?」
わたしが声をかけた直後、すぐに冥加くんは振り向いた。しかし、わたしが冥加くんに接近し過ぎていたからなのか、冥加くんが振り向いた後、わたしと冥加くんはあと数センチ近ければキスをしていたのではないかと思ってしまうくらいの距離にいた。
今日は朝から元々やけに緊張していたから心拍数が大変なことになっていたのに、あの冥加くんとキスしてしまうかもしれない寸前の状態になってしまったため、わたしは自分の顔が火照っていくのがよく分かった。
でも、恥ずかしがっていることが冥加くんにばれてしまっては、放課後にわたしが冥加くんに言おうとしていることに影響が出てしまうし、何よりもできればこの気持ちは自分の口から言いたい。
そんな考えをもったわたしは、自分の顔が赤くなりそうなのをどうにか抑え、冥加くんにフォローにすらならないフォローを言った。一方の冥加くんは、わたしに気を遣ってくれているのか、少し遠慮がちな言動が続いた。
「えー……もしかして、キスとかしたかった?」
「……へ?」
「じょ、冗談だよ! 冗談! や、やだなー、そんなにマジな顔しないでよー」
「えっと……それで、海鉾は俺に、何か話があったんじゃないのか?」
「話……あ! そうだった! 冥加くんとキスなんて叶わない夢を考えた自分を隠そうと訂正なんかしている場合じゃなかった! って、また余計なこと言っちゃった!」
冥加くんにわたしの気持ちを勘付かれまいとして必死に何度も何度もフォローを続けるわたしだったけど、台詞を発する度に墓穴を掘ってしまっていたような感じになっていた。たぶんわたしに気を遣ってくれていたからなのだとは思うけど、冥加くんの台詞はどれも冷たいものばかりだった。
余計なことを口走って自爆してなぜか盛り上がっているわたしと、冷静に物事を考えて話を進めようとする冥加くん。それは、傍からみればどんな光景だったのだろうか。
そのとき、冥加くんの呆れているような表情を見たわたしは少し落ち着いて、改めて話を再開しようとする。思い出してみれば、もうすぐ一時間目が始まってしまうのだから、できる限り話は早めに終わらせる必要があった。わたしの墓穴を掘るような台詞で時間を取るわけにはいかない。
わたしは、それまでとは打って変わり、できる限り真剣な表情をして冥加くんを見ながら改めて話し始める。
「実はね、冥加くん。わたし、冥加くんに話があるんだ。とっっても大事な」
「そうなのか? 分かった。それで、どんな話が?」
「でも、いまはもう時間がないし、昼休みの時間でも足りないかもしれないから、今日の放課後にまた会える?」
「ああ。教室でいいのか?」
「ううん。教室だと人目につくかもしれないから、一階の北館校舎の未使用教室辺りでどう? あそこなら人も通らないだろうし」
冥加くんにしてみれば、今のわたしの行動や台詞は意味不明なものばかりだろう。教室ではなく、人がほとんど通らない北館校舎の未使用教室で、今このときや昼休みではなく、わざわざ放課後に集合して話をする。
これらのことから、わたしから何か大切な話をされるということくらいは察してもらえると思うけど、それでもわたしが冥加くんの立場ならばそれが気になって気になって仕方がなくなってしまうかもしれない。
「それにしても海鉾。一体、何を話すっていうんだ? 三十分以上ある昼休みで足りないほど長い話で、ほかの人に聞かれるとまずい話、って」
「……わたしだって、本当は聞きたくないんだよ。でもね、そろそろ気付いてほしいから……」
中学生の頃、あの収容所のような場所で冥加くんに出会って以来、わたしは冥加くんのことが忘れられないでいた。家庭が実質的に崩壊し、周囲の誰からも相手にされなくなったわたしだったけど、そんなわたしの心の支えが冥加くんだった。
わたしは冥加くんのお陰でこんな世界でもう少しだけ生きていてもいいかもしれないと思えたし、あの収容所のような場所から抜け出そうと思うこともできた。
だからこそ、高校生になって沙祈ちゃんと水科くんから友だちにならないかと誘われたときに、その友だちグループに冥加くんがいるのを発見したときは本当に嬉しかった。冥加くんはわたしのことを忘れてしまっていたみたいだけど、いつかは思い出してもらえると信じて、自分の気持ちを隠してこれまでを生きてきた。
赴稀ちゃんが冥加くんに殺され、わたしはそれを利用して冥加くんにわたしのことを気づいてもらおうとした。そして、葵聖ちゃん、木全くん、霰華ちゃん、水科くん、沙祈ちゃんのときも、わたしは冥加くんに気づいてもらうために必死に頑張った。
だけど、冥加くんはまだわたしのことを認めてくれない、気づいてくれない。何年も何年も待ったけど、さすがにもう待ちきれない。わたしはもう、これ以上のことはできないくらいにまで冥加くんのことを影から見守り、その想いに気づいてもらおうとした。
それでも気づいてもらえないのなら、それはもう、わたしから冥加くんに直接話をしに行くしかない。この一週間にあった全ての事件のことと、冥加くんのことを話す。そして、冥加くんがわたしのことをどう思っているのか、これまでのわたしの行動は役に立ったのか。それも確かめる。
今日の放課後、それらの全てに決着をつける。冥加くんに、本当のわたしに気づいてもらうために。
「ま、細かいことも含めてまた放課後に話すから! それじゃあね~」
「あ、ああ」
一応冥加くんはわたしからの誘いに乗ってくれたらしく、適当に返事をしてくれていたので、わたしは一方的に会話を打ち切って冥加くんの席を後にした。丁度一時間目が始まるチャイムが鳴ったので、タイミング的にはかなり都合がよかったといえるだろう。
その日、わたしは放課後になるまでずっとそわそわしていた。
それから約八時間後、本日の授業も全て終わり、ようやく放課後となった。そして、わたしはホームルーム教室での終礼が終わったあとすぐに駆け足で、冥加くんと待ち合わせをした北館一階の未使用教室へと向かった。
冥加くんが来るまでは何もできないけど、一刻でも早く冥加くんにこの気持ちを伝えたいと思っていると、わたしの体は自然にそんな風に動いてしまっていたのだった。待ち合わせの教室に到着したわたしは、冥加くんが来るまでに適当に部屋の片付けでもしておこうと考え、床に散らばっていた箱とかを棚に戻しておいた。
わたしが待ち合わせの教室の片付けを終えてから数分後、ついに冥加くんがわたしの前に姿を現した。少し警戒しているような雰囲気を放ちながら、冥加くんはわたしに声をかけ、恐る恐る待ち合わせの教室の中へと入ってくる。
「……あ……冥加くん……」
「よ、よぉ……」
「えっと……立ちながら話すのもあれだし、適当に椅子に座ってくれる?」
「ああ」
わたしがそう指示すると、冥加くんは入り口から一番近い椅子を起動させて、そこに腰をかけた。冥加くんが椅子に座ったのを確認した後、わたしは冥加くんに背を向けるような状態になりながら、PICを起動させた。