第二十三話 『途中』
午後十一時頃、わたしはいつものように冥加くんが住んでいるマンションの近くで、冥加くんが外に出てくるのを待っていた。今日はまだ冥加くんの姿は見えない。でも、今日はもうそろそろ家に帰ろうと思ったとき、不意に冥加くんがマンションからその姿を現した。
冥加くんの姿を見た瞬間、わたしの心の中にあったそろそろ家に帰ろうなんていう考えは全て吹き飛び、すぐさま冥加くんの後をつけようと、わたしは歩き始めようとした。
しかし、そんなわたしの行動を途中で引き止めて妨害するかのように、突然何者かがわたしの左腕を掴んだ。ついさっきまで周囲には誰もいないと思っていたのにいきなりそんなことをされたことによってわたしは驚きを隠せないまま、背後を振り返った。
「せ、誓許ちゃん!?」
「……海鉾ちゃん。こんなところで何をしているの?」
わたしが振り向いた先にいたのは、誓許ちゃんだった。辺りは一面薄暗かったためによく見えなかったけど、わたしの背後にいてわたしの左腕を掴んでいる誓許ちゃんの表情はやけに真剣そうであったように思えた。
しかも、わたしが誓許ちゃんに掴まれている左腕を振り解こうと抵抗しようとしても、誓許ちゃんはさらに掴む力を強め、わたしにそれさえ許してはくれなかった。
何で誓許ちゃんがこんな時間にこんな場所にいるのか。いや、わたし自身も他人から見てみれば何でこんな時間にこんな場所にいるのかと問われても何ら不思議ではないけど、今のわたしにとっては誓許ちゃんのことだけが不思議で不思議で仕方がなかった。
わたしが今の状況を何一つとして理解できていない状態のまま、数秒間の沈黙が流れる。わたしは背後にいた誓許ちゃんの姿を驚きを隠せないまま見ており、誓許ちゃんはそんなわたしの姿を凝視しながらわたしの左腕を掴んでいるばかりだった。
とりあえず、できるかぎり早くに今の状況を打開しなければ。誓許ちゃんがどんな目的でこんな行動をしているのかは分からないけど、早くしないと冥加くんの行方を見失ってしまう。冥加くんが夜遅くに家の外に出るなんてことは滅多にないのに、そんな希少な機会さえも失ってしまう。
そう考え至った後、わたしは少しばかり強張っていた表情を緩め、代わりに少し困ったような表情をして誓許ちゃんに返答した。
「え、えっと……わたしのことはともかくとして、誓許ちゃんのほうは何でこんなところにいるの?」
「私は……少し用事があってこの辺りを通っただけ。それで、今はその帰り道」
「そ、そう。じゃあ、わたしはもうこれで――」
「待って」
「……っ!」
一瞬だけ、誓許ちゃんが自分がなぜこんな場所にいるのかというわたしからの問いに少しばかり困っていたように思えたけど、どうやら誓許ちゃんはわたしや冥加くんを目的としてこんな場所に来たわけではないらしい。
だからといって、これ以上誓許ちゃんに時間をかけたくもなかったわたしは誓許ちゃんに掴まれていた左腕を強引に引き、振り解こうとした。しかし、誓許ちゃんはそれまで以上に力を込め、わたしが痛みを覚えるほど力強くわたしの左腕を掴んできた。
何か様子のおかしい誓許ちゃんと、軽い痛みが走った左腕によってわたしの表情はまたしても少しばかり強張った。そして、わたしがそれによって言葉を発せずにいると、誓許ちゃんがそんなわたしの様子になど構うことなく言葉を発する。
「私は何でここにいたのかということについての説明をしたけど、海鉾ちゃんの説明はまだ聞いていないわ。海鉾ちゃんは何でここにいたの?」
「わ、わたしも誓許ちゃんと同じく――」
「念のために先に言っておくけど、『野暮用があった』だとか『散歩をしていただけ』なんて理由は受け付けないからね」
「……」
とりあえず誓許ちゃんと同じような説明をすれば何とか誤魔化すことができるだろうと思っていたけど、わたしが台詞を最後まで言い終わるよりも前に、誓許ちゃんはわたしに先に釘を刺した。
わたしとしては誓許ちゃんが何でこんな時間にこんな場所にいるのかということのほうが不思議で不思議で仕方がないというのに、何で誓許ちゃんはそこまでわたしに突っかかってくるのだろうか。
誓許ちゃんは、普段は大人しくて静かな女の子だけど、こういうときは結構面倒臭い性格を出したりもする。自分が知りたいことは最後まで説明を聞かないと気が済まないのか、ただ単純に中途半端が嫌いなのかは分からないけど。どちらにせよ、今の状況では、少なくともわたしにとっては邪魔極まりない存在だ。
さて、どうすれば誓許ちゃんを退けることができるだろうか。わたしがそんなことを考えている間も誓許ちゃんはわたしのことを真剣な眼差しで凝視している。そんなとき、不意に誓許ちゃんがわたしに話しかけてきた。
「もしかして、冥加君のことを待っていたの? それで、冥加君がマンションから出てきたから、追いかけようとしていたの?」
「……っ!? な、何でそう思ったわけ?」
「別に。何となくそんな気がしたから。それで、どうなの? 私が言ったことは合ってる? それとも間違ってる?」
「……えっと……うん、はい。合ってるよ……」
「やっぱり……」
誓許ちゃんはわたしの心を見透かしているかのような台詞を放ち、わたしの動揺を誘ってくる。一方のわたしは一応それに抵抗してみたものの、誓許ちゃんは続けてわたしに問いかけてくる。わたしはどう言い訳することもできず、ただただ誓許ちゃんの台詞に頷くことしかできなかった。
わたしが冥加くんに幾度となくストーカー行為をしていたことも、わたしが冥加くんのことを好きなことも全部知られてしまうと覚悟を決めたとき、誓許ちゃんは何かに納得した様子をしながら、わたしの左腕を掴んでいた力を緩めた。
わたしは、突然誓許ちゃんの様子が変わったことに驚き、それまでのものとは異なる動揺を隠すことができずにいた。そして、そのまま俯いて何かをぶつぶつと呟いている誓許ちゃんの様子を伺いながら、わたしは誓許ちゃんに声をかける。
「誓許ちゃん……? 大丈夫……?」
「……もっと……もっと早くにわたしが気がついていれば……みんなは……」
「……?」
「……海鉾ちゃん!」
「……っ!? は、はいぃ!?」
誓許ちゃんは顔を俯けたまま、一言二言ぶつぶつと独り言を呟いていた。そして、わたしが声をかけても返事がないことにわたしが少しばかり心配し始めていたとき、誓許ちゃんは急に顔を上げてわたしの両肩を力強く掴んだ。
そんな誓許ちゃんの様子に驚いたわたしは、思わず気の抜けた変な声を上げてしまった。しかし、そんなわたしの声に反応することなく、誓許ちゃんは真剣そうだけど焦っているような表情をしながらわたしに言う。
「いい? よく聞いて? 海鉾ちゃん、今日はもう家に帰りなさい。何かしなければならない用事があっても、何か特別な事情があっても、絶対に真っ直ぐ家に帰りなさい……だから、決して冥加君の後をつけようだとか、そんなことは考えないで。お願い」
「……え? それってどういう――」
「わたしは、こんな些細なことに気がつけず、確信を持つことができなかった。だから、あの四人は……とにかく、今日はもう家に帰って。分かった?」
「う、うん。分かったから、もう手を離して?」
「あ、ごめん……」
誓許ちゃんが何を言っているのか、それ以前にどんな意味があってそんなことを言ったのか、わたしには理解することができなかった。でも、もしかするとあと少しで今の状況から開放されるかもしれない。そう考えたわたしは、とりあえず誓許ちゃんの台詞に話を合わせることにした。
わたしは最初から今まで誓許ちゃんとの会話を一刻でも早く終わらせることしか考えておらず、冥加くんの後を追いかけたいという気持ちしかなかったわけだけど、誓許ちゃんはそんなこと、知る由もなかった。
誓許ちゃんがわたしの肩を掴んでいた力を緩め、手を離した後、わたしはいたって平然な表情をした。そして、誓許ちゃんを慰めるかのように言う。
「こっちこそ、何か色々とごめんね。心配かけちゃったみたいで」
「……いや、分かってくれたらいいんだよ」
「じゃあ、わたしはもう帰るから。誓許ちゃんも、もう夜遅いから気をつけてね」
「あ、うん。ありがとう。それじゃあ」
「ばいばーい」
わたしが素直に誓許ちゃんの言った通り、真っ直ぐに家に帰るという意思を示したからなのか、誓許ちゃんは心底安心したような表情をしてわたしに手を振っていた。わたしもそんな誓許ちゃんに手を振りながら、冥加くんが歩いて行った方向へと歩き始める。
幸いなことに、わたしの家がある方向はさっき冥加くんが歩いて行った方向と同じだから、誓許ちゃんには怪しまれずに済む。わたしは、誓許ちゃんがわたしのことを追いかけていないことを確認し、誓許ちゃんも自分の家の方向へと歩き始めたのを見た後、少しばかり子走りで冥加くんの後を追った。
誓許ちゃんに左腕を掴まれて引き止められる直前、冥加くんがマンションから出てきてから十分くらいが経過している。冥加くんがどこか目的地があって歩いてそこまで移動しているのなら、わたしが走ればその内追いつけるはず。
誓許ちゃんが何でこんな時間にあんな場所にいて、しかもわたしに何かよく分からないことを言ってきたことについても調べておきたいけど、今はそんなことに構っている暇はない。
折角毎晩毎晩冥加くんを待っていて、今日は冥加くんが夜遅くに外に出てくる日だったのだから、それを逃す手はない。それに、夜遅くに冥加くんと二人きりになれたのなら、色々と話したかったことや伝えたかったこともあったから、それもできるしね。
まあ、わたしの本心としては、ただ単純に冥加くんに伝えなければならないことがあるからだとか、冥加くんに本当のわたしのことを気づいてほしいなんてことも、もちろん理由の一つにはある。でもそれ以上に、冥加くんにストーカーだと思われても構わないから、わたしのことを見てほしい。
もはや自分でも何がしたいのかがよく分からなくなってきているわけだけど、やはりわたしの本心は、最終的にはそこに落ち着く。わたしが冥加くんの犯行をサポートしてきたのも、あのときの約束を冥加くんに思い出してもらって、わたしのことを見てほしかっただけだったから。
そんなことを考えていると、わたしが走る速さは次第に速くなっていた。つい数分前、誓許ちゃんに手を振って歩いていたときと比べても、その差は歴然だった。
そのお陰もあってなのか、そのままさらに数分間走り続けたときわたしは、非常に焦っている様子が伺える表情をした冥加くんが急いで人工樹林の中へと走って入っていく姿を見つけた。