第八話 『破砕』
冥加くんと葵聖ちゃんが二人きりで教室に残って何をしているのかが気になったわたしは、霰華ちゃんと誓許ちゃんと一緒に帰っていたのを途中でやめて、教室へと引き返すことにした。そしてその途中、教室へと行くために通る必要がある廊下で、わたしは『奇声』を聞いた。
「何……? 今の笑い声……」
耳をつんざくような、人の恐怖観念を根本的な部分から刺激するような、狂気じみていて、イカれている、うるさい笑い声。わたしはその笑い声を聞いた瞬間、一刻も早く教室に向かおうとしていた足の動きを無意識のうちに止めてしまっていた。それほどまでに、その笑い声はわたしの心に恐怖の感情を植え付けていた。
もしかして、今の笑い声は葵聖ちゃんのものなのではないだろうか。今、わたしのクラスがある階には三人しか人は残っていないはず。その三人とは、教室に向かっているわたしと、教室に残っている冥加くんと葵聖ちゃんのことだ。他のクラスメイトは教室から出たはずだし、同じ階にある他のクラスの生徒も全員先に帰ったはずだ。たぶん、先生たちもいないはず。
そして、あの笑い声はその音の高さからしても、どう考えても冥加くんのものではない。つまり、あの笑い声の音は非常に高く、男の子である冥加くんが出すとは思えないし、もし出せたとしても喉が潰れてしまうと思えるものだった。
そのとき、わたしの脳裏にある一つの嫌な予感がよぎった。
あの笑い声が冥加くんのものなどではなく、葵聖ちゃんのものだったとしよう。そうなれば、何で葵聖ちゃんはそんな風に狂ったように笑ったのか。わたしが冥加くんの秘密を知っていて、それらのことを知っている葵聖ちゃんから情報を得たりしていなければ、次の考えはまず想像もつかないだろう。
『葵聖ちゃんは冥加くんに何かをした』。いや、もしかすると、『葵聖ちゃんは冥加くんを殺した』という可能性さえも浮上してくる。
わたしはそんな嫌な考えを導き出してしまった自分のことを心底恨み、そして、万が一の可能性にかけて冥加くんを助けるために、恐怖で震えていた自分の足を必死に動かした。
普段通るだけならば、おそらくわたしが通ったその廊下の長さは三十メートル程度だっただろう。でも、今のわたしの感情は大好きな人を失うかもしれないという恐怖と、自分もその次に殺されるかもしれないという恐怖の、二つの恐怖によって支配されていた。だからなのか、その廊下は本来の何倍もあるように、何百メートルもあるように思えた。
果てしなく長い廊下を、果てしない時間をかけて、わたしはようやく教室の近くまで辿り着いた。わたしの感覚が狂っていなくて正しければ、その距離は残り十メートルもない。そして、ここまでの所要時間もさほど大したことはない。わたしは走っていたのをやめ、その代わりにゆっくりと歩き始めた。
そんなとき、不意にわたしの目の前を一つの人影がゆっくりと横切る。
「え……? 冥加……くん……?」
わたしの目の前を横切ったその一つの人影はまさしく、このわたしがこの世界の誰よりも愛している、あの冥加くんだった。その事実はどう偽ることもできず、このわたしが彼のことを忘れるわけがない。顔と容姿と漂う雰囲気をどこからどう見ても、その人物は冥加對くん本人だった。
わたしは冥加くんが死んでしまったかもしれないと思って廊下を走ってきた。でも、幸いなことに冥加くんは生きていた。わたしは冥加くんが生きていてくれたことに対して喜びと嬉しさの感情が込み上げてくると同時に、呆気に取られ、ある一つの疑問が自分の中で生み出されたことに気づいた。
わたしの目の前を横切る冥加くんはわたしの呟きのような、驚愕のような小さな声に耳を傾けることなく、教室のすぐ目の前にある階段を下って行った。この階段は、ついさっきわたしが教室に向かうために通ったエスカレーターとはまた別の場所にあるものだ。
そのときの冥加くんの瞳は真っ直ぐに正面に向けられており、しかし視界に入ったものすら認識できていないのではないかと思われるほど無機質な印象を受けた。一定の速度で階段を下りていく冥加くんの後ろ姿を眺めながら、わたしは、そんな冥加くんのことをわたしがよく知る普段の冥加くんとは何か違う雰囲気があるな、と思った。
冥加くんが生きていたことはよかったけど、またしても冥加くんに声をかけたにも関わらずわたしに気づいてくれなかったことに対して、わたしは少しばかりの苛立ちを覚えていた。でも、そんな苛立ちさえも吹き飛ぶような疑問がわたしの中ではまだ残っていた。
「あれ……? そういえば、葵聖ちゃんは……?」
階段を下りていく冥加くんの後ろ姿を眺めながら、わたしはそんな一言を呟いた。
冥加くんはわたしの目の前を通ってくれたから生存確認できてよかったけど、葵聖ちゃんはまだ教室にいるのだろうか。さっきまで教室には冥加くんと葵聖ちゃんしかいなかったのだから、話が終わったのなら一緒に帰っても不思議ではないはずなのに。
そんな疑問をこれからどう解決していこうかと考えながら、わたしは階段がある方向から教室がある方向へと顔を向けた。その結果、そんな疑問はわたしが考えるまでもなく、一瞬にして理解へと変換され、吹き飛んだ。
わたしが見た教室の透明な強化ガラスの先にあったその光景は、まさに『地獄』と呼べる惨状だった。
「葵……聖……ちゃん……!」
わたしはその光景を見て驚きを隠せないでいた。いや、もしかすると心のどこかでは、いつかはこんなことになるのだろうと思っていたのかもしれない。もしくは、こんなことになってくれたほうがいいのだろうと思っていたのかもしれない。
わたしはその光景をまだ半信半疑のまま凝視しながら一歩一歩ゆっくりと足を歩み進め、透明な強化ガラスの自動ドアを開け、教室の中に入った。
そこには、直視すれば一瞬にしてが気分が悪くなるような惨状が広がっていた。
葵聖ちゃんはグッタリと力なく教室の壁にもたれかかるように倒れている。目が開いているのかどうかは確認できないけど、口が裂けそうなほど狂気じみた笑みを浮かべており、その全身からは大量の血が流れ出している。また、その大量の血は葵聖ちゃんの白くてフワフワとした長い髪や着ている制服をグッショリと真っ赤な色に染め上げている。
葵聖ちゃんの体から流れ出ていた大量の血はどうやら、制服越しでも分かるほど、何度も刃物か何かで切り付けられたことによってできた傷口からによるものらしい。よく見てみると、倒れている葵聖ちゃんの体のすぐ傍には刃先が真っ赤に染まった小さなナイフが一本、無造作に放置されている。
その惨状がある教室の一角だけでなく、教室全体にまで飛び散っている血も存在する。葵聖ちゃんが倒れている場所に近い壁や席は言葉通り、元の色が分からなくなるほど真っ赤に染まっており、決して近くない場所にもいくつかの血痕が確認できる。
そして、そんな惨状の残酷さをさらに際立たせていたのは、血から漂う嫌な匂いだ。普段ならまず嗅ぐことはないと思うけど、何とも言い表せられない気分が悪くなりそうな嫌な匂いが教室中に充満している。
その惨状を見たわたしは葵聖ちゃんがどうなってしまったのかを確認するために、グッタリと倒れている葵聖ちゃんのもとへと歩み寄り、屈んだ。その拍子に、わたしが履いていた上履きに葵聖ちゃんの体から流れ出た血がビチャッと気持ちの悪い音を立てながら付着する。
葵聖ちゃんの髪や制服に付着している血の量、倒れている葵聖ちゃんの真下に水溜りのように広がっている血の量、教室中のいたるところに飛び散っている血の量。これらの総量を考えると、おそらく葵聖ちゃんはすでに出血多量で死亡してしまっているだろう。どう考えても、誰が見ても、これではあまりにも出血の量が多過ぎる。
わたしはこの現場を最初に目撃したときには驚きを隠せないほど驚愕していたにも関わらず、今になっては無感情とほぼ変わらないほどいたって冷静に、続けて現場の状況とここまでの経緯を考える。そしてその直後、すぐさま導き出された結論を自分自身に提出した。
『冥加くんが葵聖ちゃんを殺した』。それ以外には考えられない。
わたしは冥加くんが教室の中から出てくるのを見た。そして、その直前まで冥加くんがいた教室にいたのは冥加くんと葵聖ちゃんの二人だけ。この階にはわたしたち三人以外の人はおらず、教室は前方と後方の出入り口二つを除けば存在しない。また、壁を無理矢理突き破って誰かが侵入した形跡もない。
つまり、冥加くんは葵聖ちゃんに殺された。失血死で死亡するほど大量の血が流れ出すまで全身を何度もナイフで切り付けられて。今回の冥加くんの犯行は、それを想像するだけで恐怖によって背筋が寒くなり、あまりの残酷さに吐き気がこみ上げてくるようだ。
冥加くんが赴稀ちゃんに続いて葵聖ちゃんを殺した理由はおそらく、赴稀ちゃん殺人事件を巡ってのお互いの利害の不一致なのだろう。
冥加くんは当然ながら自分が犯人であることがバレると捕まってしまうのでそれを隠したい。そして、葵聖ちゃんは冥加くんが赴稀ちゃんを殺している場面を目撃したけど、冥加くんから何かを言われて説得されて、それを言うつもりはない。
でも、二人の状況が『何か』をきっかけに変わった。
それが具体的に何なのかは分からない。でも、それが現実に起きたことは確かだ。そうでなければ、冥加くんが葵聖ちゃんを殺したことについての理由が分からないし、一番もっともらしい原因はこれくらいしか思い浮かばない。
その結果、冥加くんは葵聖ちゃんを殺し、何事もなかったかのように事件現場である教室を後にした。その直後、わたしが教室を出てきた冥加くんの姿を目撃し、そのまま葵聖ちゃんの殺人現場までもを発見して、今に至るというわけだ。
わたしは冥加くんをサポートする、と自分の心に強く誓った。それは嘘偽りなく、神が存在するならそれに誓ってもいいほど、確かな事実だ。まあ、たとえ世界の始まりや創造主があったとしても、実際に神なんているわけないけどね。
だけど、これはあまりにも酷過ぎる。いや、赴稀ちゃんの場合は四肢をバラバラにされていたのだからもっと酷いけど、原型を留めている程度に血まみれになるまで切りつけて殺すほうが人体の形が残っている分、余程酷いとすら思えてくる。
わたしは冥加くんが赴稀ちゃんと葵聖ちゃんを殺した犯人であることを誰かに言うつもりはないし、これからもこれまでと変わらずにずっと冥加くんをサポートするつもりだけど、今回ばかりはどうしても葵聖ちゃんに同情してしまう。
確かに葵聖ちゃんは冥加くんの秘密を知っていて、正直言って死んだほうがいいような邪魔な存在だったけど、やはりいなくなってしまうと悲しいものだ。少なくとも、わたしの数少ない友だちの一人だったのだから。
わたしが自分の左腕に取り付けられいるPICを操作して、誰か人を呼んで葵聖ちゃんが殺されたことを誰かに伝えようと考えたとき、不意にわたしの頭の中にある考えが浮かんだ。
せめて、葵聖ちゃんは赴稀ちゃんのように悲惨な状態でわたし以外の誰かに発見されないようにしよう。わたしは何がどうあっても冥加くんの共犯なのだから、これ以上どう罪が重くなっても問題ないはずだ。だから、少しだけ死体の場所を移動させたり、口が裂けそうなほど笑っているこの表情を正常時のように戻してあげよう。
そう考えて、わたしは倒れていた葵聖ちゃんの体を起こし、教室の壁にもたれて座っているような状態にした。これなら、血はたくさん出ているけど、さっきよりは大分安らかに眠っているように死んでいると見えることだろう。あとはこの狂気じみた表情を正常時のように戻すだけ。
そして、わたしが葵聖ちゃんの狂気じみた表情を正常時のように戻そうとその口元に手を当てたとき、異変は起きた。
「……ア……アヒハハハハハハハハ!!」
「……ひっ……痛っ……!」
突如として、死んだと思っていた葵聖ちゃんの両目が飛び出そうになるほどグワッと見開かれ、裂けそうなほど開いていた口がわたしの手に噛みついた。それによって、葵聖ちゃんの鋭く尖った歯がわたしの左手に突き刺さる。
その瞬間、わたしの左手に強烈な痛みが走る。反射的に葵聖ちゃんに噛まれた左手を引き抜くと、空中に真っ赤な雫がいくつも飛び散った。ふと顔を俯けて見てみると、わたしの左手の平と甲には歯の跡がくっきりと残っていて、その深さは三センチ以上はあるように思えた。また、今もそこから血が吹き出ていることが分かる。
葵聖ちゃんがまだ生きていたことや突然動き始めたことについて驚いたことで、心臓の鼓動はいつになく早くなっており、左手に走る強烈な痛みを必死に堪えるあまり、わたしはその場から身動きがとれなくなった。
すると、そんなわたしを蔑むように、しかし助けを求めるように、葵聖ちゃんは息を荒くしながら声を発する。
「……ア……アハハ……ワタシは……まだ……死にたくな……い……」
「……っ」
「……アハ……血液が……血液がこんなにいっぱい出てる……早く治さないと、ワタシまで……。……こんなはずじゃなかったのに……何で……。……ワタシをこんな……ことにしたやつら……殺害してやる……殺害……全部……全部全部全部全部!! アハハハハアハハハハハハハハ!!」
葵聖ちゃんは全身から大量の血が流れ出ているにも関わらず、そんなのことになどまるで構わないといった調子で、そんなまとまりのない台詞を言いながら狂った笑い声を上げ、ふらふらと安定しない体勢のまま立ち上がった。その瞬間、葵聖ちゃんの体からさっきまでとは比べ物にならないほどの血がゴボッと流れ出し、教室の床をさらに深い赤色に染めた。
一方のわたしは葵聖ちゃんに噛まれたことで左手から大量の血が溢れ出ていたことや激痛が走っていたことで非常に不快な気分になっていた。そんなときに今の葵聖ちゃんのイカれた台詞を聞いたため、わたしの中で何か理性のようなものが吹き飛んだ感覚を得た。
「……うるさいんだよ……この……異常者がああああああああ!!」
「アガッ……!? ……あ……ぁ……」
気づくと、わたしは右手で葵聖ちゃんの顔面をグチャグチャに潰せるほどの力で鷲掴みし、そのまま大声で発狂しながら勢いよく力づくで葵聖ちゃんの後頭部をすぐ後ろにあった教室の壁に打ちつけていた。直後、葵聖ちゃんの悲鳴ともとれる断末魔のような小さな叫び声と呻き声と、後頭部が透明な強化ガラスに激突した衝突音が聞こえてくる。
理性が吹き飛んだわたしは、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も葵聖ちゃんの後頭部を教室の壁に打ちつけ続けた。葵聖ちゃんが抵抗しなくなっても、全身から完全に力が抜けてグッタリとなっても、呻き声が聞こえなくなっても、それでもわたしは自分の行動をやめることはなかった。
葵聖ちゃんの後頭部を教室の壁に打ちつけるたび、教室の壁や床だけでなく、わたしの顔面や体には大量の血が飛び散る。そのたびに、ピチャピチャと液体が当たる音が聞こえる。教室一つが地響きを起こすほど力強く、一度打ちつけるごとに教室の壁に、血が入った水風船を投げつけたように大量の真っ赤な液体がグロテスクなアート作品を作り上げる。
三十回ほど打ちつけたとき、急な運動と過度な衝撃によって、ついにわたしの右腕が悲鳴を上げ、その異常な行動を途中で止めさせた。そして、葵聖ちゃんの死体はついさっき冥加くんにされたときとは比べ物にならないほど全身が血で真っ赤に染まり、教室の壁には水飛沫のように血が飛び散り、床には真っ赤な水溜りのように血の海が広がっていた。
そして、葵聖ちゃんや教室の中をこんなことにしたわたしの顔面には葵聖ちゃんの血が飛び散り、青を基調とする制服にも返り血が付着していた。
ついさっき、わたしも左手を葵聖ちゃんに噛まれたはずだけど、その血はどこへ行ったのかと言いたくなるほど、わたしの目の前には大量の血が広がっている。そして、そんな痛みなどどうでもよくなるような、まさに地獄絵図とも呼べる惨状がわたしの目の前には広がっている。
「……う……ぅ……」
『こんなつもりじゃなかったのに』。わたしがそう気づいたときには、すでに手遅れだった。