第一話 『尾行』
『あるプロジェクトにおいて、当初の目的と最終的な結果が異なってしまうことは仕方のないことだ。おそらく、わたしたちもその内の一つだったのだろう。ただ、わたしたちはその本来の目的の存在すら忘れていたけど』
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
このわたし、海鉾矩玖璃はある一人の男の子のことが大好きだ。
その愛は誰に劣ることもなく、誰よりも勝っていると思う。でも、わたしはそれを決して表面には出さない。普段の生活では、明るく活発的でありきたりなごく平凡な少女として普通に過ごす。こんなわたしができるのはそれくらいのことだから。
わたしが最初に彼と出会ったのは、確か、三年くらい前の話だろうか。その頃、彼は重度の心の病気にかかっており、同様にしてわたしも似たような症状に悩まされていた。そんなとき、わたしは偶然にも彼と出会い、話し、遊び、そして仲良くなった。
そして、その際、ある一つの約束をした。他人に話したところで『何だ、そんなことか』と言われてしまうのがオチかもしれないけど、わたしにとっては一生忘れられない約束だった。
今でも、彼はわたしと仲がいい友だちグループの内の一人だ。わたしはずっと彼のことを追いかけていたから、彼の容姿や性格を忘れることはなかった。でも、何でなのかは分からないけど、彼はわたしのことを忘れてしまっていたらしい。
彼が抱えていた心の病気は高校生になった頃に治ったと聞いていたのに、彼はわたしのことを『初めて出会った一人の女の子』程度にしか認識していなかった。
悲しかった。
それ以来、わたしはそれまでずっっとわたしの中で抑えつけていたこの感情の制御が利かなくなってしまった。その結果、いつでもどこでも彼の姿を目で追い、いつでもどこでも彼の後をつけ回すようになった。
こんなストーカーみたいなことをしていると彼に知られたら、絶対に嫌われる。もし彼に嫌われてしまったら、わたしがこんなくだらない世界に生きている意味もなくなる。
自分の感情がそれを抑えつけられないのなら、もうどうしようもない。でも、彼に嫌われるのだけは絶対に嫌だ。身勝手ながらもそんな風に考えている時期がわたしにもあった。確か、それはこんなストーカーみたいなことをし始めて、三ヶ月くらいが経った頃までの話だったと思う。
そして、その頃にようやく、わたしはあることに気づいた。わたしは平日でも休日でも、彼が家にいても学校にいても、彼が何かをしていてもしていなくても、彼のことを目や体で追いかけていた。
でも、彼は一向にわたしに気づく気配を見せない。試しに普段よりも彼の近くに寄って追いかけたときも、普段よりも彼の視界に入りやすい位置に行ったときも、彼がわたしの存在に気づくことはなかった。というよりはむしろ、『気づかない』というよりも『認識できていない』といったほうが正しいだろうか。
そのことに気づいた時期から、わたしの中にあった『彼を追いかけているときは、絶対に彼に気づかれてはいけない』という決意のような感情は消え失せた。代わりに、『彼を追いかけているときに、ごく自然な形で彼に見つけてほしい』と思うようになった。
正直いって、おかしな話だ。自分でもよく分かってる。
彼のことを追いかけ回しているということを彼に知られれば、当然ながら彼に嫌われる。そのことは充分に理解していたはずなのに、わたしの存在を認識してほしいというだけの理由で、それに気づいてもらおうとしている。そうなってしまった後に、わたしが望む結果などあるわけがないのに、わたしはそんな風に思ってしまっていたのだ。
この感情は、完全犯罪を実現した犯罪者が思っていることと似たようなものを感じられる。いや、完全犯罪というものはその犯罪の存在自体が他の誰かに知られた時点で『完全』犯罪ではなくなるし、わたしは誰かを殺したりしたわけではないけど、それでも、『自分がしている罪を誰かに気づいてほしい』と思うこの感情だけは似ているような気がする。
くだらない。それは勿論、こんな世界に対してでもあるけど、それ以上に、こんな意味のないことしか考えられないわたし自身が。
まあ、そんなことはさておきとして、ある日の晩。現在時刻は午後十時を少し過ぎたくらい。毎日の日課として、今日もわたしは彼が住んでいるマンションの近くで一人、彼のことを待っていた。
ついさっきまで。
『待っていた』という言い方は少しおかしいかもしれない。別に、わたしが彼と約束したわけではないし、そもそも基本的に彼は夜遅くに家の外に出て遊び呆けたりはしない。だから、これはわたしが一方的に、彼のことを追いかけ回しているだけに過ぎない。
それでも時々、彼は家の近くのコンビニに簡単な買い物に行ったり、友だちの家に用事があって行ったりするときには出てくるから、わたしはそういう数が少なくて滅多にないイベントが発生するのを待っている。頻度は大体、一ヶ月に一回かそれ以下か。だけど、いくら偶然会える確率が低かったとしても、わたしは彼のことを待ち続ける。いつまでもどこまでも。
彼のことが大好きだから。
しかし、今日は彼は家の外に出てきたにも関わらず、普段とは異なる行動をとっていた。
つまり、今日は夜遅くに彼が家の外に出てくる日だった、ということまでは同じだったけど、その後の行動が普段大きく異なっていたということだ。彼はこれまでに一度も行かなかったその場所へと向かい、わたしもその後を追った。最終的に彼と彼を追いかけてきたわたしが辿り着いたのは、彼の家から学校までの通り道にある一つの人工樹林だった。
わたしも幼い頃はここに何度か来たりしたけど、正直いって、今さらこんなところに用はない。それに、彼だってこんなところに来る理由なんて何もないはずだ。それ以前に、ここには誰かが住んでいるわけではなく、野生の生命体がいるわけでもない。また、秘密基地を作れるような大きな広場もなく、そのままの意味で人工樹木しかないはずだ。
幼稚園生や小学生などの幼い頃ならば、こんな何もない場所に来るだけでも楽しかったのかもしれないけど、今になって見てみると、ここは『汚染された空気を浄化し、酸素を生み出す役割を持つ程度の場所』にしか思えない。
それだけ、わたしの精神年齢が成長して物事を客観的に見れるようになったということなのだろう。だけど、何事も全てに対して楽しむことができていたあの幼かった日のことを思い出せないというのは、中々悲しい気持ちになってしまう。
わたしの思い出話はともかくとして、彼が人工樹林の中に入ってから、早くも三十分程度が経過した。
人工樹林の中にはわずかに月の明かりが差し込んでくるだけで真っ暗なので、あまり入りたくない。それに、見通しが悪いから彼のことを見失ってしまう可能性だってあるし、彼の姿形や存在を感じたくて追いかけているのに見失ってしまったらわざわざこんなところに来た意味がなくなる。
また、こんな普段来ないような場所で夜中に会ってしまうのはまったく偶然でも自然でもないので、わたしが望んでいる彼に見つけてほしいシチュエーションとは大きく異なる。だから、わたしは人工樹林の入り口のすぐ近くに一人で立って待っていた。
『つまらない』、『退屈だ』、『暇だ』。そんな感情は出なかった。なぜなら、この人工樹林の中に彼はいて、わたしはその人工樹林の外にいる。彼が出てきたらまた追いかけて、そのうちごく自然な形で彼に見つけてもらう。そんな想像をしていると、自分や他人に退屈を訴えるような感情は出ず、むしろ楽しくなってくるのだった。
一体、彼はこの人工樹林の中で何をしているのだろうか。誰かと会っているのだろうか。わたしが追いかけていたときには、他に誰かがいる気配はなかった。だから、この人工樹林の中には彼しかいない。もしくは、彼よりも前に誰かがいたか。そのどちらかに絞れる。
「……ん?」
そんなことを考えていたとき、ふとわたしの左腕に取り付けられているPICからアラーム音が聞こえてくる。誰かから電話がかかってきたときとメールが届いたときとそれ以外ではアラーム音が若干異なることから、そのアラーム音は誰かからわたしにメールが届いたのだと思い、わたしはPICを操作してそのメールを開いた。
PICの真上の空間に映し出された立体映像の中で、メールの文面を表示する画面を見る。どうやら、わたしにメールを送ってきたのは地曳赴稀という、わたしの友だちの女の子だった。
わたしには、赴稀ちゃんや彼以外に他にも仲が良い友だちが六人いる。まあ、その中でも赴稀ちゃんは周囲の空気を読むのが不得意だけど、逆にいってしまえばムードメーカーな印象もある、少し変わった女の子だ。一応、わたしも女の子同士としてよく話すけど、思い返してみれば、話が噛み合わなかったことのほうが多かったような気もする。
さて、それはさておきとして、そんな赴稀ちゃんから送られてきたメールの文面は『この世界は昨日から作られた』という一文のみだけだった。それ以外に何か説明があるわけでもなく、絵文字などがあるわけでもなかった。
まあ、赴稀ちゃんはいつでもこんな風によく分からないことを口走ったり、意味不明なことをしてきたりするので、おそらくこの謎のメールもその内の一つなのだろう。だから、それほど気にする必要もないと思う。何か重要なことなら、メールの文面にもう少し説明を付け加えるか、電話をかけるか、直接話すか、そのどれかにするはずだしね。
「……あ」
メールを見終わったわたしがPICを閉じたとき、不意にわたしの視界に一つの人影が映った。それと同時に、わたしはすぐにその人影が見えた方向に顔を向けた。もし彼が帰ってきたのなら、こんなところにわたしがいるのは非常に不自然であり、彼はそのことについてわたしに尋ねてくるだろう。わたしはそのことを恐れるあまり、思わず思考が停止してしまった。
わたしが見た方向には、予想通り彼の姿があった。彼は何やらわけの分からないことを口々叫びながら、人工樹林の中から全力疾走で出てきた。わたしがいる場所と彼が出てきた場所の間はおよそ十メートル。このままだったら、わたしは隠れることもできずに彼に見つかる。
そう思ったわたしは、ひとまず彼に尋ねられるよりも前に言い訳をしておかなければならないと考え、自分の思考が追いつかないままに彼に対して声を発していた。
「冥加くん! こ、これは……その――」
しかし、わたしのその苦し紛れの言い訳がまだ最後まで言い終わっていないにも関わらず、ここでもまた彼はわたしのその声に反応することなく、通り過ぎて行った。あとに残ったのは、またしても彼に認識してもらえなかったために、呆然として立ち竦んでいるしかなかないわたし一人だけだった。
そのときの彼の表情は何かとてつもない恐怖の感情を植え付けられたようであり、彼が着ていた私服には服の模様や柄とはとても思えない真っ赤な痕がびっしりとこびり付いていていた。あと、彼はわたしのすぐ隣を通り過ぎて行ったにも関わらず、一瞬たりともわたしがいた方向を見ることはなかった。
「……はぁ」
何なのよ。まったく。
彼が通り過ぎて行ってから一分間ほどその場で立ち竦んでいるしかなかったわたしが、その後にまず最初に思ったのはそんなことだった。
確かに、今のシチュエーションはわたしが彼に気づいてほしいと思っていたものとは大きく異なる。でも、わたしの声に少しくらい反応するだとか、せめて一瞬だけでもこっちに視線を移すとか、そういうことくらいしてくれてもいいのに。
彼、すなわち冥加對くんは昔から今までずっっとそうだ。いつでもどこでも、少したりともわたしのことを認識してくれない。もしくは、多少は認識していたとしても、本当のわたしのことを認識してくれない。しかも、以前何気なく聞いてみたところ、あの日の約束さえも忘れてしまっているみたいだし。
わたしは日頃から、本当のわたしに気づいてもらうために、冥加くんに何度もアプローチをしているのに、やはり冥加くんは気づいてくれない。冥加くんが鈍感なのか、それともわたしの影が薄いだけなのか。前者はともかくとして、後者ではあってほしくない。
「さて、これからどうしようかな」
冥加くんが人工樹林の中から出てきてから、およそ五分。もうその後ろ姿も夜の闇に隠れて見えないほど、冥加くんはわたしの遠くへと行ってしまった。
人工樹林の中で何があったのかは知らないけど、おそらく、冥加くんは家に帰ったのだろう。それに、現在時刻は午後十一時を少し過ぎたくらいだ。もうそろそろわたしも家に帰らないと、明日の学校の授業がつらい。
でも、わたしはそのまま後方を振り向いて歩き始めた。つまり、冥加くんが人工樹林から離れて行ったのとは逆に、わたしは人工樹林へと入って行った。
あまり暗いところは得意ではないし、どちらかといえば苦手だ。でも、わたしはどうしても知りたかった。何で、冥加くんはあんなにも何かに対して恐怖したように、急ぎながら、焦りながら、逃げるように人工樹林の中から出てきたのか。
冥加くんのことなら何でも知っているわたしが知らないそんなことを、わたしは調べて知っておく必要がある。そう思ったときには、わたしはもう人工樹林の中に入って、冥加くんが何を見たりしたのかについて調べ始めていた。
人工樹林の中は月の明かりが上空にある雲や人工樹木の葉によって隠れたとき以外は何も見えないくらいに真っ暗で、そうであったときもそうでないときも、何も聞こえてこないほどにその空間を静寂が支配していた。
うっかり足元にある人工樹木の根っこに引っかからないように注意しながら、わたしは進んで行く。ここの人工樹林は他の人工樹林よりは広くなく、エリアの四分の一もないから迷ったりはしないと思うけど、一応自分がどこを通ってきたのかを記憶しながら、PICの明かりを頼りにしながら歩いた。
どれくらい歩いただろうか。PICを見れば現在時刻も現在位置も一発で分かるけど、逆にいえばそれらを見なければ、わたしは自分がこの世界のどこにいるのかを知ることができない。それほどまでに、今わたしがいる人工樹林は異質で異世界のような空間だった。
そんなとき、またしてもPICのアラーム音が聞こえてくる。
「……また?」
懐中電灯の代わりとして使用していたPICの明かりをそのまま維持しつつ、わたしはPICを操作して、つい三十分くらい前に赴稀ちゃんからメールが送られてきたときと同様に、メールの文面を表示する画面を開いた。
今度のメールの送り主もさっき同様に、またしても赴稀ちゃんだった。メールの文面は『さっきのメールに深い意味はないから気にしないで。ごめん』だった。さっきのメールも充分に謎だったけど、このメールは一体何なんだろうか。
もしかすると、本当はわたしに送るつもりじゃなかったけど間違って送ってしまって、今になってそれに気づいたから、その訂正のために送ったのだろうか。でも、このメールはともかくとして、さっきのメールは誰に送ったら意味が通じるのだろう。まあ、また明日学校で赴稀ちゃん本人が詳しい話をしてくれるかもしれないし、それを待っていればいいかもしれない。
今、わたしがするべきなのは、『用事がないはずなのになぜか人工樹林に入った冥加くんが、その数十分後に物凄い形相で逃げるように飛び出した』ということの解明だ。それ以外のことは後回し後回し――、
「アヒッアハハハハハハハハ!!!!」
そのとき、何の前触れもなく、そんな風に狂気に満ちたおかしな笑い声が人工樹林の中に響き渡る。その声に完全に不意を突かれたわたしは、その声が聞こえると同時にビクッと体を震わせ、驚きを隠せないまま、その声がした方向を見た。
今の声は誰のものなのか、どこから聞こえてきたのか。誰の声なのかまでは分からないけど、大体の位置なら推測することができた。わたしはその声がした方向へと体の向きを変え、さっきまでと同様に人工樹林の中を進んで行った。
そして、それからおよそ五分が経過したとき、わたしはその現場へと辿り着き、何の心構えもできていないままそれらを目撃した。
「何……これ……」
わたしはその現場を見たとき、はじめはそれらが何なのかが分からなかった。でも、その場を見渡して状況を確認していくにつれて、ようやくそれらについて理解することができた。
そこには、わたしの友だちの女の子であり、ついさっきわたし宛てに二通の謎のメールを送ってきたあの赴稀ちゃんが、胴体から腕や足や首などの体中の部位をバラバラにされ、その現場に隣接していた人工樹木に辺り一面が真っ赤に染まるほど大量の血液を撒き散らして死んでいた。いや、死んでいたというよりはむしろ、切断されたといったほうが適切のような気さえしてくるほどに。
つまり、その場所にはわたしの友だちの女の子のバラバラ死体が存在していた。
「……うっ……」
鼻を刺激する強烈な血液や内臓の匂いと、目の前に見える残酷で悲惨でグロテスクな殺人現場。こんなもの、深夜ドラマとかでも見たことがない。それ以前に、今どき殺人事件や人身事故なんて起きるはずないのに、何でこんなことに……。
そんなことを思っていると、わたしは自分の胃の中のものの全てが逆流するような嫌な感覚に襲われた。幸いなことに、その場でそれを人工樹林の地面にぶちまけるには至らなかったけど、まだ気分は悪いままであり、かなりショッキングな殺人現場を見てしまったからなのか頭痛がしてきた。
それほどまでに、わたしの目の前に広がっていたその惨状は気持ちの悪いものだった。仮にも友だちが一人無残な姿で殺されているにも関わらず、悲しんだりするよりも前に、わたしはそう思ってしまったのだった。
「とりあえず、警察に――」
何はともあれ、今わたしの目の前に広がっているのは、無残に四肢をバラバラにされて殺されている、友だちの女の子である赴稀ちゃんの死体だ。つまり、これは事件だ。だから、わたしは警察に通報しに行こうと考えた。
でも、その直前、わたしが一言だけそう呟き終わるまえに、真っ暗で何も見えない人工樹林内の草むらから、ガサガサという物音が聞こえてきた。
「だ、誰っ!?」
その物音に驚いたわたしは咄嗟にその物音がした方向を向き、焦りながらもそこにいたと思われる『誰か』に声を発した。しかし、そのまま静止してしばらく待ってみたものの、返事はない。
わたしは怖くなった。
そこにいた『誰か』が今わたしの目の前にある現場を作り出したのなら、わたしもこんな風に無残に切り刻まれてしまう。もしかして、冥加くんもそれを恐れて、人工樹林の中から何かに恐怖したような表情をして走って出てきたのではないだろうか。
嫌な予感や負の感情がわたしの中で入り乱れ、わたしは全身が震えて大量の汗かいていたことに気づいた。この場所にこれ以上長くいてはいけない。わたしの中の生存本能のような何かが、わたしに向かって必死にそう訴えてきているような気さえした。
気づいたとき、わたしはその殺人現場から逃げるように走り去っていた。