第二十四話 『先』
まるで気を失っていたかのように自室の床に大の字になって倒れこんでいた俺は、何かきっかけがあったわけでもないが、ふと目を覚ました。
寝ぼけながら、俺の左手首に取り付けられたままになっていたPICを確認してみると、現在時刻は午前九時三十分を少し過ぎた頃。今日は土曜日や日曜日などの休日ではなく、火曜日だ。当然のことながら、今日も学校では授業が行われる。
だが、俺はそんなことなどどうでもいいかのように、まったくといっていいほど学校に行く気が起きなかった。俺が目を覚ましたのは午前九時三十分頃だが、実質的に眠りについてからはまだ三時間程度しか経っていない……はずだ。
思い出してみると、一番最後にPICに表示されている時刻を確認したときは確か、午前六時を少し過ぎたくらいだったと思うので、大体はそんな感じで合っているだろう。
昨晩、俺は気分転換をするため、深夜遅くに一人で外に出た。そのとき、逸弛から『火狭に殺される』という連絡を受けた。結局、逸弛は火狭に殺されたらしく、その真相を確かめるために俺は二人の元へと急いだ。
しかし、その現場で俺が見たのは、火狭が棒で何度も何度も逸弛の死体を殴り続けているという残酷な光景であり、俺は『火狭がこれまでの四回の殺人事件の犯人だ』と確信した。そして、逸弛の願いを無駄にしないためにも、一刻も早くこのことを誰かに伝えなければならないと思い、その現場をあとにしようとした。
だが、そのとき、俺はうっかり人工樹林の根っこに足を引っかけ、火狭に俺の存在を気がつかせてしまうほどの音を立てながら大きく転んでしまった。案の定、俺が隠れていたことに気がついた火狭は倒れていた俺のほうへと歩いてきて、俺のことさえも逸弛同様に撲殺しようとした。
そのときは俺も自分がどうにかして生き延びることだけに意識を集中しており、全てが終わった今になって当時の出来事を思い出そうとしても記憶があやふやなのだが、なんとか火狭からの猛攻を凌ぎきり、自宅まで帰ってくることに成功したのだった。
武器はなく体力も火狭に負けていたかもしれない俺だったが、火事場の馬鹿力とでもいうのか、人間は自分の生死が関わる重大な場面に遭遇すると思いもよらない力を発揮できるらしい。
自宅に帰ってきた後、俺はもし火狭が俺のことを追いかけてきていたらどうしようという恐怖観念に捉われ、早朝に太陽が昇ってくるまで一睡もできないまま自室で気を張り詰めているしかなった。
しかし、最終的には睡魔に打ち勝つことができず、気が付いたら寝てしまっていたわけだが、どうやら火狭は俺の家まで来ることはなかったらしい。玄関の前やマンションの周りで待ち伏せしている可能性も考えられるが、長い棒を手に持った血まみれの女の子がそんなところをうろついていたらすぐに通報されると思うので、あまり気にし過ぎないことも大切かもしれない。
自室の床に大の字になって倒れこんでいた俺は恐怖や不安によってかいた汗でグッショリと重くなっていた普段着を脱ぎ、制服に着替えた。そして、鞄に授業用のタブレットが入っていることを確認し、朝食も取らずに家の外へと出た。
一応、玄関の周りに火狭がいるか否かを確認しておいたが、火狭どころかそれ以外にも誰もいなかったので、俺の身の安全が保障されているという意味では安心できるのだろう。
浮かない気分のまま、とりあえず今のところは安全だと分かっていても少々不安になりつつ、俺は重苦しい雰囲気のまま学校へと向かった。先ほど嫌な目覚め方をして起きたときから三十分近くが経過し、現在時刻はもう少しで午前十時になろうかという頃だ。
本日あるはずの学校での授業はもう始まっているだろう。当然ながら、十時過ぎに登校したのなら遅刻だ。でもまあ、その遅刻に理由がないわけではないし、これまで俺はほとんど欠席をしていないので単位に関しては問題なさそうなのでそれほど心配する必要はなさそうに思える。
歩道には俺以外の歩行者はおらず、すぐ近くの車道には一台も車が走っていない。まさに孤独、一人きりな道を黙々と歩いていた。
現代では、学生・専業主婦・怪我人などの働くことができない人、もしくは働く必要のない人たち以外の人は存在していない。つまり、働くことができる状態の人たちの中に無職はおらず、全員が少なくとも何らかの職に就いているのだ。
世界の人口が減ったことや地球上の資源が底を尽きかけていることから、少しでも働ける人員を増やすために、『働ける条件に当てはまるにも関わらず、一年間以上無職だった者はオーバークロック刑』という法律が十年くらい前に新たに制定された。
また、以前説明したように、学生はそれまでの学習方針が一新され、勉強する内容が三年分前倒しされた。そして、学生は全員大学生までが義務教育になり、大学では卒業後どんな仕事に就いても問題ないように四年間教育されることになる。
これによって、今や日本での働ける条件に当てはまるにも関わらず無職である人はほとんどいない。それでも、何千人かに一人か二人はいるのだが、新しい法律の制定前と比べると格段に減っているらしい。
まあ、国民の全員が大学まで勉強して、大学では仕事に関することだけを教え込まれているから就職には困らないし、一年間無職だったらオーバークロック刑にされてしまうのだから、当然死に物狂いで仕事に就こうとするのだ。誰だって、苦しいことやつらいことは嫌だからな。
そういうわけで、俺みたいに堂々と遅刻するような学生や専業主婦さえいなければ、日中は国民の大半が学校や職場に行っているため、どの街もガランと誰もいないような状態になるということだ。
それでも、去年だっただろうか、こんなことがあったときは何度か人や車を見かけることもあったのだが、今日はこの世界にいるのが俺だけになってしまったのではないかという錯覚に陥ってしまいそうなくらい、誰かに会うこともなかった。
自宅から出発してから十分くらいが経過した。俺は誰もいない長くてなだらかな坂をあがり、昨晩も行った人工樹林の前に辿り着いた。俺はその人工樹林を一度だけ見た後、昨晩あったことについて考え始める。
昨晩、俺が見た光景……いや、見てしまった光景。あれらのことをどうやって遷杜や海鉾に伝えるべきだろうか。一見、ありのまま話しても問題なさそうだが、それだと『何で冥加は水科を火狭から救えなかったのか』ということのほうを取り上げられる可能性もある。
できる限り俺が知っている情報や真相をありのまま嘘偽りなく二人に伝えたいところだが、現実はそううまくはいかないものだ。
それに、火狭が今どこで何をしているのかということも大きな問題になる。
もし、昨晩あったことを何事もなかったかのように学校に登校しているのなら、俺が学校で遷杜や海鉾に接触することは極めて困難だ。それどころか、火狭は目撃者である俺のことを殺そうとしてくるかもしれないし、無関係な遷杜や海鉾のことを人質にするなどして巻き込む可能性もある。
それとは逆に、火狭は俺が学校に登校することを警戒して登校していないという可能性もある。これなら、俺は学校で遷杜や海鉾に真相を話すことができ、学校にいる限りは俺の身の安全も保障されるということになる。
だが、この場合、火狭が学校に登校していた場合と比べて非常に厄介や問題が出てしまう。それは、『火狭が今どこで何をしているのかが分からない』ということだ。
もしかすると、今このときも火狭は俺の命を狙って背後にいるかもしれないし、どこかで待ち伏せしているかもしれない。ヒントがないのだから、どう推理することもできない。当然ながら、本人に聞くこともできない。
だったら、俺が殺される前に遷杜や海鉾に真相を伝えておけば問題ないのでは、と思える。でも、それは俺が死ぬことが前提となってしまう。俺だって死ぬのは嫌だ。それに、もし火狭が俺の近くにいたのなら俺がPICを操作しようとした瞬間に殺しにくる可能性だって否定できない。
何よりも厄介なのは、上記の状況はどれも危険にも関わらず、今の状況はそのどれなのかが分からないということだ。まずそもそも、火狭は学校に登校しているのか登校していないのかが分からないし、登校していたとしてそこで何をしているのかが分からない、登校していないのなら今はどこにいるのかすら分からない。
火狭の行動を予知したり予測したりすることはできないので、俺ができることはただ一つ。これらの状況の内で、俺にとって最も有利な状況だった場合を想定して行動すること。その状況ならば、不測の事態に陥っても多少は対応できるし、それこそが最短でもっとも確実な状況だからだ。
だから、俺は学校へと向かう。いつ殺されてもおかしくないこの状況で、誰もいない街路を無言で黙々と歩いて、考えを巡らせながら。
しかし、俺のその考えは次の瞬間、必要のないものとなった。
「……何だ?」
人工樹林に隣接している街路を歩いていた俺だったが、残り十数メートルでそれも終わろうかというとき、ふと人工樹林にあった……というよりは飛び出していた『何か』を発見し、それを確認しようと人工樹林の中へと入っていく。
普段なら、わざわざ確認しに行ったりはしなかったことだろう。だが、今の俺は一つ一つの物事を余計に考え、過度に気にするようになっていた。それに、その『何か』の一部はどこかで見たような記憶があり、それがさらに俺の興味を惹いた。
少しだけ人工樹林の中へと入り、俺はその『何か』の近くへと歩み寄る。そして、地面に突き刺さっていたというべきか、それとも埋まっていたというべきか、とにかく一本の棒を引き抜いた。
「これは……昨日の……」
俺が引き抜いた鉄パイプのような棒は、昨晩火狭が逸弛を殺したときに使用していたものだった。どおりで見覚えがあるわけだ。
その鉄パイプのような棒は二メートル近くの長さで昨晩俺が見たものと一致しており、人体を何度も何度も殴りつけたからなのか元々の形が分からなくなるほどボコボコに歪んだり凹んだりしていた。しかも、ある一部分だけには特に、それ以外の部分にもところどころ、血液が付着していた。
とりあえず、この鉄パイプのような棒を学校を持っていくわけにもいかない。かといって、このまま人工樹林の中に放置しておくのもまずい。そう考えた俺は、今日の放課後、下校中に回収して火狭が逸弛を殺した犯人であることを証明する材料にしようと考えた。
どこか、俺にしか分からなくて、たまたま人工樹林に入った人が見つけられないような場所はどこだろうか。鉄パイプのような棒を拾った俺はふと顔を上げ、テキトウに人工樹林のさらに奥へと入っていき、一時的に隠しておける場所を探すことにした。
そのときだった。
「……え……?」
その光景は何の前触れもなく突然に、俺の視界へと入ってきた。鉄パイプのような棒を一時的に隠しておける場所を探そうと、不意に背後を振り返ったとき、その光景はあった。
「火……狭……」
そこには、昨晩逸弛のことを殺害しこれまでにも四回の殺人を行ってきたという容疑がかかっている、火狭の姿があった。しかし、火狭は昨晩までの様子とは打って変わったものだった。
というのも、火狭はその喉下を一本のナイフによって無残にも貫かれ、そのナイフが背後にある人工樹木に突き刺さることにより、不安定ながらも支えられるような形で、足を浮かせる状態で殺されていた。
この様子を見る限りでは、火狭は喉元を貫かれたことによるショックと大量出血によって死亡しているのだろうと思える。だが、それ以外の部分を見てみると、火狭の本当の死因はそうではないのではないかとすら思えてくる。
火狭はこれまでに殺された逸弛以外の三人と同様に、全身に大量の切り傷が存在し、ところどころの服が破けて傷付けられた地肌が露出されており、首を切られたのか大きな切り傷があった。また、それらの傷口からは尋常ではない量の血が溢れ出ており、地面から離れている火狭の足を伝ってポタポタと流れ落ちていた。
さらに、火狭の頭部にはナイフで切り付けられた痕がなく、ナイフではない何かで殴りつけられたことが分かった。それに、余程強い力で殴りつけられたのか、頭部の一部が割れかけていることも分かった。
よく見てみると、これらの傷口から溢れ出ている血のほとんどはすでに固まっており、火狭が殺されてから随分と時間が経っていることが容易に推測できた。地面から離れている火狭の足下にも大きな血溜まりが存在していたが、その大半が凝固していた。
何で、いつ、どうやって、誰によって、火狭が殺されたのか。俺は、息を呑み、震えながら目の前にあるその悲惨な光景を凝視しているしかなかった。
火狭の頭部が割れかけたことによって、血液ではない何か別の液体が流れ出ていること。体に無数に存在している傷口から、胃や腸などの内臓が見えていたこと。死んでいるにも関わらず、目を閉じることすら許されなかったこと。
俺はそれらの光景を分析し、理解した直後、突然吐き気がこみ上げてきた。
「……うっ……ゴホッゴホッ! ……うええぇぇ……」
無残な姿になるまで痛ぶられ殺された火狭を見たことによって、昨晩見た逸弛の死体やそれまでに見てきた殺人現場の光景が、一瞬で全てフラッシュバックする。そして、俺はついに抑え切れなくなった吐き気を目の前の人工樹林の地面にぶちまけた。