第二十一話 『緊急』
俺は右手の中にあるPICを見て、驚愕していた。念のため言っておくが、このPICは俺のものではない。俺のPICは、今でも俺の左手首に取り付けてある。それに、このPICには血のような赤い液体が付着している。いや、これは血だ。
いったい、このPICは誰のものなのか。それに、このPICに付着している血は誰のものなのか。
つい数十秒前、俺は『検索してはいけない言葉』である『OVERCLOCKINGPROJECT-Y』を検索して、気分が悪くなるようなグロい画像を見てしまった。でも、今はそのとき以上に混乱している。
確かに、グロい画像を見るという視覚からの強力な刺激も、充分に気がおかしくなりそうなものではある。しかし、今の状況は俺の脳内を滅茶苦茶にかき回すようにおかしくて不可解なものを見せてくる。
いや、厳密にいえば、そのおかしさや不可解さの原因は何なのかすら俺にはよく分からない。だが、とにかく、俺は何者かのPICを手に持って驚愕していた。その事実はどう偽ることもできず、変わることのないものだ。
「な、何なんだよ……いったい……」
俺以外には誰もおらず、そこまで広くない静かな部屋の中で、俺は一言だけそう呟いた。そして、過度な緊張と多くの疑問と抑え切れない恐怖によって、高鳴る心拍数と止まる気配を見せない発汗など気にもとめず、俺は自分自身に冷静を繕って順番に考え始めた。
PICは、現代を生きる全世界の人たちがそれぞれが出生した瞬間に一機だけ進呈される。また、連絡手段であり、情報収集を管理するための最新鋭の端末でもある。世界中の誰もがPICに助けられ、現代を生きる上では必要不可欠なものだ。
そして、PIC本体の外見に関して、色や模様などは一定範囲なら持ち主が変えることができ、中に入っているデータも持ち主が何らかの行動をするたびに少しずつ変化していく。
でも、PICの本質的な核の部分を変えることはできない。つまり、何があっても、人間は一生のうちで一機しかPICを所持することができないということだ。
事故も事件も起きない世界なのだから、基本的になくすことはない。もしあったとしても、公共のPICのメインサーバーを借りてデータベースにアクセスし、なくしたPICの暗証番号やいくつかの個人情報を入力することで、なくしたPICの破棄と新たなPICの再発行ができる。
ここまで考えれば、ここにPICがあるのはおかしいことが分かる。なぜなら、PICの破棄とは、元々PIC内にある小型爆弾のようなものを起動させるというものであり、跡形もなく消滅させることによって、なくしたPICから自分の個人情報が他人の手に渡るのを防ぐものだからだ。
PICの中に爆弾が入っているだとか、それを起動させるだとか、あまり安全には思えないかもしれない。でも、一応、人に害が及ぼされるほどの大きな爆発ではなく、誤爆することもないらしい。そもそも、普段ではあまり使われないから、忘れている人も多いことだろう。
このことから、PICがその持ち主以外の場所にあることは絶対にありえない。
だが、今ここに、俺の右手の上に何者かのPICは確かに存在している。そんなことはないと思うが、誰かがPICをなくして、再発行しないまま探し続けているという可能性もある。とりあえず、俺はPICの持ち主だけでも確認しておくことにした。
PICの機能を使用したり、入っているデータを見るには暗証番号の入力が必要だ。でも、そのPICの持ち主が誰なのかを確認するだけなら、暗証番号の入力画面の隣に持ち主の名前と顔写真が表示されるので誰でも確認することができる。
ただ、それが分かったところで、俺が知らない人なら誰なのかは分からないから、届けようがない。それに、落し物として警察に届け出しても『PICをなくすなんてことはない』と言われるのがオチだ。まあ、一応は落し物として受け取ってはもらえると思うが。
俺は、無くしものとはいえ他人のPICを無断で起動させることに少しだけ躊躇いを覚えていた。名前と顔写真を確認するだけで、他の個人情報は何も見ないのだから、別に構わないとは思う。でも、何となく躊躇ってしまう。しかし、いくら再発行できるとはいえ、持ち主も困っていることだろうと思い、意を決してPICを起動させた。
すると、電源が切れていたPICが起動し、電子機器端末にはありがちだがPICの制作会社などの広告(?)画面が表示された後、暗証番号の入力画面が開かれた。
暗証番号の入力画面自体は何の変哲もないものだった。しかし、画面を横にスライドさせると、このPICの持ち主の名前と顔写真が映し出されている。それを見た瞬間、俺の頭の中は真っ白になった。それはまさしく、一切の曇りもない純白といえるほどに。
「……え……?」
PICの画面に表示されている持ち主は、漢字四文字のあまり見ない少し珍しい名前だった。そして、綺麗な長い茶髪を二本のおさげに括っていて、制服を着ている高校生くらいの可愛らしい女の子だった。
そう。それはまるで、今はこの世にいない、俺のタイプの女の子とそっくりだった。
いや、違う。名前と外見的特徴は確かにその通りだが、この人物は俺が知らない赤の他人ではない。PICの持ち主の名前と顔写真が表示されている欄にはこう書かれていた。
『持ち主:土館誓許』と。そして、その欄のすぐ近くには、俺がよく知る忘れられるはずもない、土館の顔写真が添付されている。
俺は自分の目で見たことなのに、まるでそれらの表示を信じられなかった。思わず三回ほどPICの画面を確認し直してしまうほどに。それほどまでに、今の俺には何もかもが分からなくなっていた。
これは何かの間違いだよな? 俺の幻覚か、PICの誤表示だよな? 何で、土曜日に殺されたはずの土館の名前とその顔写真が添付されているんだ? 土館のPICは土館を殺した犯人に取られたんじゃなかったのか? そして、何で土館のPICがこんなところにあるんだ?
一昨日の土曜日、俺は土館と二人きりで気分転換という名目で遊びに行った。しかし、その日、土館は俺と遊び終わった直後の夕方に殺され、死体からはPICが奪われ、その殺人現場を俺たち同様に遊びに行っていた遷杜と海鉾が発見した。それらは紛れもない事実のはずなのに、何でなんだ?
「……」
俺は自分が知っている情報だけで、これまでのことを全て思い出して考えた。
俺が知っている、これまでに起こった友だちグループの女の子たちが殺された殺人事件は四回。そして、それらに共通しているのは『凶器はナイフであること』『死体からはPICがなくなっていたこと』『俺は殺される女の子と直前に会っていたこと』。
そして、俺の右手の中にあるのは、ついさっきまで電源が切れていて、血が付着していた、土館のPICだ。これらのことから導き出される結論は……まさか……、
いやいやいやいや! 万が一にも、『そんなこと』はありえないだろう。俺には『そんなこと』をする動機はないし、あやふやではあるが確かに記憶もある。それ以前に、俺が思い出した殺人事件の共通点はただの偶然かもしれないし、俺が右手の中にある土館のPICのこともただの偶然かもしれない。
それに、何度も言うが、何があったとしても俺は『そんなこと』をしないはずだ。無意識で行動したら俺のPICが教えてくれるし、寝ていたのならなおさらだ。しかも、俺は俺を含めた友だちグループの九人とこれまでもこれからもずっと仲良くしていたいと思っていたし、四人も減ってしまった今でもそう思っている。
だから、俺に初めてできた八人の友だちと作り出したその幸せな毎日を、自らの手でぶち壊したりするようなことはしない。また、俺が一番好きだった女の子である土館に『そんなこと』をするわけがない。誰に誓っても、何を賭けても、それだけは言い切ることができる。
つまり、ただの偶然だ。そこまで考えた俺はそう結論づけた。いや、俺の精神状態をこれ以上不安定にさせないためには、そう結論づけるしかなかった。
「……少し、気分転換でもしてこよう」
最初、俺はこの一週間で起きた友だちグループの女の子たちの殺人事件を一時的に忘れるために気分転換をしようとして、『検索してはいけない言葉』を検索しようとした。しかし、それによってさらに気分が悪くなり、今度はテキトウに読書でもしようと思っていた。
でも、その直前、引き出しの中から土館のPICを発見してしまい、俺は何が何なのかが分からなくなってしまった。これ以上、俺を苦しめないでくれ。そう思った結果、俺はさらなる気分転換をしようと考えた。
今の俺は、気分転換の気分転換の気分転換をしようとしているという、何がしたいのかよく分からない状況にいる。連鎖的に物事が最初の目的や本筋から脱線することはよくあるが、ここまで酷いことはこれまでにはなかった。
ものの数十分間で緊張、不安、恐怖など、許容可能範囲以上の過度な精神的ダメージを受けた俺の精神は、すでに限界に達している。ふと張り詰めていた俺の集中力がぷちっと切れ、俺が着ている服を触ってみると、汗で重くなっていた。また、よく見てみると、手や顔からも尋常ではない量の嫌な汗が噴き出しており、心拍数も普段とはまったく異なるおかしな間隔になっていた。
外の空気を吸って気分転換をして、これから何をするかはその後に考えればいい。そう考えた俺は、手に持っていたPICを机の引き出しの中に乱暴に放り投げ入れ、汗だくになった服を着替えた後、玄関のドアを開けて外に出た。
一応、玄関の鍵はロックしておいたほうがいいだろう。気分転換とはいえ、何分くらい外に出るのか分からないしな。それに、父さんは仕事の都合上で帰ってくるのが遅いし、PICに鍵が入っているはずだから、気にする必要もないだろう。
俺は気分転換以外に何か明確な目的があるわけでもなく、ただ漠然と行き先も決めずに歩き始めた。季節は秋ということもあり、家の外は少し肌寒かったが、頭を冷やすには最適だろう。それに、時間が経てばそのうち体も気温に慣れていくはずだ。
それにしても今の時代、季節も気温も天候もその他の自然現象なら何でもコントロールできるというのに、何で肌寒い日なんかを作ったりするのだろうか。毎日同じ季節・気温・天候というのも少し味気ないが、やはり人間にとって適切な気温というものを選択したほうがよさそうな気がするのだが。俺がどう考えたところで変わるものでもないがな。
時間帯も大分遅くなっているからなのか、家の外の通りには一人も人はいなかった。まあ、俺の家とはいっても一軒家ではなく、住宅区域にあるごくごく平凡なマンションの一角なので、そのマンションや周辺の住宅街の表の通りという意味だ。
あと、住宅区域にはマンションばかりで、一軒家なんてほとんど見なくなったような気がする。一軒家よりもマンションのほうが限られた敷地に縦長に建物を建設することができ、大勢の人が住むことができて土地を有効活用しやすくなるのだから当然といえば当然だけどな。一軒家は一軒家でいいところがあるが、時代に合っているのはマンションのほうだ。
人の話し声も車が走る音も聞こえない。俺の耳に聞こえてくるのは、かすかに吹いている風の音と俺の靴の底が地面と当たっている音だけだ。だが、その風の音は、どこか俺の心を安らげてくれるような心地のいい音だと素直に思った。
俺の周りは真っ暗というほどではないが、明かりが少ないため、部屋の中と比べると極端に暗い。俺が見る限りで確認できている明かりは、俺が住んでいるマンションや近くにある他のマンション、それに、この辺一体の住人たちが急用の際に簡易的に商品購入をする際に利用するコンビニ、あとは、それらの明かりが歩道と車道を区切っている透明な強化ガラスに反射されている光くらいのものだ。
つい先ほどまで、俺がいた部屋の中で起きた様々なこととは大違いだ。ここは、目や耳を休められるほど、光が少なくて静かだ。自分一人だけが誰もいない平行世界に飛ばされたのではないかと思ってしまうほど、何もなく、他人への干渉がなく、他人に干渉されない。昔も地域によってはこういう場所もあったらしいが、今はこれが普通だ。
そう。殺人事件も人身事故も起きないのが今の世界にとっては普通なのだ。もちろん、世界中の人口が激減しているということもある。それでも、これまでに起きた四回の殺人事件のほうが異常であり、それらは全てただの偶然、俺がそれらの殺人事件に関与しているかもしれないという事実も偶然。そうに決まっている、いや、そうでないとならない。
この世界はいつまでもどこまでも、争いなんて起きず平和でないとならないのだから。
自宅から出ておよそ十分。行き先も決めずにただ漠然と道なりに歩いていた俺は、この行動に移る前に自分の身に何が起きていたのかを忘れ、気持ちが穏やかになっていくのが分かった。しかし、その直後、落ち着いた精神は再び十分前と同等の不安定な精神になってしまうのであった。
「……? 電話……?」
ほとんど何も聞こえてこないただの街路を歩いていた俺だったが、そんな俺の左腕に取り付けられているPICが誰かから俺に電話がかかってきていることを知らせるアラーム音を響かせた。
俺は、せっかく自分の気持ちが穏やかになっていくのを実感できたばかりだというのに、そんな時間を邪魔されたことに少々苛立ちを覚えながら、テキトウにPICを操作して電話に出た。
画面を見てみると、俺に電話をかけてきたのは逸弛であることが分かった。おそらく、火狭と仲直りするためにはどうしたらいいかについて俺に相談をしようというつもりなのだろう。俺は今の安らかな時間を邪魔されたとはいえ、比較的落ち着いた気持ちになっているので、歩きながらでも丁寧に答えようと思った。
電話に出て、最初の逸弛の声が聞こえてくるまで、俺はそんな甘いことを考えていた。
「あ、もしもし。どうしたんだ、逸弛? 火狭のことなら相談に乗――」
『……はぁはぁ……あ……つ、對君!』
「お、おう? 何をそんなに急いでいるんだ?」
俺が最後まで台詞を言うよりも前に、逸弛は俺の名前を大声で呼んだ。その声は俺の周辺にしか聞こえていないとはいえ、この静かな空間に傷を入れてしまうのではとも思ったが、今回の件はそんなことを考えている余裕などまったくないことが次の瞬間に分かった。
逸弛は走りながら電話をかけてきているのか、PICの向こう側からは逸弛の荒い息遣いが聞こえてきたり、台詞の途中で唾を飲んだりしている音が聞こえてくる。何が逸弛のことをそこまで急がしているのか。いや、焦らせているのか、と言ったほうが正しいか。
歩きながら逸弛からの電話を受けていた俺だったがその妙な様子から何かを悟り、一人ぼっちの静寂な空間に立ち止まり、黙って逸弛の次の台詞を待った。
「……さ、沙祈に殺される!」