第二十九話 『仮暮』
ふと気がついたとき、俺と土館はすでに施設にはいなかった。見覚えのない真っ白な壁、いかにも難しそうな本の数々、大方どこかの研究所といったところだろうか。そして、この部屋はそんな研究所の中にある誰かの部屋なのだろう。
しかし、ここがどこだろうか、今がいつだろうと、そんなことは俺にはどうでもよかった。意識を失う直前、俺が見たあの悲惨な光景。あれはまさしく、ディオネがその命を絶ったということに他ならない。生命維持装置が崩壊し、中からディオネの内臓や神経が飛び出していた以上、信じたくなくてもそうとしか考えられない。
ディオネは最初から、こうなることが分かっていたんだ。世界を第三次世界大戦から救うために俺たちを過去に飛ばすと同時に『死ぬかもしれない』じゃなくて『死ぬ』ということを。それは、今までしたことのない時間遡行だったからではなく、あの時点がディオネの限界だった。
そもそも、生命維持装置の力がなければ生きることすらできないディオネが異能の力を使う度に何のダメージも負っていないとは思えない。いつかどこかの世界で本人が『ハンデを持って生まれてきたからその代わりに異能の力を持った』みたいなことを言っていた気がするけど、それだけじゃなかった。
結局、ディオネは死んだ。俺たちを過去に飛ばし、第三次世界大戦を起きなかったことにするために。現実世界で死んでしまった以上、もう二度と会うことはできない。もう二度と、何も――、
「土館!」
「冥加君……」
俺は土館の名を呼び、力を込めれば折れてしまいそうなその華奢な体を抱き締める。
俺と一緒にここまで来てくれた土館は、もう泣き止んでいた。でも、土館は一人の姉として、妹が何を決意し、最初から死ぬ覚悟だということをいち早く察していた。みんなに後押しされるまで、ここに来るまでそれに気づけなかった俺は馬鹿野郎だ。最後の最後まであいつに迷惑をかけて、その上『お姉ちゃんを、どうか大切にしてやって下さい』なんて言わせて……、
土館の体を抱き締めていた力を緩め、お互いの顔が見える位置で向かい合う。土館は悲しそうな表情をしながら、俺と目を合わせてくれない。土館がどういう心境なのか、もう俺には分かっている。
「土館、ごめん」
「何で冥加君が謝るの……?」
「理由なんてどうでもいい。ただ、土館に謝りたい。ごめん」
「……うん……分かった。そういうことなら、許してあげるね」
そう言って、土館は優しく微笑んだ。しかし、その笑みは土館が俺に心配をかけまいとして浮かべた作り笑いだということに俺は気づいていた。でも、だからといって、それを言う必要はない。俺は土館の笑みを見て心安らぎ、何をどうすればいいのか考えていった。
「見たところ、ここはどこかの研究所みたいだな。時刻は……ああ、掛け時計があった。外の明るさから考えて、午前十時十三分といったところか。土館、何か他に手がかりはないか?」
「こっちに新聞があったよ。今は二一一八年十月十日みたいだね」
「ということは……仮暮先生は大学院を卒業して、科学者になって、半年くらい経ったってことか。つまり、あの日記に書いてあった四分の一はこの半年間に起きた出来事ってことかよ、密度濃すぎだろ」
「まあ、あの仮暮先生だし、それくらい濃くても当然かもね。それで、冥加君。何をすればいいのかは分かってる?」
「ああ、もちろんだ。たぶん、仮暮先生に俺たちが未来から教え子だなんて言っても信じてもらえないだろう。だから、そのことは伏せておいて、それ以外の事実をありのままに話す。第三次世界大戦のこととかな。それで、PICを学会に発表しないで、その資料を消去してほしいって頼む。それが承諾されれば万事解決だ」
「うん、それじゃあ、それで行こう」
そう言って、俺たちは手分けして、一時間くらいかけてその部屋を調べつくした。とりあえず、ここは仮暮先生がPICを学会に発表する前の過去の世界で、仮暮先生が寝泊りしている研究所の一室なのだということは確からしい。今は仮暮先生がどこに行っているのか分からないが、PICの設計資料のようなものも見つかった。もちろん、何が書かれているのかは俺たちに解読できるわけもない。
このまま部屋で待っておくべきか、部屋を出て仮暮先生を探しに行くべきか、俺と土館のどちらかが部屋に残ってもう片方が仮暮先生を探しに行くべきか。どの選択肢を選んでも正解のように思えない。何かが間違っているような気がしてならない。
まさに言葉通り、世界の命運が俺たちの背に圧し掛かっているという事実に、俺は押し潰されそうになっているんだろう。でも、だからといって、緊張するのは構わないが、失敗するわけにはいかない。絶対に成功させないといけない。そうじゃないと、我が身を犠牲にしたディオネに面目が立たない。
掛け時計の時刻が十二時を指した頃、不意に部屋のドアが開けられた。ドアを開けたのは俺でも土館でもなく、この部屋の持ち主である仮暮先生だった。白衣姿の仮暮先生は浮かない表情をしながら部屋に入ってきて、俺たちの姿を見るなり驚きを隠せずにいた。
「え……え? 鍵をして出て行ったはずなのだけれど、あなたたちいったいどこから……? というか、どなたですか……?」
ああ、そうか。見た目はほとんど変わっていないとはいえ、仮暮先生のほうは俺たちのことを知らないからこういう反応になるのは当然か。さて、どう話を切り出したものか。
「太陽楼……仮暮先生ですよね?」
「え? ええ、そうですけれど……」
「無断でお部屋にお邪魔してしまい、申し訳ありません。俺たちは……まあ、先生に忠告をしに来た者、と思って頂ければ結構です。先生が俺たちの忠告を受け入れて下されば、すぐにでも帰ります」
「ちゅ、忠告? 私に? やだ、何か変なことしちゃったかしら……」
前置きも面倒なので、俺は率直に述べた。
「現在、仮暮先生が開発している『Psycho Interface Clockover』、通称『PIC』を学会に発表しないでほしいんです」
「PICを……? どうして……? わざわざ忠告をしに来たということは、何か理由あってのことなんですよね……?」
「ええ。PICは、その高度な性能から後々人類の英知をも超えると言われるようになります。その結果、世界各国でPICの奪い合いが原因で、第三次世界大戦が起きます。第三次世界大戦では、大勢の人たちが死に、多くの国が滅亡していきます。だから、PICだけは絶対に学会に発表してはいけません」
「……それは……PICが原因で第三次世界大戦が起きるなんてことはないんじゃないでしょうか?」
「え?」
「確かに、あなたの言う通り、私はPICを開発しています。ですが、発表期限が迫っている中、その成果はろくに上がっていません。失敗に失敗を重ねるばかりで、学会に発表できる段階まで到達していないんです。つまりは、脳内時間をオーバークロックさせるという目標は達成できていても、安全性に欠けてしまっているんです。今こんなものを学会に発表すれば、おそらく大問題になるでしょう。それに――」
「『それに』?」
「PICは、俗に言う精神異常者しか使用することができません。もちろん、研究と実験を繰り返せば改良もできるかもしれませんが、どうもその辺りに問題があるらしいんです。脳波の波長というか、根本的な構造というか、どちらにしても一般人が使用できなければ表に出すわけにはいきません。よって、PICが原因で第三次世界大戦が起きるなんてことはないかと」
なるほど、俺たち友だちグループの十人はそれぞれ、過去に何らかの問題を抱えていた精神異常経験者だった。だから、精神異常者しか扱えないPICを比較的安全に扱うことができ、他の人たちは扱えなかったということになるのか。そう考えれば、『Psycho』というネーミングにも何となく頷ける。
だが、確かに、仮暮先生の言う通り、そんな状態のPICは学会に発表できるほどのものではない。もちろん、学会に発表してその技術だけは認められるかもしれないけど、PICという形になったものを世界各国が奪い合って戦争を起こすとは思えない。
いや、でも、第三次世界大戦勃発の原因はPICによるものだったが、参戦した三カ国目以降はその段階で戦争している国に加勢したり便乗していただけだったと聞いた気がする。ということは、原因はPICでも第三次世界大戦に発展させたのは、人の心に潜む陰謀ってことになるのか……?
違う、そうじゃない。たとえそうだとしても、俺たちがいた現在で戦争が起きたのは事実なんだ。紛れもない事実で、だからこそ俺たちはここにいる。たとえPICが完成していなくても、何かがきっかけで完成してしまい、それが奪い合いを助長するほどの性能に仕上がってしまう。仮暮先生がPICについて落ち込んでいる今なら、それをやめさせることくらい容易いはずだ。
俺は簡単に考えて、仮暮先生にPICの開発をやめるようにさらに言おうとした。しかし、ふと見たとき、そこにいた仮暮先生は数秒前の仮暮先生とは様子が異なっていた。何と言うか、こう、妙にやる気に満ち溢れているような。そんな感じ。
「ですが、私はやり遂げますよ」
「先生……?」
「そもそも、私だってPICは世間に公表していいものだと思っていませんでした。それほどのものを学会に発表しなければならなくなった理由だって、列記としてあります。これを公表しないと、私は科学者ではいられなくなる。そうなれば、今まで迷惑をかけてきた家族に迷惑をかけてしまいますし、他にも――」
ああ、そうか、そういうことだったんだ。たとえ締め切り一週間前だとしても、つい数秒前まで諦めかけていても、最後の最後に本来の目的を思い出してその目的に突っ走っていけるから、仮暮先生は成功したんだ。家族に迷惑をかけたくない、科学者を続けたいという一心で、そのためにPICを開発しているんだ。こんな仮暮先生なら、あと一週間もあれば世界中が欲するPICを開発してしまうだろう。
だけどな……それじゃあ、駄目なんだよ。
「先生がどれほど固い決心をしていて、どれほどしんどい思いをしてきたのか、充分に理解しています。でも、どうしてもPICの開発をやめてもらうわけにはいきませんか?」
「残念ながら、私はPICの開発をやめるわけにはいきません。PICが第三次世界大戦を引き起こすとは考えにくいですし、これは私だけのためではないんです。家族の――」
「もう……いいじゃないですか……これ以上、俺たちを苦しめないで下さい」
「え……?」
何も意図せず発せられた、俺のその台詞。気づいたとき、俺は涙を流していた。
「俺たちは、仮暮先生のことを知っています。そして、実際に起こってしまった第三次世界大戦をどうにかして食い止めようとして、まだあと少しでいいからこの世界で生きたいと思って、プロジェクトを始めました。『宇宙の真理』なんていう正体不明のものを探して、それそ見つけることで何とかなると思ったから。でも、結果は失敗に終わりました。みんなみんな、九百六十回もの世界を体験して、何度も死に、何度も友だちに殺された絶望感を味わいました。そこまでやって、そこまでやったのに、何も変わらなかったんですよ。俺たちが知っている先生は、そこで諦めてしまいました。プロジェクトが失敗して、俺たちに残された時間が僅かであることを伏せて、それでももう俺たちに傷付いてほしくないと思ってくれたから、諦めざるを得なかったんです。だけど、俺たちは諦めませんでした。過去に行って、PICが発表されないようにすれば、第三次世界大戦は起きなかったことになる。そうすれば、たとえ異常者である俺たちの立場や境遇は変わらなくとも、あと一年で死ぬ運命からは逃れられるようになるし、世界が滅亡することもなくなる。そう信じて、ここに来たんです。友だちが一人死にました。生まれつきハンデを負って生きてきて、俺たちに想いを伝えて、最後の最後まで他人のことを考えて、彼女は死んでしまいました。だから、だからこそ、俺たちはどうしてもこのプロジェクトを成功させないといけない。オーバークロックプロジェクトは、まだ、終わっていない。『宇宙の真理』なんていらない。ただ、単純に、PICが発表されず、第三次世界大戦が起きなかった世界さえ作れればそれだけでいい。それだけで、俺たちは救われるんです。それだけで、彼女が俺たちに託した想いは果たされるんです。だから、お願いします。俺でよければ何でも言うことを聞きます。これからする実験の実験台になれというのならなりますし、他にも先生に利益をもたらすことをしろというのなら拒みません。だから……どうか、PICを学会に発表しないで下さい。研究をやめて、その資料を一から全て、削除して下さい……お願いします。仮暮先生」
そう言って、俺は零れ落ちる涙を拭こうともせずに、仮暮先生に深々と頭を下げた。同様にして、隣に立っていた土館も仮暮先生に深々と頭を下げていた。そして、土館もまた、涙を零していた。
俺の想いを全て伝え、全力で、ありのままに願った。数分後、仮暮先生は静かに言った。
「……分かりました……PICの研究はもうやめましょう。それに、私だって、PICが何かよくない事態を生むということは分かっていました。そんな状況で、お二人に涙を流しながら頼み込まれたにも関わらず、続ける意味なんてないですからね。まあ、期限まであと一週間ですし、今から他の研究を始めてもさすがに間に合わないでしょう。そうですね……前から夢だった、学校の先生にでもなりましょうかね」