第二話 『日常』
あれは、きっと夢だ。昨晩見たあの非現実的で残酷な光景は全て夢だったのだ。もしくは、この俺が何かそれに近いものをあのような光景と見間違えたか、日頃の疲労の蓄積によってあのような幻覚が見えただけなのか、PICが誤作動してあの光景を俺に見せたのか。
絶対に、そのどれかに決まっている。いや、むしろそうでないとおかしい。殺人事件どころか人身事故でさえ時代遅れの平和な現代で、しかも、友だちの女の子があんな状態で死んでいただなんてあるはずがないのだから。
俺は自分の考えを正当化して勝手にそう解釈し、昨晩見たことの全てを忘れようとした。そうしなければ俺は、あの光景を見てしまったことによる恐怖と、あるはずもないが誰かに俺が犯人であると疑われてしまうことを恐れて、自分の精神をまともに保っていることができなかっただろう。
だから、この俺冥加對にはそれしか方法がなかったのだった。昨晩見たことを全て、現実のものではなかったと解釈するしか。
「やぁ、對君。おはよう」
「……あ、ああ。おはよう」
午前八時二十分ごろ、学校に登校してきた俺に、水科逸弛という男友だちが声をかけてきた。俺は少しばかり暗い気持ちになりながらも、そんな逸弛にいたって簡単に返答した。
逸弛は薄い青色の髪をしており、いつでもどこでもさわやかな笑顔が絶えないやつだ。また、男女関係なく誰にでも優しく、その性格のよさは他の誰にも負けないほど。小柄でそれほど身長が高いわけではないが、その性格のよさゆえに、同級生からは非常に人気がある。
高校生になる前までの俺は、病気や怪我なら数日あればすぐに完治させるだけの医療技術がある現代に生きているにも関わらず、俺はその高度な技術でさえ完治させることができないほど重度の精神的な病にかかっていた。
そのため、いつどこでどのように精神が不安定になるかは本人である俺にも担当の医師にも分からない。また、それを気にするあまり、あらゆる能力は大して向上せず、友だちも多いほうではなかった。中学生の頃までは、だれか特別仲がよかった友だちなんて一人もいなかったし、幼馴染みも兄弟姉妹も母親もいなかった俺は家でも外でも大抵一人で過ごしていた。
でも、高校生になってすぐの頃、逸弛とその幼馴染みの女の子が俺を含めた五人のクラスメイトに友だちになろうと誘ってきてくれた。それが、俺にとって初めてまともにできた友だちだった。みんなとは出会ってからは一年半くらいしか経っていないが、それでもみんなとはいつも仲よくできていると思う。
そして、高校生になって友だちが突然八人も増えたことによって俺の精神にかかっていた様々な負荷が軽くなったのか、最終的に俺は現代医学の力を借りることなく、それまで俺のことを苦しめ続けていた重度の精神的な病に打ち勝つことができた。だから、逸弛とその幼馴染みの女の子には本当に感謝している。もちろん、二人以外の友だちにも。
ちなみに、今言った『逸弛の幼馴染みの女の子』というのが――、
「ねぇ、逸弛~。今日も逸弛の家に泊まってもいい~? それともあたしの家に来る~?」
「あはは。沙祈は本当に甘えん坊だねー」
「逸弛~」
逸弛に密着してその大きな胸を押し当てながら話しかけている彼女の名前は火狭沙祈。例の逸弛の幼馴染みの女の子であり、逸弛と一緒に俺を含めた五人に友だちになろうと誘ってくれた張本人だ。
火狭は赤色の短髪をサイドテール状に結わえており、現代日本人女性の中では平均よりも少し高めの身長をしている。また、細身だが胸がかなり大きく、クラスにいる数少ない男子からも絶大な人気を誇っている。しかも、学校での成績はクラスや学年の枠に収まらず校内でも優秀な部類に入り、運動能力も男子に負けないほど非常に高い。
しかし、完璧を形にしたかのような彼女には一つだけどうしても改善することができない大きな欠点があった。
火狭は逸弛とは小学生になるよりも前から仲がいいらしく、その上それぞれの両親の代からの長い付き合いだと聞いている。また、今に至っては、二人は誰もが羨むラブラブ過ぎる恋人になっている。
どちらかが不本意だとか不満足だとかそういうこともなく両想いなのでそこまでは何も問題はない。だが、火狭は年中無休二十四時間営業で、家でも外でも人がいてもいなくても、逸弛とイチャイチャしているのだ。
逸弛もその優し過ぎる性格ゆえに火狭からのそんな愛情表現を素直に受け入れてしまう性格なので、その様子は時間が経つにつれて少しずつエスカレートしてしまっている。具体的には、教室の中で友だちがすぐ近くにいるのに抱き合ったりキスしたりする、みたいな感じで。
あと、噂……というか、半年くらい前に逸弛本人から聞かされたのだが、二人はその頃に恋人としての一線を越えたらしい。わざわざその『一線を越えた』という言葉について詳しく説明する気はないが、健全なる男子高校生の俺としては羨ましいことこの上ない。
まあ、俺はそんな恋人二人の微笑ましい光景を見ていても嫉妬したりはしないが、それでも時と場所を考えずに抱き合ったりキスしたりし始めるので、社会的にはそれが大問題というわけだ。
一応、クラス公認の唯一のカップルだが、俺の友だちグループの中には、実はそんな二人のことをそれぞれ友だちとしてではなく異性として好いている友だちもいる。
逸弛は持ちまえの誰にでもフレンドリーに接する性格によってなのか、同じクラスの女子の内の半数近くに人気がある。また、火狭は先ほどもいった通り、何でもできてしまう高度な能力を持っていることと、上の上に分類されるほど容姿や顔が可愛いこと(と巨乳であること)が関係して、クラス中の男子から人気がある。
それゆえに、クラス公認とはいえ、そんな二人の関係をあまり好ましく思っていなかったり妬んでいるクラスメイトも少なくない。
「……冥加。何、あたしと逸弛のことを見てるのよ。まさか、あんたもあたしとキスしたいとか、そういうやましいことを考えているんじゃないでしょうね?」
「心配するな。たとえそうだとしても、俺はクラスメイトの前で恋人とイチャイチャしたりなどしない。それ以前に、火狭は逸弛の彼女だろ? さすがの俺も、友だちの彼女を奪う気にはなれないなー」
「そうそう、分かってるじゃない! あたしは逸弛だけのもの~、そして、逸弛はあたしだけのもの~」
「そうだね、沙祈」
「きゃーん、逸弛~」
「……まったく……このバカップルは……」
念のために補足しておこう。確かに、火狭は何でもできて可愛くて巨乳で、それだけの情報だけならば女子としては理想的な姿に近いのかもしれない。しかし、火狭があんな甘い表情を見せるのは恋人である逸弛に対してだけであり、他の人間には基本的にはまるで興味がない。むしろ、嫌っているのではないだろうかと思える場面も少なくない。当然のことながら、俺を含めた友だちグループのメンバーもその例外ではない。
なので今のように、他人に余計な濡れ衣を着せてきたり、時には無意味に罵倒されたりもする。中には、そんな火狭の罵倒を心待ちにしている男子諸君も一部には存在しているらしいが、高校生になるまでは交友関係があまり良好ではなかった俺は彼らのように悪趣味な性癖を持つことはできなかった。
だから、火狭のことは友だちとしては好きだが、異性としてはあまり好きにはなれないのだった。というか、お二人さん。ここは教室だし、友だちがすぐ近くにいるんだから、イチャイチャするにしても少しくらい気を遣ってくれよ。
「……はあ」
このバカップルは昨晩もまたベッドの上で男女間のアレコレをしていたんだろーなー、羨ましいなー、というような男子高校生の欲望丸出しな妄想をしながら、俺は朝っぱらから教室のなかでイチャイチャしている二人の様子を見ていた。
そんなとき、ふと視線を横にずらすと俺同様に二人のことを……いや、正確には火狭に抱き付かれている逸弛のことをじっと見つめている少女の姿が確認できた。
その少女の名前は土館誓許。綺麗でさらさらとした長めの茶髪を括って作った二本のおさげが特徴的な、落ち着いた雰囲気のお淑やかな女の子だ。あと、背の高さも体型も標準でありながら、制服を着ているとよく分からないが、実は巨乳でもある。
土館は俺とは違って逸弛と火狭から友だちになろうと誘われたわけではない。しかし、どうやら高校一年生のときに教室の中で逸弛のことを見て一目惚れしたらしく、そのときから俺の友だちグループの一員になった。
今のところ、俺が一番気にかけている女の子だが、土館が逸弛のことを好いているのならその気持ちを無理矢理捻じ曲げようとは思わない。そのうち俺のほうに振り向いてくれるときがくればラッキー、程度には思っているがあまり期待はしていない。
この一年間、俺は土館に細かいアプローチを何度も繰りかえしているが、土館本人は逸弛のことばかり見ていて中々相手にしてくれないので、これではさすがに期待もなくなる。というか、そろそろ心が折れそうだ。ポッキリと真っ二つに折れて修復不能な状態になりそうだ。
あと、土館は交友関係が広く他の同級生とも仲がいいが、例外として火狭とは犬猿の仲だ。その理由は当然、逸弛を巡っての口喧嘩。俺としては学年でも上位を争う二人の美少女から好かれている逸弛のことが羨ましい限りだが、それでも、女子二人はそれなりに必死そうなので色々と大変なのだろう。
当の逸弛は『火狭一筋』と言っておきながら、ことあるごとに自分の周囲にいる女の子のことを片っ端から全員口説こうとする(本人は無意識だが、なぜか数人は引っかかる)ので、問題はさらに複雑になってしまっている。
逸弛も逸弛で、『僕は沙祈一筋だから』とキッパリと土館に言えばこの一年半のあいだ、二人の口喧嘩を見なくてもすんだのに。そうすれば、俺にも土館を振り向かせることができるチャンスができるのに。試しに一度言ってみようか。
「……はあ」
「あら、冥加さん。どうかされたのかしら?」
「……ん? ああ、いや。別に何でもない」
「そうですか? それならいいですわ」
あの三人のドロドロな三角関係について何で俺が頭を悩まさなければならないのか、そんなことを考えていると無意識のうちに俺の口からは本日二度目のため息がもれていた。
そんな俺のことを不思議に思ったのか金泉霰華という一人の少女が、金属の塊(『知恵の輪』というらしい)を両手の中でカチャカチャという音を立てて遊ばせながら声をかけてきた。
金泉は艶がある金髪をポニーテール状に結わえており、他の友だちと比べると少し特殊な話し方をしている。身長はそれほど高くないが、自分の意見を言うべき場面と周囲に合わせるべき場面をはっきりと見極めることができる性格の持ち主でもある。また、火狭の次に成績が優秀であり、俺同様に逸弛と火狭から友だちになろうと誘われた人物だ。
金泉は俺の友だちグループの中で逸弛以外に好きな男子がいるからなのか(もちろん俺ではない)、火狭と土館の過激な口喧嘩にはあまり興味を示してはいない。むしろ、二人の口論を止めようともせず、その内容を聞きながら何が面白いのかは分からないが楽しんでいるようにすら見えるほどだ。
あと、何で『知恵の輪』と呼ばれる金属の塊をカチャカチャと言わせながら手の中で遊ばせているのかというと、金泉曰く『頭の体操』らしい。普段の学校生活でも脳力開発などの特殊分野の授業はある。だが金泉は、見た感じ全然努力していないのに常に成績最優秀者である火狭よりも頭がよくなりたいらしく、常日頃からそういう努力を惜しんではいないみたいだ。
それと、金泉は俺の友だちグループに逸弛と火狭から誘われていなかった天王野葵聖という少女を友だちグループに加えた人物である。
ついでなので説明しておくと、天王野は同級生とは思えないほど身長が低く、童顔な少女だ。また、天王野は白色の長い髪に赤いリボンを飾りつけ、いつでもどこでも眠そうな表情をしている。無表情のときも多々あるが、大抵は疲れているように見える。
金泉が天王野を友だちグループに誘った経緯は全然知らないが、たぶん何かあったのだろう。あと、今日はまだ天王野は学校に来ていないみたいだが、そのうち来るだろう。
そんなことを考えていると、教室の出入り口から木全遷杜という男友だちの姿が見えた同時に、海鉾矩玖璃という女の子が教室の中へと入ってきた。この二人も俺同様に逸弛と火狭に友だちになろうと誘われた友だちグループの一員だ。
遷杜は深い緑色の髪をしており、何が起きても動じない図太い性格を持ち合わせている。また、友だちグループの中では一番身長が高く、クラブに入っているわけでもないにも関わらず腕力が強い。
海鉾はその紫色の紙を短髪にしていて、いつでもどこでも明るく笑顔が絶えない、活発的で元気な少女だ。友だちグループの中でのムードメーカーとでもいうべきか。交友関係はそれなりに広く、まとめ役には向かないが中心にはなりやすい性格をしているようにも思える。
それにしても、あの二人が一緒に教室に入ってくるとは少し珍しいものを見せてもらった。遷杜は一部マニアックな女子からは人気があるが、それ以外の交友関係は普通かそれ未満だ。それに、海鉾が遷杜と会話しているところなんてあまり見たことがないから、たぶん学校に来る途中に会って、そのまま適当なことを話しながら一緒に来たといったところなのだろう。
「あ、遷杜様! おはようございます! え、えっと、それで……昨晩のお電話の件ですが――」
「……すまん、金泉。昨日のことはあまり気にしないでくれ。どうやら、俺の勘違いだったらしい」
「そ、そうですか……? 遷杜様がそう仰るのなら……あ、でも、何か悩み事や心配事があるのでしたら、まずは私にお話しください! 私、遷杜様のためなら何でもしますから!」
「悪いな、心配かけて。だが、今はもう大丈夫だから、安心しろ」
「い、いえ……そんな……」
つい先ほど、俺に対してはいたって普通に何気なく接していた金泉だったが、今登校してきた遷杜に対してはやけにその対応の仕方が違う。というのも、金泉は遷杜のことを好いている一部のマニアックな女子の一人であり、実は金泉は遷杜と恋人同士になりたいと思っているらしい。
ただ、そういうことに限らずありとあらゆることに非常に鈍感な性格の遷杜は金泉のそんな乙女心になど気がつくわけもなく、極めてマイペースに毎日を過ごしているのだった。
今の二人の会話だって、明らかに金泉は緊張していたのに、遷杜はいつも通りの冷静沈着な対応をしていたし。それに、実のところ遷杜は火狭に気があるらしいので、みんなの間にある『すれ違い』という名の小さな溝は中々埋まる気配を見せないのであった。
今さらだが、俺は友だちグループ内での人間関係(特に恋愛事情)についてよく知っている。何でなのかは分からないが俺はみんなにとって相談を持ちかけやすい性格の人間らしく、そのため、みんなからよくそういう色恋沙汰について相談されたりするのだ。
俺自身、言うなと言われたことならば誰にも言わない自信があるほど口が堅いので、あながちその考えは間違ってはいないかもしれない。だからこそ、みんなは俺のことを信頼しており、俺は他のみんなが知りえない恋愛事情についてよく知っているというわけだ。まあ、大抵の場合は解決なんてできるわけがないので、話を聞くだけで終わってしまうことのほうが多い。
人から信頼されるのは気分のいいものだ。しかし、俺の知っている限りでは逸弛と火狭のカップル以外のほぼ全員がその想いが叶いそうにない三角以上の複雑な関係にあった。
俺は土館のことを、その土館は逸弛のことを。金泉は遷杜のことを、その遷杜は火狭のことを。地曳と海鉾と天王野についてはそういう相談をもちかけられたことがないので知らないが、やはりそれ以外の恋愛事情の全体図を知ってしまっていると、どうしてももどかしい気持ちになってしまう。
というか、俺は友だちグループにいる六人の女の子から異性として好かれていないのだろうか。今のところ、そういう話も噂もまったく聞かないし。そう考えると、何だか切なくなる。六人もいるのだから、一人くらいは俺のことを好いている女の子がいてもよさそうなものだが、現実はそう甘くはないのかもしれない。逸弛と遷杜はそれぞれ何人かに好かれているというのに。
きっと、逸弛みたいなモテ男は十年に一人しか生まれてこないんだ。まあその逸弛も、まさか自分が複雑な六角関係の中心にいるとは思いもしないと思うが。
「やあ、遷杜君、矩玖璃ちゃん」
「ああ」
「おはよー」
火狭に抱き付かれながらキスをされた逸弛が、今登校してきた遷杜と海鉾に声をかけていた。逸弛は遷杜が火狭のことを好いているということを知らないので仕方がないが、それでもそろそろ察して少しくらい気を遣ってやれよと言いたい俺であった。とはいっても、当の遷杜はあまり気にしていない様子だったが。
「よっす、遷杜……って、その傷どうしたんだ?」
「傷?」
「ほら、首元に何か赤い線が入ってるけど」
遷杜は自分の席に向かい教室の床に埋めこまれている折り畳み式の机と椅子を起動させてそこに自分の鞄を置いた。そんな遷杜に対して、俺はふと気がついたことを教えた。俺が指をさしている遷杜の首元には五センチメートル程度の長さの赤い水ぶくれのような線が浮きあがっていた。
遷杜は俺にそれを指摘されたことで初めてそれに気がついたらしく、右手でその部分を少しだけさすると、一瞬だけ何かを思いだしたかのような表情を見せた。
「……たぶん、寝ているときに何かに引っかけたんだと思う」
「まあ、他に怪我するような場面なんてほとんどないから、それはそうだろうけど。何はともあれ、一応あとで治しとけよ? 保健室にある適当な薬を使えば三十分くらいで治るだろ。たとえ軽い怪我でも、その怪我の位置が首元だからな。もし何かあったら大変だ」
「ああ。分かった」
余計な心配を通り越して軽くお節介だったかもしれないが、俺は遷杜にそう言っておいた。今どき、学生が友だち同士の些細な喧嘩や体育の授業以外で怪我をするなんてことはほとんどない。PICによって全人類は常にいつどこで誰と何をしているかを監視されており、死刑廃止に伴う刑罰の一新と全世界の陸地の区画整備によって、事件も事故も些細なことを除けばほとんど起きないようになっているのだから。
それぞれが自分の席に向かって机と椅子を起動させてそこに荷物を置いた後、再び逸弛と火狭を中心として教室の隅のほうに友だちグループが集まっていく。俺を含めた七人の友だちが集まったとき、不意に海鉾が何かに気がついた様子で声を発し、それに金泉が答えた。
「そういえば、赴稀ちゃんと葵聖ちゃんは?」
「言われてみれば、確かにまだ来てないですわね。何かあったのかしら」
海鉾の口から地曳の名前が出たとき、俺は背筋がゾクッとするような寒気を覚えた。昨晩の、あの残酷な状態で殺されていた地曳の幻覚を思いだしたからだ。でも、今どき殺人事件や人身事故は時代遅れだし、そんなことはまずあるわけがない。
今朝のニュース番組でも『昨日もこれまでに引き続き、事件も事故も何も起きていない平和な一日でしたー』と言っていたから、たぶん俺が見たのは幻覚に違いない。いや、それ以外には考えられない。
それにしても、地曳はともかくとして、天王野は何でこんなに学校に来るのが遅いんだ? 時刻はすでに八時二十五分を少し過ぎており、あと数分で一時間目の授業が始まるというのに。
天王野は俺の友だちグループの中でもそれ以外でも周囲に馴染めていない様子で、俺たち以外に友だちもいないのか教室でも一人でいることが多い。だが、これまで学校を休んだりすることはなかったはずだ。
そんなことを考えていると、不意に教室にいたクラスメイトの何人かが教室の出入り口の方向を見ていることに気がついた。俺はそんな彼らに続いて教室の出入り口の方向を見た。すると、そこにはいつも通りの眠そうな表情をしておらず、逆に顔を俯けながら、逆に少し怯えて怖がっているような表情をしている天王野の姿があった。しかも、そのすぐ後ろには、仮暮先生という俺のクラスの担任の女性の先生の姿もあった。
仮暮先生はまさに女性教師というべき容姿と性格の持ち主であり、俺たち教え子のことをいつも気にかけてくれている。しかも、些細なことからどうでもいいことまで、教え子たちの悩み事を聞いたりすることもあるらしい。
「あら、天王野さん。おはようございます」
「……っ」
「……天王野さん?」
金泉は手の中で遊ばせていた知恵の輪をそれまで自分が体重をかけていた机に置いて、教室に入ってきた天王野に声をかけた。しかし、天王野は小刻みに震えたまま顔を俯けて返事をせずに無言のまま俺たち七人がいる場所へと歩いてきた。天王野のその様子を見た俺たちは何かがおかしいと感じ、簡単に声をかけようとしたが、それよりも前に天王野が口を開いた。
「……た」
「え?」
次の天王野の台詞は俺たちの想像を絶するものであり、また、まるで現実味を帯びていないものだった。しかし、その台詞は少なくとも俺にとってはとても重要なことを意味していたものだった。
「……『ジビキが殺害された』」