第十八話 『沙祈』
玄関ドアを開けた隙間から半分ほど体を出し、俺たちに声をかけた火狭は左手に包丁を持っていた。そして、俺たちが何でこんなところにいるのかということが気になったのか、包丁を持ったまま歩いてきた。ちょうど、火狭関係で包丁が何本もなくなったと件について話していたため、俺も逸弛も火狭のその姿に一瞬だけ恐怖を覚えた。でも、火狭の様子を見る限りでは、話を聞かれていたわけではないらしい。
火狭が逸弛の隣に立ってしばらくしても、俺たちは何か言葉を口に出すことができなかった。そんな不審な態度の俺たちに対して火狭はさらに違和感を感じたらしく、小首を傾げて俺たちの顔を交互に見ていた。
話を聞かれていないのであれば、テキトウに誤魔化して、火狭が俺の家に帰ったところで逸弛に真相を伝えればいい。そう考えた直後、俺よりも先に声を発したのは逸弛だった。
「や、やぁ、沙祈。どうしたんだい? みんなとお昼ご飯を作ってくれていたんじゃないのかい?」
「うん、そうだけど、逸弛と冥加が何を食べたいのか聞いてなかったから。それで部屋まで探しに行ったんだけど、木全しかいなくて、もしかしたら外に何か買いに行ってるのかと思って見に来たの。ここから見える範囲にいなかったらPICを使おうと思ったけど、すぐ近くにいてよかった。それで、何の話してたの?」
「そ、そうだったんだ。それなら、僕も對君も沙祈たちに任せる……というか、沙祈たちが作った料理なら何でもおいしいから、特別食べたいというものはないんだ。そうだよね、對君?」
「え? あ、ああ、その通りだ」
「そう? それなら途中まで作っちゃったのを最後まで作ればいいからちょっと楽になるかも。それで、何の話してたの?」
「と、ところで、誓許ちゃんとは仲直りできたかい?あ、ほら、對君と誓許ちゃんが付き合い始めたってことは、沙祈だってもう気づいているよね? だから、今までの誓許ちゃんの態度は全部沙祈の誤解で、二人を祝福するってことで――」
「心配しなくても、もう誓許とは仲直りしてるよ。というか、元々仲が悪かったわけじゃないし、ちょっと話しづらかっただけ。でも、お昼ご飯を作り始める前に誓許のほうから謝りにきたし、あたしも色々酷いことしちゃってたから謝った。誓許ってば、冥加と付き合い始めたのが凄く嬉しそうで、どうしたらもっと仲がよくなれるか相談しにきたんだよ。まあ、今はとりあえずそんな感じ。それで、何の話してたの?」
「そ、そうかい。それならよかったよ。いやぁ、僕と沙祈以外に三組もカップルができて、しかも沙祈と誓許ちゃんも仲良くなって、僕はもう嬉しい限りだよ。うん」
逸弛は俺が考えた解決方法とは別のもので、ついさっきまで俺たちが話していた内容を火狭に知られないようにしていた。俺はテキトウな嘘をついて誤魔化すつもりだったが、逸弛は嘘をつかずに別の話を言うことで話を逸らそうとしている。
でも、それは一時的なその場凌ぎにしかならない。逸弛が話を逸らしてくれたお陰で、土館と火狭が仲直りしたという朗報を聞けたのはよかったが、所詮話を逸らすのは一時的なその場凌ぎにしかならない。現に、火狭は意味有り気に包丁の先端を上に向けたままだし、逸弛に何度も何度も同じ質問をしている。逸弛もそのことに気づいていないわけではないと思うが、これ以上の解決方法が思いつかないのだろう。
「えっと、沙祈……?」
「……? どうしたの? 逸弛」
「いや、その、そろそろ手に持ってる包丁を下ろしてくれないかい? 先っぽが上向きだと危ないというか、ちょっと怖いというか……」
「嫌」
「え?」
「だって、逸弛、あたしの質問に答えてくれないんだもん。何度も何度も同じ質問をしてるのに、何で答えられないの? あたしに内緒にしないといけないような、そんな話してたの?」
「それは――」
「答えてよ! 逸弛!」
戸惑いのあまりどう返答するべきなのか分からなくなっている逸弛に対して、火狭は突然そんな大声を上げた。それを聞いたことで、俺も逸弛も火狭がどれほど怒っているのかを理解した。まあ、逸弛が火狭の質問を何度も聞かなかったことにしたのが原因のような気もするが、どちらにせよ、火狭が怒っているらしいことには違いない。
今にも包丁で逸弛を突き刺しそうな雰囲気を醸し出しながら、火狭は少し怖い顔をして逸弛の顔を見上げていた。咄嗟に俺はこれからよくないことが起きてしまうような気がし、二人の間に入って止めようとしたが、またしても逸弛が先に動いた。
逸弛は火狭の両肩をがっしりと掴み、お互いに相手の顔から一瞬たりとも目を離せないような状態にした。数秒後、逸弛は火狭の質問の答えると同時に、俺が説明しようとしていた包丁消失事件の真相を聞いた。
「沙祈が来る前、僕は冥加君に相談をしていた。それは……僕の家の台所から包丁が一本なくなっていて、沙祈の家で料理を作ろうとしたときも、昨日まであったはずの包丁が三本もなくなっていたということだ。僕は台所周辺だけじゃなくて家中を探してみたけど、消えた包丁はどこにもなかった。それ以前に、包丁は間違って捨ててしまうようなものではないし、そう簡単になくなるものでもない。僕は、沙祈が何らかの目的で包丁を隠したんじゃないかって思った。でも、沙祈がそんなことをするわけがない。それくらい分かっていたけど、どうしても気になって気になって仕方がなかった。もし沙祈が何かをしようとしているのなら、沙祈本人に聞くわけにはいかない。だから、僕は冥加君に相談した。前の世界を経験している『伝承者』である冥加君なら何かを知っているんじゃないかって思ったから。だけど、この際だから直接聞かせてもらうよ。沙祈、この一件の真相を教えてくれないかい?」
「……逸弛……」
火狭は、それまでおろおろしていた逸弛の態度が急に変わったことに少々驚いているように見えた。しかし、逸弛の長々とした台詞を聞くと、安心したように一度だけ溜め息をついた。そして、先端が上を向いていた包丁を下ろし、落ち着いた雰囲気で続けた。
「何だ、そのことか……」
「え……?」
「逸弛、心配かけてごめんね。でも、あたしとしては、その日まで隠しておきたかったんだけど、これはもう言わないとダメっぽいね。せっかく、逸弛が見てない間に持って帰ったのになー……」
「どういう意味だい……?」
「実は、逸弛の誕生日まであと少しだから、そのプレゼントを選んでたの」
「……………………はい?」
「ほら、ここ何年間、調理器具とかの生活用品をほとんど買い換えてなかったでしょ? まあ、実質的に二つの家に一人ずつしか住んでいないんだから、それほど消耗するわけじゃないんだけどね。でも、逸弛の誕生日プレゼントを何にしようか迷ってるとき、ふと逸弛の家の調理器具が消耗してるのを見かけて、それで新しいのを一式プレゼントしようって考えてたの」
「えっと……沙祈が僕のプレゼントを選んでくれていたってことについては嬉しいけど、それと包丁がなくなっていた件と何の関係があるんだい?」
「逸弛の家から包丁がなくなったのは、それと同じメーカーの包丁を探そうとして、あたしが一時的に無断で持って帰ったから。あたしの家から包丁がなくなったのは、ついでにあたしの家の分も買い換えようと思って、刃こぼれしてるのを処分しようとして別の場所に置いていたから。というか、包丁以外にもお皿とかを借りたこともあったんだけど、気づかなかった?」
「そ……そうだったのか……全然気づかなかった……」
結局、喧嘩や殺人事件に繋がる原因は、こういう些細な出来事にあるのだろう。二人の家から包丁が四本もなくなった件の真相は、火狭が逸弛に調理器具セットをプレゼントしようとしていたというだけの話。
真っ先にPICで写真を撮ればよかったじゃないかと思うが、他の世界の火狭曰く、その発想には至らなかったらしい。まあ、包丁などの刃物や調理器具の専門店に行くのであれば、実物を渡せば同じものを取り寄せてもらえるだろうし、そういうことだったのかもしれない。
火狭の説明を聞いた逸弛は、最愛の火狭を一度でも疑ってしまったことを心底後悔しているように見えた。すると、不意に逸弛は火狭の体を抱き締めた。いきなり抱き締められたことで驚いた火狭は手に持っていた包丁を落としてしまい、そのまま逸弛の背中に手を回した。
「ごめん……一瞬でも沙祈を疑ってしまった僕が悪かった……」
「ううん。あたしも、逸弛に無断で家のものを持って帰ったのは反省してる。これからは無理にサプライズにしようとか気にせずに、相談してからそうするね」
「うん……」
すっかり誤解も解け、幸せそうに抱き合っている二人の姿を見ていると、何だか俺のほうまで穏やかな気持ちになっていくような気がした。これが、十年くらいもの間ずっと近くにいて、今となっては恋人同士の温もりというものなのだろう。率直に、俺はそう思った。
あとは二人に任せておいて、お邪魔虫の俺は家に戻ることにした。俺が家に戻ろうと歩いていても、二人はまったく気にすることなく未だに抱き合っており、しまいにはキスまでし始めていた。その際、俺は逸弛に一言だけ『まだ、逸弛から謝りたいことがあるんだろ?』とだけ言っておいた。
二人を置いて家に戻り、やっと俺の部屋に帰ってくるなり早々に、遷杜が話しかけてきた。
「これで一件落着ってことか」
「遷杜……聞いてたのか?」
「さぁな。それにしても、まさか冥加と土館が付き合い始めたとは思わなかったな。昨日見た感じではいつも通り……いや、よく思い出してみれば、土館が冥加に抱きついていたような気が……」
「まぁ、俺だってやるときはやるってことだ。それに、前の世界の何も知らない俺が、遷杜と金泉が付き合い始めたってことを知れば驚くと思うぞ?」
「だろうな。俺自身、未だに驚いている」
遷杜と他愛もない会話を交わした後、しばらくして逸弛と火狭が帰ってきた。どうやら、二人はその過去にあった事件についての誤解さえも解いてきたらしく、すっかり今まで以上に仲良くなっていた。そんなとき、土館から昼飯ができたという呼びかけがあり、俺たち四人はリビングへと向かった。
こんなにも幸せな日常的な風景の中に、欠けているピースがある。だから、俺の役目はまだ終わっていないんだ。明日、俺は彼女に話をする。そして、できることを全てやり尽くす。それだけだ。