第十五話 『矩玖璃』
話し合いも終わり、土館に告白を受け入れてもらえたことで、俺の気分は高揚していた。そろそろ再集合場所にみんなが集まり始めているだろうと思い、俺は土館の手を引き、ディオネも合わせて三人で建物の裏から街路に出た。
すると、その直後、俺たちの前によく知る少女が一人、その姿を現した。
「か、海鉾……もしかして、聞いてたのか……?」
「あはは……何となく予想はしてたけど、やっぱり目の前で見ると辛いね……」
海鉾は今にも泣きそうな表情で俺たちのことを見ており、もはやどうすることもできないもどかしさを抱えているようにも見えた。海鉾の様子を見た俺は、海鉾が俺と土館の会話の一部始終を全て聞いていたのだということに気づいた。
俺は、海鉾の想いを知っている。つまりは、海鉾が俺に好意を寄せているという事実を知っている。それはもちろん、『箱』の壁に書かれていた記録を見たからであり、前の世界で海鉾自身にそれを案じさせる言葉を言われたからに他ならない。
以前、友だちグループとして知り合う前に、海鉾は俺に会ったことがあるらしい。そこで、海鉾は俺に心救われ、友だちグループとして再会し、俺に付き纏うようになった。ただ、俺は友だちグループとして知り合う前に海鉾と顔を合わせた記憶はない。
俺がもう一つの人格による症状に悩まされている頃、その治療の一環でしばらくいた場所で会ったのだと思うけど、あいにく俺は覚えていない。おそらく、その頃の俺はもう一つの人格に完全に人格を奪われていたのではないだろうか。だから、海鉾には覚えがあって、俺には覚えがないという事態が引き起こされている。
海鉾も、他のみんなと同様に相当凄惨な過去を持っている一人だ。だからこそ、昔の俺にそう言われたのをいつまでも覚えており、俺に好意を寄せ、ストーカー行為を働いてまで、俺にその気持ちを気づいてもらおうとしたのだと思う。
確かに、海鉾矩玖璃という少女は可憐な少女だと思う。肩につくほどの長さの短髪で、実は土館に次いでスタイルがいい。ムードメーカーのような働きを見せるときもある明るい性格でありながら、自分の想いに対して素直になり過ぎる部分以外は常識人だ。
火狭がずば抜けて人気があるだけで、クラスや学年を見ても人気がないわけではない。実を言うと、この俺もそんな海鉾に対してそういう気持ちを抱きかけたこともある。俺の理想の女の子像のほぼ真逆に位置しているが、それでも、可愛い女の子であることには変わりない。
だけど、それでも俺は土館を選んだ。その理由には、土館の容姿が俺の理想の女の子像にほぼ当てはまっていること、他人想いの優しい性格をしていること、というのも上げられる。でも、それ以上に、俺はこの女の子を好きになり付き合うべきだという確固たる意思があった。
たぶん、その意思は前の世界から、その前までの他の世界からずっと引き継いでいるものであり、もしかするとこの世界の真相にさえ関係してくるのではないかと思ってしまえるほどのものだった。
だから、俺は海鉾矩玖璃ではなく、土館誓許を選んだ。今上げたように、理由なんて考えれば考えるほど思いつくが、思い返してみれば、そもそも理由なんて必要ないのかもしれない。誰かを好きになるということに理由が必要ないと言われるように、これもまた、そういうものだったのだと俺自身納得している。
しばらくの沈黙がその場を支配する。俺と土館は何を言われても大丈夫なように覚悟を決めており、海鉾はそんな俺たちの様子を見てさらに泣きそうになっていた。一方で、そんな俺たち三人の見つめ合いを眺めていたディオネは、まるで修羅場から殴り合いの喧嘩が勃発するのを待ち遠しくしているように、ニヤニヤとしているばかりだった。
不意に、海鉾が口を開いた。
「もう……バレちゃってると思うから告白するけど……わたし、冥加くんのことが好きだったんだよ……?」
「……知ってるよ」
「それは……冥加くんが『伝承者』になってから? それとも――」
「俺は前の世界で海鉾にそう告白され、『伝承者』になった際、『箱』の壁に書かれていた記録を見て海鉾の本当の気持ちを理解した。海鉾が知っているこの間の火曜日以前の俺は、海鉾の気持ちには気づいていない。今思えば、気づける機会なんて山ほどあったのに、もっと早く気づけたはずなのに……ごめん」
「……う、ううん、冥加くんが謝るようなことじゃないよ。それに……どっちかって言えば、謝らないといけないのはわたしのほう……だよね? わたしの身勝手な想いに気づいてもらえないことを冥加くんのせいにして、自分から直接気持ちを伝えようとしないで、毎日のようにストーカー行為を繰り返した……こんな女子、誰も好きになってくれないよ。軽蔑されたって不思議じゃないし、『二度と俺の前に顔を見せるな』って言われても理不尽じゃない」
「海鉾、俺は――」
「分かってる! ……分かってるよ。何でわたしが冥加くんのことを好きになったのか、それが分からないんだよね?」
海鉾の台詞に、俺はどう反応するべきか悩んだ。でも、過去を確認するためにも聞いておかないといけないと思い、しばらくして首を縦に振った。
「やっぱり、そうだよね。まあ、今の今まで気づいてもらえなかったんだし、わたしからそのことについて何一つとして言ってないんだから、知らなくて当然だよ」
「俺は……海鉾の想いを知ったと同時に、海鉾のある程度の過去まで知ってしまった。でも、今の世界は少し違うかもしれない。だから、教えてくれないか?」
「いいよ……もう、この際、何もかも、どうでもよくなっちゃいそうだからね。わたしがどうやって冥加くんと出会ったのか、それを話す前に、まずはわたしの家庭状況について話すべきだと思う。今となっては、両親はわたしを刺激しないようにオロオロと振舞うことしかできなくなっているけど、昔はそんなことはなかった。毎日毎日夫婦喧嘩ばかりで、最初はわたしもそれを止めに入ったけど、少しずつ、止めても無駄だということが分かって傍観することしかできなくなっていった。ときには、その火花がわたしのほうにまで飛んできて、大怪我をすることもあった。そのせいで入退院を繰り返して、入学式には一度も出られなかったし、学校生活は鬱で、同級生から虐めも受けていた。しばらくして、わたしの中の何かが切れて、同級生を何人か病院送りにしたことがある。それによってわたしは両親に反抗したつもりで、何かを変えようとした。でも、状況は大して変わらず、ついには自殺未遂までして、結果、あの収容所に送られた」
「海鉾が言う『収容所』という施設のことを、俺は覚えていない。それは、どういうところだったんだ?」
「まあ、一言でいえば、精神疾患を発症した子どもたちが集められる、精神病院みたいなところだよ。でも、実際にはろくな治療なんてされなかったし、治療を称した拷問みたいなことも行われていた。そんなとき、わたしは冥加くんに出会った。そして、冥加くんとともに、どうにかしてその収容所を脱出しようとした。そのとき、わたしは冥加くんのことを好きになった。わたしのことを理解してくれて、わたしのことを見てくれる初めての人だったから、そう思えた。後に、わたしたちは収容所を出ることができたけど、それから冥加くんとは会えなくなり、わたしを収容所に送り込んだのが両親だと分かって立場は逆転した。しばらくして、高校生になったわたしは冥加くんと再会した。でも――」
「俺が、海鉾のことを忘れていた……」
「そう。覚えてるのはわたしだけ、冥加くんはあのときのことを全部忘れてる。それだけでも充分に信じたくないことだったけど、わたしのあからさまな気持ちに気づいてくれないことも悲しかった」
「俺は海鉾が言う収容所にいた頃の話を覚えていない。海鉾と会話を交わしたことも、海鉾と会ったことも、その収容所にいたということでさえ」
「だけど、何となくその理由は分かってるよ。全部、冥加くんのもう一つの人格が原因なんだよね? 冥加くんの中にもう一つの人格がいたからあの収容所にいて、そのときの記憶がないんだよね?」
「ああ……たぶん、そうだと思う」
「そっか……」
そう言うと、海鉾は体の向きを変えて、俺たちに背を向けた。
「それなら、わたしのこの気持ちは嘘で、あのときのことは全部存在しなかったことってことにすればいいよ。うん、そうしよう。それなら、冥加くんもわたしの身勝手な想いに振り回されることがなくなるし、わたしも余計なことを考えずに済んで気が楽になるよ」
「海鉾……」
「冥加くん、誓許ちゃん。恋人になれてよかったね、おめでとう。ここまで散々色々言ってきたけど、わたしは二人を祝福するよ。もう、誓許ちゃんの前で冥加くんにベタベタ引っ付いたりしないし、冥加くんのことをストーカーしたりしない。だから、今日あったことは忘れて、わたしの気持ちをなかったことにして、これからは一人の友だちとして、今まで通り接してほしい」
「……それでいいの? 海鉾ちゃん」
「もう、いいんだよ。最初から、いつか実るような恋じゃなかったし、ね」
「……分かったよ」
俺が言おうとしたことを、代わりに土館が言った。すると、土館がそう返事をしたのを聞いた海鉾は俺たちのほうを向いて言った。そのときの海鉾は可愛らしい一人の女の子としての笑顔を見せ、その笑顔には不釣合いな涙を流していた。
「ありがと」
海鉾は一言だけそう言うと、すぐさま走り出し、その場から立ち去った。俺たちに止める時間を与えることなく、海鉾は涙を零しながら、その姿を消した。
残された俺たち三人は海鉾の姿が見えなくなった後も、しばらくその場から動けなかった。でも、海鉾の気持ちを想い、みんなが待っているであろう例の噴水前に行くことにした。海鉾はどこに行ったのかと聞かれたけど、用事があって先に帰ったと言っておくほかなかった。