第八話 『葵聖』
突如として現れた天王野に姿を見られた瞬間、俺は今自分が陥っている危機的状況を認識した。パジャマを着ている俺が、部屋から出ようとしている下着姿の地曳の手首を掴んで半ば強引に引き止めている。家に入ってきて早々にこんな場面を見たら、しかもその目撃者が天王野だったら、どう勘違いするのかは一目瞭然だった。
「……ミョウガ……ジビキに何をしようとしていたか、言え!」
「違う! これは誤解だ! というか、天王野こそどうやって俺の家に入ってきたんだよ!」
「……今から遊ぼうと思ってジビキの家に行ったけど、ジビキはいなかった。……だから、カナイズミに相談してみたらミョウガの家の方向に行っているのを見たっていうから、確認しにきた。……玄関のドアに鍵がかかってなくて助かった」
「地曳……鍵してくれなかったのか?」
「あはは、ごめーん。忘れちゃってた」
まずい、これは非常にまずい。まさか玄関ドアの鍵をし忘れてしまったことでこんなことになるとは……いや、ただその程度のことでこんなにも大事になってしまうとは誰も考えもしなかっただろう。天王野は俺と地曳が言葉を交わしただけでさらに不機嫌になっているみたいだし、今にも殴りかかってきそうな形相だ。
どうにかしてこの非常にまずい状況を切り抜けようと考えていると、先に天王野が俺のことを睨みつけながら言った。
「……手……」
「え……?」
「……今すぐ、ジビキの手を離せ!」
「あ、ごめん……」
天王野に大声で怒鳴られ、俺は軽く気圧されながら、握っていた地曳の手を離した。俺が地曳の手を離したのを確認すると、天王野はすぐさま下着姿の地曳に駆け寄り、その胸に顔を埋めながら抱きついた。
その後数秒間、その場にいた俺を含めた三人が口を開くことはなかった。しかし、しばらくすると、ようやく気持ちが落ち着いてきたのか、地曳に抱き付いている天王野が口を開いた。
「……ジビキ……もう、ワタシを一人にしないで……」
「きーたん……」
「……ワタシ、ジビキのことが心配で心配で仕方なかった。……昨日だって、もう少しでミョウガに殺害されそうだったし、気絶したし、記憶の一部がないっていうし、今だって――」
「ごめんね、きーたん。でも、ちょっとだけ誤解してるみたいだから、訂正しておくね」
「……え?」
「今日、こうして對の家に来たのは、そのことについて話したいと思ったからなの。對がみんなに話したこととか、私の失われた記憶とか、そういうことが気になってね。だから、きーたんだけじゃなくてみんなにも心配かけたくなかったから、誰にも何も言わずに来たってわけ。それで、さっき對が私の手を握ってたのは、私が話を途中でやめようとしたから、それを引き止めてくれただけ。安心できた?」
「……う……うん、ジビキがそういうなら、そうなんだと思う。……だけど、やっぱり、ワタシにはジビキしかいないんだから、心配をかけるとか思わずに相談してほしい。……ワタシは、ジビキの力にしかなれないから」
「そんなことないよ。もちろん、私はきーたんのことが大好きだし、大切に思ってるよ。でも、私だけの力にしかなれないなんてことはない」
女子二人の会話を見届けながら、俺はベッドの端に腰かけた。この二人の仲が良くて、お互いに相手を欲しているのは俺がよく知っている。それは、二人の過去が今の二人の関係を生み出すきっかけを作っていたからに他ならない。だから、二人は同い年なのに、姉妹のようだったり母娘のように見える。まあ、身長差や性格も関係してるとは思うが。
地曳は天王野を諭すように優しく語りかけながら、そっと髪を撫でている。対する天王野も赤ん坊のように地曳の胸に顔を埋めて、小さな声で泣いているようにも見える。地曳を失ったり地曳の身に万が一のことがあると、それは天王野の心を破壊してしまうほどの出来事になりうる。現に、今までの世界で起きた天王野が関係している事件の大半は地曳の死が原因によるものだ。
今までの世界でそれほどまでに大切な地曳を失った天王野は、地曳の死体を原型も留めないほどに切断して地曳の死から目を背けた。大切な人を失うのは誰だって辛いが、天王野にとって地曳赴稀という存在は他のどんな存在よりも遥かに大切な存在だった。だから、天王野は地曳に抱きついて泣いているのだろう。
すると、不意に地曳が天王野を抱き締めながら話し始めた。
「きーたん……せっかくの機会だから、何で私がきーたんを気にかけたのか教えてあげるね。どうして私がきーたんのことを大好きになって、大切に想っているか、その理由を」
「……ジビキ……?」
「私がきーたんやみんなと会うずっと前、私にはお父さんとお母さん、そして可愛い妹二人がいた。私たち家族五人はみんな仲が良くて、私は妹二人とは特に仲が良かった。だけど、私も含めて地曳家の人間はみんな運が悪かった。不幸体質って言ったほうがいいのかな。とにかく毎日変なことばかり起きて、他の人たちにも迷惑をかけて、仕舞いには誰にも近づかれないようになった。そんな感じで友だちなんてできなかったけど、それは昔からのことだったし、私には家族がいたから、それで充分に満足だった。ある日、お父さんとお母さんが突然、一週間だけ旅行に行こうと言い始めた。理由を聞いてみると、世間様に迷惑をかけないために、しばらくの間街から離れようということだった。何だか嫌な予感がしたけど断る理由もなく、私たち家族は飛行機に乗って海外に行くことになった。……でも、その行き道で事故が起きた。飛行機は墜落し、私以外の乗客は全員死んでしまった。それには、お父さんもお母さんも大好きだった妹二人も含まれてる。それからはもう散々だったよ。大事故の唯一の生き残りとして色んな人から色んなことを聞かれて、追いかけ回されて、やっとの思いで家に帰ってきたら、家を空けてる間に火事があったみたいで、家族だけじゃなくて住む場所も財産も全部失った。親戚からは疫病神として扱われて引き取ってもらえなかったし、中学校までも似たような感じだった。そんなとき、さっちゃんと逸弛に友だちにならないかって誘われて、みんなと知り合って、きーたんと出会った」
「……ジビキ……」
「きーたんと初めて会ったとき、正直驚いたよ。何だかよく分からないけど、きーたんからは妹二人と同じ匂いがする。容姿が似ているわけでも、性格が似ているわけでもないのに、守ってあげたくなる。そして、私はきーたんと妹二人を重ねて見るようになり、いつの間にかきーたん自身のことが好きになっていった……ごめんね。こんな、私の身勝手な思いで、きーたんを妹の代わりみたいにしちゃってて」
「……ううん。ワタシだって、最初会ったときも、今だって少し、似たような感じだから……」
地曳にとって、天王野がどれほど大切な存在だったのか。それが、今の地曳の語りで分かった。不幸体質に見舞われ、家族全員を失い、そんなときに亡くなった妹と似た雰囲気の天王野と知り合ったとき、地曳がどれほど嬉しく思っただろう。想像もつかない。
地曳は天王野のことを亡くなった妹二人の代わりにしていたと言っていたが、俺はそうでもなかったんじゃないかと思う。もちろん、最初はそういう思いだったことは間違いないだろうが、それと地曳が天王野に惹かれたのは別の話で、天王野の悩みを共有したのも地曳がただ純粋に天王野のことが好きだったからに他ならない。少なくとも、俺にはそう思えた。
おそらく初めて、地曳から過去を明かされた天王野。天王野が自分の過去について地曳にどれくらい話しているのかは分からないが、天王野は地曳に話すべきか迷っているようにも見える。でも、ふと顔を上げると、そのまま話し始めた。
「……ワタシだって、ジビキのことをお母さんの代わりみたいに思ってた。……幼い頃からワタシは人付き合いが上手じゃなくて、いつもお母さんにしがみ付いていた。……でも、ある日家に強盗が入って、それで、お母さんを含めた家族全員が殺害された。……翌日、なぜか強盗犯はワタシの周りで死亡していたし、事件後引き取られた先の義理の家族には虐められた。……そんなとき、カナイズミに誘われてみんなと知り合って、ジビキとも知り合った。……最初は何でジビキはワタシに話しかけてくれるのか分からなかったけど、ワタシのことを第一に考えてくれていて、相談にも乗ってくれるジビキはワタシの心の支えだった。……今、こうしている間も、ワタシはジビキのことをそう思ってる。……ジビキがワタシのことを亡くなった妹さんの代わりにしていたように、ワタシもジビキのことをお母さんの代わりにしていた。……唯一ワタシの面倒を見てくれたジビキは、ワタシにとってお母さんみたいに見えたから……」
「たぶん、私は無意識のうちにお姉ちゃんっぽく、年上っぽく振舞ってたのかもしれないね。だから、きーたんは私のことをお母さんみたいに思った。うん、きーたんのことを妹の代わりにしていた私が言えたことじゃないけど、私はきーたんのお母さんの代わりでもいい。だけど、やっぱり、私は心の底からきーたんのことが大好きなんだ」
「……そ、それは、ワタシも……!」
「ん、ありがと、きーたん。あと、ごめんね、心配ばっかりかけちゃって」
「……大丈夫……ワタシは、ジビキが無事ならそれで……」
そうして、二人は再び互いの体を抱き締め合った。ようやくお互いの想いを伝え合うことができ、和解というわけではないが、言えていなかったことを言えた。今は、二人ともそれだけで満足だったのだ。
数分後、ふと地曳が口を開いた。
「それじゃ、きーたん。一緒にお風呂入ろっか」
「……うん」
「對、お風呂借りてもいいよね?」
「え? ああ、構わないぞ」
「ありがとね」
「あ、そうだ。夕飯は二人が風呂に入ってる間に俺が作っておく。風呂から上がった頃には丁度いい時間になってるだろうし、三人で食べよう。だから、気にせずゆっくり入ってこい」
「……うん」
これから冥加家の風呂場でどんなことが行われてしまうのか妄想しないように気をつけながら、俺は二人を見送った。その後、二人が上がったらすぐに夕飯を食べられるように仕度しようと、リビングへと向かった。
そのときだった。
「……ん? 何か今、動いたような……気のせいか」
不意に、視界にあった何かが動いたような気がしたが、周囲を見回してみてもその正体は分からなかった。そして、特に気にすることなく、俺は夕飯を作り始めた。