第二十四話 『現実』
沙祈に呼ばれてすぐに教室に駆けつけた僕が最初に目にしたのは、赤。それまで平和だったはずの教室の風景はもうそこにはなく、代わりに天井、壁、床にびっちょりと大量の血が付着している。そんな地獄絵図とも呼べる教室の中には七つの死体が力なく無造作に放置され、そのすぐ手前には鉄パイプのようなものを持っている全身真っ赤に染まった赤髪サイドテールの少女の姿があった。
目の前に広がるこの光景は『幻覚』だ、そう思い込むだけなら簡単なことだった。しかし、実際のところ、どうあがいたところで、これは『現実』だった。この一週間、僕は何をしてきたのだろうか。全ての努力を無に返す出来事……いや、この一週間というもの自体が虚構であり、『幻覚』だったんだ。僕はようやく思い出した。
目の前に広がっている悲惨な光景から目を背けるために、意図的に『幻覚』を見ていたことを。存在しないと思い込んでいた火曜日が存在していて、その日に起きた出来事を。そして、イレギュラーだったのは今の世界やみんなではなく、僕ただ一人だったということを。
「あぁ……そうか……そうだったんだ……」
「ねぇねぇ、聞いて聞いて! あたし、逸弛のために頑張ったんだよ? そこで死んでるのはね、逸弛のことを悩ませて苦しめる不必要な存在の奴らなの! だから、あたしはコイツらをボッコボコにして殺してやったよ! アハッ! やったね! これでもう、あたしたちを邪魔する奴らはいないし、逸弛が辛い思いもしなくなるよ!」
「沙祈……」
おそらく、沙祈はその手に持っている鉄パイプで七人を撲殺したのだろう。それに、沙祈の足元や彼らの周りには何本もの包丁が散乱している。よく見てみると、それは僕の家からなくなった包丁だったり、沙祈の家にあったはずのものと同じだということが分かる。沙祈はたった一人で、何も武器を持っていない七人を突然一方的に殺したのだ。沙祈の台詞、目の前の光景から考えて、それ以外には考えにくい。
僕は沙祈の台詞に答えることなく、そのまま七人のもとに歩み寄った。念のため、全員の脈を取ってみたけど、結局それは無駄に終わった。出血の量や身体損傷を見てもそれは明らかだったけど、間違いなく全員死んでいる。ただ、体は冷たくなっておらず、殺されてまもないというのはすぐに分かった。
「逸弛、何してるの? あ、そっか、こいつらは逸弛に辛い思いをさせたんだもんね! もっともーっと、原型を留めないくらい痛めつけないと、気が済まないよね!」
沙祈はそう言って、僕の目の前に倒れていた赴稀ちゃんの顔面に鉄パイプのようなものを突き刺した。頭蓋骨が割れ、眼球は飛び出し、亀裂からぐちゃぐちゃになった脳味噌が溢れてくる。沙祈が何度も何度も繰り返し突き刺す度、僕や沙祈の顔や服に返り血が飛び散る。
人というのはこうも簡単に壊れてしまうのか、そう思った。それはもちろん、顔面を潰されていく赴稀ちゃんもそうだけど、そうしている沙祈の心に関してもそうだった。見ていられなくなった僕は、沙祈が握っている鉄パイプのようなものを手で止めた。
「……? 逸弛、何で止めるの? ああ、分かった! ごめんね、あたしばっかりこんなことをして! 辛い思いをしたのは逸弛なんだから、あたしじゃなくて逸弛が痛めつけたいよね! はい、鉄パイプ!」
「……やめてくれ」
「え?」
「もう、やめてくれ。沙祈」
「……? こいつだけじゃなくて、他の奴も痛めつけろってこと? それなら任せて! あたし、逸弛のためなら何でもできるよ! さーって、次はどいつをどういう風に殺そうかな――」
沙祈の中の何かが外れてしまったのか、沙祈は僕の台詞の意味をまるで理解できていなかった。僕は沙祈を正気に戻すため、立ち上がって、沙祈の頬を一度だけ叩いた。数秒間の沈黙の後、真っ赤に腫れた頬を触りながら、信じられないといった様子で沙祈が僕の顔を見た。
「何で……あたしにこんな酷いことするの……? 逸弛は……あたしのことが好きじゃないの……?」
「……そんなわけないじゃないか……僕だって、沙祈のことが好きだよ……」
「それなら、何で……もっと喜んでくれないの……?」
「沙祈……」
僕は沙祈の肩を掴むと、そのまま頭を下げるように俯いた。おそらく、今の沙祈に何を言ったところで、僕の思いは間違った風に取られてしまうだろう。だったら、どうするべきか。僕のことを想い過ぎたあまり狂ってしまった沙祈を元に戻すには……僕自身が狂っていたことを認める必要がある。
「思い出したよ……やっと……」
「……?」
沙祈は僕が何を言っているのか理解できていない様子で、小首を傾げていた。その様子から、つい数分前にかかってきた沙祈からの電話は『幻覚』の中の出来事だったのだと分かった。
確かに、今の世界では他の世界に比べて、友だちグループのみんなの仲が良く、それなりに悲惨な過去ではなかったのかもしれない。そういう意味でのイレギュラーな事態であれば、辻褄が合う。でも、だからといって、いくら何でもイレギュラーな事態が起こり過ぎではなかっただろうか。
もちろん、僕だって最初はそれらに違和感を覚え、おかしいと思っていた。でも、少しずつ、それらが立て続けに起こる度に、今の世界ではそういうものなんだと解釈して考えるのを諦めていた。しかし、実際にはそれこそが間違いで、イレギュラーな事態の一つ一つには意味があり、僕は自らそれを無意識で意図的に見逃していたのだった。
僕こそがそれらのイレギュラーな事態の発生源であり、狂っていたのは今の世界やみんなではなく僕のほうで、『幻覚』にそのヒントが隠されていた。
火曜日。つまり、つい数分前までの僕は今の世界に存在していないと思い込んでいた日。その日は、確かに今の世界にも存在していた。また、僕も前の世界からその日の夜に送られ、『伝承者』としての使命を果たすべく行動するはずだった。
しかし、その通りに事は進まなかった。考えられる理由は様々だけど、僕は前の世界で沙祈を失って自殺したくなるほどの悲しみに溺れ、その後もいくつもの悲惨な殺人現場に遭遇し、結果的に生き残った。そんな中で半ば信じがたいこの世界の秘密を伝えられ、『伝承者』として次の世界に送られた。次の世界には、死んだはずの沙祈が生きており、僕は――、
『気が狂った』。
まさに、言葉通り、僕は『気が狂った』のだ。前の世界で僕が体験した悲惨な出来事は何だったのか、前の世界の沙祈は何のために死んだのか、何で今の世界はこんなにも平和なんだ、僕はこれから何をどうすればいいのか。その全てが分からず、頭が内側から破裂しそうになった。
直後、僕は思い出してしまった。『今の世界は前の世界とは違うから、こうして沙祈は生きている。ということは、前の世界の沙祈を殺した葵聖ちゃんも生きている』ということを。そして、そのまま僕の負の感情にまみれた思考は続き、『伝承者』の使命も忘れて、これから何かが起きてしまう前に、前の世界で誰かを殺した殺人犯をこの手で殺してしまおうと考えた。
我を失い、自分でも自分が何をしようとしているのかよく分からないまま、僕は家中を探し回って武器を探した。その中でも特に殺傷能力が高そうな包丁と鉄パイプを手に取り、僕は家を出ようとした。そのときだった。
ふと、僕の名前を呼んだ声が聞こえたと思えば、そこには僕のことを心配そうな表情で見ている沙祈の姿があった。沙祈は寝ていたはずだけど、僕が武器を探している音で起きてしまったのだろう。沙祈は僕に『どこに行くの?』と聞いた。僕は沙祈に『殺人犯を殺してくる』と答えて、家を出ようとした。
でも、当然のことながら、沙祈はそんな理由で僕を家から出してくれるわけもなく、僕のことを引き止めた。僕はこれからしようとしていることが沙祈や殺されていったみんなの敵討ちだと言い張り、力づくで沙祈を跳ね飛ばし、強引に引き離そうとした。だけど、沙祈はそれでも手を離さなかった。
だから、僕は自分の手で沙祈の首を絞めて、窒息させて気絶させた。手を離してみると、沙祈は数秒だけ呼吸していなかったけど、すぐに呼吸を再開した。僕はそれを確認すると、四人がいる人工樹林に向かった。
人工樹林の中には赴稀ちゃんがおり、その赴稀ちゃんに呼び出された對君、對君をストーキングしている矩玖璃ちゃん、探し物のために草むらに隠れている葵聖ちゃんがいるはずだ。僕が敵討ちのために殺すのは、赴稀ちゃんを殺した對君と、沙祈やその他大勢の人たちを殺した葵聖ちゃん。あとは、葵聖ちゃんの死後殺人を繰り返していた誓許ちゃんあたりだろうか。
人工樹林に行って二人を発見した僕は、赴稀ちゃんを殺そうとしている對君に力づくで鉄パイプを振り下ろした。しかし、對君は僕の気配に気づいていたのか、それを片手で止めたかと思えば、そのまま赴稀ちゃんを殺すために握っていたナイフを僕に突きつけてきた。
このときの對君はもう一つの人格のほうで、普段僕が知っている對君に比べて戦闘能力に長けている。いつ、どういうきっかけで入れ替わるのかは分からないけど、しばらく続いていた殴り合いの最中はずっともう一つの人格のほうだったように思えた。
すると、僕と對君が殴り合っている様子を間近で見ていた赴稀ちゃんと葵聖ちゃんが僕たちを止めようとし、しばらくして、人工樹林の外で對君を待っていた矩玖璃ちゃんに加えて、遷杜君、霰華ちゃん、誓許ちゃん、そして沙祈までもが人工樹林に集結した。
どうやら、本来ここにこないはずの三人に関しては、沙祈がみんなに電話をして僕の様子がおかしいことを伝えて、電話がかからなかった三人が危ないと判断して、集まったらしい。
人工樹林に九人が集まると、對君のもう一つの人格は引っ込み、普段通りの對君に戻った。一方で、僕は遷杜君たちに押さえつけられ、武器を取られ、身動きがとれなくなった。そして、僕は尋問のように話を聞かれたものの、何も答えなかった。ただ、そのときの僕は自分がしていることが間違っていないと思い込んでいたから、それに近いことは口走ったかもしれない。
僕の身動きが取れなくなっている中、みんなが話し合いを始めた。僕は遷杜君に気が緩んだ一瞬の隙を突き、その場から逃げ出し、ひとまず家に帰って作戦を練り直すことにした。
次の日、僕は学校で大勢の人たちを傷つけることになる。