第二十三話 『幻覚』
「逸弛ー」
「……、」
「おーい、逸弛ー。朝だぞー」
「……え?」
「あ、やっとか。悪い、朝っていうのは嘘だ」
「……ああ、うん」
僕の名前を呼び声が聞こえ、その方向を見てみると、そこには對君の姿があった。その後、周囲を見回してみると、ここが教室の中であることが分かり、僕と對君の他にも六人の友だちの姿があった。みんなそれぞれ二人か三人ずつのグループになって、PICやタブレットを使用して、何か調べ物をしているのが分かる。ただ、その中に、沙祈の姿はなかった。
今が放課後で、僕はみんなとこの世界の真相を暴くために捜索している最中だったと思い出すと、そのまま今朝の出来事までもが頭の中に蘇ってきた。
今朝の出来事……具体的にいえば、折言ちゃん、矩玖璃ちゃん、赴稀ちゃん、葵聖ちゃんの四人が話し合いをしているところに沙祈が乱入し、激しい喧嘩になったということ。原因は、赴稀ちゃんが他三人を集めて聞いた『僕が話したことを信じているか』という話題を通りかかった沙祈に聞かれてしまったこと。沙祈は、僕を庇うために、赴稀ちゃんに殴りかかったのだった。
もちろん、結論だけいってしまえば、今朝の出来事は幻覚だった。ただ、それと同時に、今朝の出来事の全てが幻覚だったわけではない。現実と幻覚がいつ切り替わったのかは僕にも検討がつかないけど、あの激しい喧嘩が繰り広げられている中、途中で幻覚に切り替わったのは確かだ。
葵聖ちゃんがナイフを取り出したのも、赴稀ちゃんが沙祈の腹部にナイフを突き刺したのも、沙祈が血まみれになって倒れたのも、全部幻覚だった。ということは、その前までは現実だったのだと思うけど、本人たちに聞けない以上、真相は分からない。
一応、幻覚を見ていたとはいえ、僕が五人の間に入って止めたことによって、喧嘩は静まった。しかし、沙祈が僕のことを庇ってくれたことや四人が僕の話を信用していなかったことが、僕に知られたと分かり、その場にいた五人はすぐに教室に行ってしまった。
教室では、常に話しかけにくい雰囲気を放っているだけでなく、話しかけようと近づくと逃げられてしまう。また、一瞬だったとはいえ喧嘩したからなのか、沙祈と他四人は口も聞いていないように見えた。中でも、赴稀ちゃんと葵聖ちゃんは沙祈に敵意剥き出しで、折言ちゃんと矩玖璃ちゃんは仲直りしたいけど雰囲気がそれを許していないという風に感じられた。
今朝の出来事について、現実で起きた事実は『四人は一階空き教室で話し合いをしていた』『みんなは僕の話を信用していない』『沙祈が四人の話し合いを聞いた』『沙祈が四人と喧嘩した』『僕が止めに入ったことで喧嘩が静まった』といったところだろう。
幸い、誰にも大きな怪我がなくてよかったけど、まさかこのタイミングでこんな風に友だちグループ内で亀裂が入ってしまうとは思いもしなかった。もう少しみんなの言動に警戒して、もっと早く四人の話し合いをやめさせるべきだったかもしれない。みんながどう思っているのかが気になって話し合いを最後まで聞いてしまった僕が悪いんだ。
今、みんなと捜索しているわけだけど、そのギスギスした雰囲気は未だに続いている。沙祈と四人の関係は相変わらずだし、沙祈は教室の隅で一人でPICを弄っている。また、今朝あんなことを聞いてしまったからかもしれないけど、何だかみんなの捜索に対する真剣さが感じられない。『とりあえず形だけはしておこう』『放課後の暇潰しには丁度いい』程度にしか考えていないように見えてしまう。
何だ、何なんだ。僕はいつどの段階で間違ったんだ。分からない。どこかで間違ったのは明らかなのに、今はこの有様だ。みんなには話を信用してもらえず、友だちグループには亀裂が入り、捜索はほとんど進みそうにない。
最終日とされている日に『箱』を出現させることができれば、みんなの信用を勝ち取ることができて、何もかもが丸く収まるかもしれない。でも、『箱』を出現させられるという保障はない。そもそも、今までの世界では『箱』を最終日まで出現させなかったみたいだし、生存者二人になった状態でしか出現していない。だから、その法則がこのイレギュラーだらけの今の世界で通用してしまうのか、はっきりしていない。
「なぁ、逸弛。土館たちと何かあったのか?」
「……な、何でそう思ったんだい?」
「いや、今朝から思ってたんだが、逸弛と土館、そして海鉾と地曳と天王野、あとは火狭か。何だか、六人の様子がおかしいように思えたんだ。それに、話しかけにくい変な雰囲気放ってるし、今日一日見てたが六人の間にほとんど会話がないようにも見えた。何もなければ、こんなことにはなってないだろ?」
「まあ、うん……」
「その様子を見るに、俺の勘違いってことはなさそうだな。仮暮先生は気づいてなかったみたいだが、遷杜と金泉は気づいてたからな。何があったんだ?」
「それは――」
今朝の一件は對君に相談してもいいことなのだろうか。それとも、その前に沙祈に相談したほうがいいのだろうか。もし相談しても、對君は僕の言ったことを信じて、真剣に解決方法を考えてくれるだろうか。また、誰かに口外したり、余計なことをしないでくれるだろうか。
今の世界の『伝承者』だというのに、僕はそんな疑心暗鬼に支配されてしまっていた。どの選択肢が最善なのか、そもそも僕が考え付いた中に最善の選択肢なんてあるのか。考えれば考えるほど、余計に物事が分からなくなっていく。
僕が對君にどう返事するべきか俯きながら悩んでいると、ふと二つの人影が視界に入った。顔を上げてみると、そこには折言ちゃんと矩玖璃ちゃんの姿があり、二人とも辛そうな心配そうな表情をしていた。
「みょ、冥加君。ちょっと来てくれる?」
「……ん? ああ、土館と海鉾か。丁度いいところに来てくれた。実は、丁度二人を含めた六人について逸弛と話してたんだ――」
「いいから早く来て!」
「え、ちょ、ちょっと待てって――」
折言ちゃんと矩玖璃ちゃんに話しかけられた對君は、抵抗虚しくそのまま廊下に連れて行かれてしまった。三人の姿が見えなくなる直前、對君が僕に口パクで『ごめん。またあとで』と言ったのが分かった。でも、僕としてはどう返答したらいいか分からなかったから、正直なところ、折言ちゃんと矩玖璃ちゃんには助けられた。
三人の姿が完全に見えなくなった後、僕は振り返って教室の中を見た。すると、教室の中に残っていた他のみんなは僕たちの様子を見ていたのか、僕が振り返った瞬間に目を逸らしてそれまでの捜索を続けているように見せかけた。
みんなのそんな態度にとてつもない気持ち悪さを覚えた僕は、気分転換代わりに一回外の空気を吸いに行こうと考えた。場所なんてどこでもいい。とりあえず、さっき教室から出て行った三人とは別の方向に行こう。まあ、一階まで下りて、中庭にでも出ようかな。
誰もいない廊下を抜け、階段を下りる。そして、誰かがいるわけでも、何かがあるわけでもない中庭に向かった。『庭』とはいっても、自然な植物なんて生えてないし、どれも人工樹木のようなものばかりだ。でも、居心地の悪い雰囲気だった教室に比べると過ごしやすいし、空気洗浄機の数からしても空気が澄んでいて息がしやすい。
校舎の壁にもたれかかり、一度だけ大きな溜め息を吐く。
誰かが殺されたわけではないのに、大きな事件が起きたわけでもないのに、僕は浮かない気持ちだった。他の世界であればその二つだけで充分なほどの働きといえるはずなのに、納得できていない。
沙祈とは喧嘩してしまったし、みんなには話を信じてもらえてないし、友だちグループの一部に亀裂が入り始めている。それどころか、捜索は一向に進む気配を見せていない。思い返してみれば、何で今の世界にはイレギュラーな事態ばかり起きているのか、何で水曜日から始まったのか、何で僕が何度も幻覚を見ることになったのか、何一つとして分かっていない。
……ん? 分かっている情報が少なくて、いくら考えても答えを導き出せないなら、その情報を集めればいいだけのことなんじゃないだろうか。それが難しくて困っているとはいっても、みんなに話を聞いても答えてくれないとはいっても、PICならすぐに答えてくれる。そうだ、まずは今の世界の火曜日に何が起きたのかを調べよう。
そう考えた後、僕はすぐにそれを行動に移した。急いでいるわけでも焦っているわけでもない。ただ純粋に、分からないことを調べているだけだ。今の世界に存在していないはずの火曜日に何が起きたのか、それを調べるだけ。
PICを起動させてから十数秒後、ようやく僕は今の世界の火曜日に起きた出来事について書かれているページを開いた。ただ、そのページは僕が住んでいる街にあるPICからでないとアクセスできないようになっているらしく、何か不審な気配を感じ取った。そこに書かれてあったのは――、
「わっ」
不意に、PICのアラーム音が辺りに響き渡った。突然のことに驚いた僕はすぐにPICの立体映像上の画面の確認し、沙祈から電話がかかってきたのだと知った。もしかして、沙祈のほうから僕に仲直りをしようという電話をかけてきたのだろうか。僕はそんな甘過ぎる考えのもと、電話に出た。
直後、PICの立体映像の画面上に表示されたのは、顔に大量の血がついている沙祈の姿だった。
「さ、沙祈……!? な、何があったんだい……!?」
『あはははは! あはははははははは!! 逸弛、やったね! これでもう、逸弛は苦しまなくていいんだよ!』
「ど、どういう意味だ……?」
『教室に戻ってきて? そうしたら、全部分かるから。逸弛が忘れてることも、火曜日のことも、全部』
そう言って、沙祈は一方的に電話を切った。何か、とんでもないことが起きてしまっている。それくらいのこと、すぐに分かった。僕はこけそうになりながら、心臓が潰れてしまいそうなほど急いで教室に戻った。一段飛ばしで階段を上がり、勢いよく教室のドアを開け放つ。
「沙祈!」
「あ、やっと来た」
そこには、一面真っ赤に染まった教室の中に立つ沙祈の姿と、血の海と化した床に倒れている七つの死体。そして、『幻覚』でもなんでもない、ただの『現実』があった。