第二十二話 『幻覚』
沙祈と仲直りできていないまま、一晩が明けた。メールを送っても返信はなく、電話をかけても繋がらない。家に直接行っても反応がなく、合鍵を使おうとしても内側から別のロックをかけられていた。
十年以上の付き合いだというのに、僕たちはほとんど喧嘩したことがない。もちろん、喧嘩したことがないわけではないけど、数えるほどしかしていない。僕から沙祈を怒ることは滅多にないし、沙祈が僕に苛立ちを覚えてもすぐに謝ったから、それほど大きな喧嘩に発展したことはなかったと思う。
でも、今回ばかりはどう考えても僕側に責任があって、沙祈が怒っても当然なことだった。もっと早く沙祈の気持ちに気づいて、みんなに打ち明けるよりも沙祈に相談するべきだった。たとえそうできなかったとしても、何か別の方法を探すべきだった。
早朝。起きてすぐに沙祈の寝顔を見ることができず、まだ不慣れな沙祈が作った朝ご飯を食べることもできないまま、一人寂しく寒い街を歩いた。僕からみんなに捜索を手伝ってほしいと頼んだわけだから、一応その計画は立ててきたけど、その最中もずっと沙祈のことが頭から離れなかった。それほどまでに、僕にとって沙祈の存在は大きなものだった。
気がつくと、いつの間にか校門前まで辿り着いていた。校舎内に入り、階段を上ろうとする。そのとき、ふと聞き覚えのある女の子の話し声が聞こえてきた。辺りを見回してみると、すぐ近くにある空き教室からその話し声が聞こえていることが分かり、中を覗いてみることにした。そこには、折言ちゃん、矩玖璃ちゃん、赴稀ちゃん、葵聖ちゃんの四人の姿があった。
「わざわざ朝早くからこんな場所に集まってもらったわけだけど……結局みんなはどう思ってるの?」
「『どう?』って、あのことだよね……?」
「まあ、昨日の今日だし、それ以外ないよね。委員長の赴稀ちゃんとしても気になるんでしょ」
「……ミズシナが言っていたこと。……それを信じているかどうか」
四人の会話を聞いた瞬間、僕は即座にすぐ近くの壁に身を隠した。この教室が四方を透明な強化ガラスで囲われていたのは予想外だったけど、廊下の角に位置する場所だったのは幸いだった。お陰で、こうして身を隠すことができた。
それにしても、僕が言ったことを信じているかどうか、だって?
「今、何か通らなかった?」
「さぁ? わたしは気づかなかったけど、折言ちゃんの気のせいじゃない?」
「そ、そっか。気のせいなら、それでいいんだけど」
「さて、そろそろ話を戻してもいい?」
「あ、ごめん。続けて」
「うん、ありがと。今さっききーたんが言ってくれたように、今日みんなに集まってもらったのは他でもない。昨日、逸弛が言っていたことを信じているかどうかについて、みんなの意見を聞きたい」
「その前に、一ついい?」
「どうぞ。おことん」
「その呼び方やめてほしいんだけど……まあ、今はいいや。えっと、何で私たちだけを呼んだの? 冥加君たちがいると何かまずいことでもあるっけ?」
「まずいことというよりは、厄介な可能性だけは最低限あらかじめ省いておきたかったの。話題が話題なだけに、逸弛本人を呼べるわけないし、加えて、逸弛の彼女であるさっちゃん、男子として對と遷杜も呼んだら面倒なことになるかもしれない。あと、せんちゃんは昨日電話してみたけど『遷杜様と一緒にいたい』とか言ってまともに話も聞いてくれなかった」
「……アレは男でダメになるタイプの人間だった」
「まあ、そういうわけでこのメンバーになったってこと。私ときーたんは信頼し合ってるし、おことんとくーちゃんも口は堅いほうでしょ?」
「『言うな』って言われたら言わない自信くらいはあるけど、そんなに信用されても困る」
「今はそれだけで充分なの……って、またいつの間にか話が脱線してるじゃん。ささ、戻そう戻そう。何でもいいから、それぞれ順番に自分の意見を言ってほしい。みんなが言い終わった後、私がみんなの意見と自分の意見をまとめて発表するから」
「それじゃあ、私から言うね。昨日の段階では、私を含めたみんなはその場の雰囲気を読んで水科君の台詞を信じた風に振舞った。幸い、冥加君が機転を利かせてその場を繋いでくれたお陰で、話を切り出せなかった私たちにも発言のチャンスが回ってきた」
「うんうん。それはもはや、逸弛以外の八人にとっては周知の事実だろうね」
「たぶん、水科君はそのことに気づいてない。でも、いつかは気づいちゃうと思うんだ」
「あ、わたしからも一ついい?」
「どうぞ、くーちゃん」
「折言ちゃんの話を切るみたいになっちゃうんだけど、三人はさ、水科くんが言ったことを信じてるの?」
「信じられるわけがない。少なくとも、私はそう思ってる」
「……第一、『箱』とかいう物理的な証拠を話に混ぜておきながら、今はそれを見せられないと言ってる時点でお察し」
「やっぱり、みんなもそうだよね。仕方ないよ、火曜日にあんなことがあったばっかりなんだから」
「三人とも『信じてない』と。まあ、予想外でもなんでもないね。わたしも同意見だし」
「そりゃさ、友だちとして信じてあげたいって気持ちはあるよ? でもさ、火曜日にあんなことがあったばっかりで、私たちだけが隠し事をしているこの状況であんなありえない話をされてもねぇ」
「……そのせいで、学校からも街からもほとんど人がいなくなった。……ワタシを含めて、みんなが一生残る傷を負った。……正直な話、これ以上迷惑事に巻き込まれるのはごめんだ」
「友だちだから、わたしたちを知り合わせてくれたから、とはいっても、よく考えてみたら許容できる範囲超えてるもんね。まあ、そんな終わったことはいいとして、今は目の前のことを考えよう」
「話を聞いてみたところ、全会一致で『信じられない』ってことになりそうだけど、それでいい?」
赴稀ちゃんがそう聞くと、他の三人が頷いたのが分かった。僕は四人の会話を聞いてしまったことで、何もかもが信じられなくなった。てっきり僕の話を信じてくれたと思っていたのに、少なくとも四人は僕の話を信じていなかった。それどころか、あの場で僕の話を信じていたのは一人もおらず、そのことを知らなかったのは僕だけだったという信じられない事実まで浮上し始めている。
「さて、あんまり話は聞けてないけど、そろそろ對あたりが私たちを探しにきそうだし、お開きにしますか。またあとで、今回の話し合いをまとめて三人にも話しておこうかな。これからの逸弛の処遇について、そして、逸弛の話を信じるかどうかについても意見を聞いておきたいし」
「うん。それは赴稀ちゃんに任せ――」
「ふざけんなああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
「……!?」
突然、どこからともなく大声が聞こえてきた。僕は自分の身を隠すことも忘れて、焦りながら教室のほうを見た。そこには、明らかに怒っている様子の沙祈が四人に向かって走っているのが見えた。おそらく、沙祈は僕と反対側の位置から四人の話を聞いていたのだろう。
「さ、沙祈ちゃん!? 何でここに!?」
「はぁ!? ふざけんなよ! お前ら、逸弛の言ったことを信じてなかったのかああああああああ!!」
直後、沙祈が振り抜いた拳が赴稀ちゃんの顔面を直撃し、そのまま赴稀ちゃんは教室の床に倒れこんで苦しそうに腹部を抱えていた。すぐに葵聖ちゃんが心配そうに赴稀ちゃんに歩み寄り、折言ちゃんと矩玖璃ちゃんが沙祈を止めに入る。
「やめて! やめてよ、沙祈ちゃん!」
「うるさい! お前らだって同罪だ! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!! 逸弛のことを信じられない奴なんか、全員死ねばいいんだああああああああ!」
「……ヒサバ、自分が何したか分かってんの?」
「元はといえば、そこでうずくまってる奴が原因なんだ! お前が、お前があの日死んでいれば、逸弛があんなに苦しむ必要はなかった! お前らなんかよりも、あたしを信用してくれるはずだったんだ!」
「……オマエの言い分なんか聞いてない。……オマエはジビキを傷つけた。……その理由だけで、ワタシはオマエを殺す権限を得る」
葵聖ちゃんはそう言うと、ポケットから一本のナイフを取り出した。葵聖ちゃんがどの世界でもナイフを常備しているのは知っていたけど、まさか今の世界でもそうだとは思いもしなかった。葵聖ちゃんはそのナイフを構え、沙祈に向けた。
「……死ねええええええええ!!」
「葵聖ちゃんも沙祈ちゃんも落ち着いてよ! 葵聖ちゃんは赴稀ちゃんが少し倒れたくらいで怒り過ぎ! 沙祈ちゃんは分かりきったことで怒り過ぎ! それに、自分でももう分かってるんでしょ!?」
不意に、沙祈と葵聖ちゃんの間に入った矩玖璃ちゃんが、沙祈が首に巻いていたマフラーを奪い取った。沙祈は突然マフラーを取られたことで動揺し、隠れていた酷い傷跡が顕わになったことで焦っていた。
「は、早くマフラー返してよ! こんな傷、みんなも見たくないでしょ!?」
「思い出してよ! その傷がいつ、どこで、どういう経緯で、誰につけられたのかを!」
「……っ!」
「そして、見て! わたしは左腕、折言ちゃんは両足、葵聖ちゃんは左目、赴稀ちゃんはお腹、これらは全部、これからの人生でずっと引きずっていかないといけない怪我なんだよ! そして、その元凶であり、火曜日に起きた事件を起こしたのが誰なのか――」
「う、うるさいうるさいうるさいうるさい!! そんなこと分かってるよ! でも――」
沙祈はその台詞を最後まで言い終えることができなかった。見てみると、沙祈のすぐ隣にはいつの間にか立ち上がっていた赴稀ちゃんの姿があり、その手には沙祈の腹部に食い込んでいる一本の真っ赤なナイフがあった。ポタポタという音を立てながら、血の滴が教室の床に落ちる。
「ぁ……あ……」
「やっぱり、さっちゃんを誘わなくて正解だったね。だって、こんな風に殺さないといけなくなるから」
赴稀ちゃんはにこやかに微笑みながら、沙祈の腹部に刺さっているナイフを勢いよく抜いた。直後、その大きな傷口からゴボッと大量の血が噴き出し、沙祈は力なく教室の床に倒れこんだ。辺り一面は沙祈の血で真っ赤に染まり、四人の足元には血の海ができあがっていった。
「あぁ……もう、やめてくれええええええええ!!」
ようやく事を理解した僕はそんな風に大声で叫びながら、一階の空き教室に入った。