第十六話 『幻覚』
昨日に引き続いて、僕は葵聖ちゃんのご両親の会社へバイトをしに行っていた。さすがの葵聖ちゃんも昨日僕に渡した仕事は量が多かったと思ったらしく、今日はそれよりもかなり少ない量の仕事を渡された。そういうこともあって、バイトの時間は昨日は午前中の三時間だけで、今日は午前午後合わせて六時間程度だけど、午前中の間にほぼ全ての仕事を片付けることができた。
お昼ご飯を食べ、時間に余裕もできたことなので、僕はそろそろ本題に入ろうと考えた。その本題とは、葵聖ちゃんとそのご両親に話を聞きに行くこと。まあ、言ってしまえばそれだけなんだけど、僕にしてみれば重要なことだ。バイトをすることで、僅かではあるけどお金を稼ぐこともできるしね。
仕事場の近くでなるべく人通りの少ない場所に移してもらい、葵聖ちゃんと話す。
「……それで、話って?」
「うん。昨日も言ったように、葵聖ちゃんのこと、葵聖ちゃんの家族のことについて聞きたいんだけど、答えてくれるかい? あ、もちろん、答えたくないことは答えなくていいし、分からないことは分からないって言ってくれればいいからね」
「……分かった」
「ありがとう。それじゃあまず、葵聖ちゃんの左目のことだ。その目、どうしたんだい?」
「……ヒサバから聞いてない? ……まあ、ワタシから言えばいいだけか。……昔、地下室で遊んでるときに、よく分からずに工具を触ってたらそれが左目に入った。……それで失明したってだけ」
「そのときのことはまだよく覚えてる? それと、その左目はもう治る見込みはないのかい?」
「……随分昔のことだからよく覚えてないけど、確かそんな感じで怪我したのは覚えてる。……今のところ、治る見込みはないって言われてる」
「なるほど」
案の定、葵聖ちゃんが答えたのは沙祈からの説明通りのことだけだ。昔の話で、工具で怪我をして、よく覚えていない。片目を失明するなんてこと、余程のことがない限り、一生のうちで経験する人はほとんどいない。それなのに、それほどの大きな出来事なのに、よく覚えていないわけがない。僕は、葵聖ちゃんが左目のことをあまり聞かれたくないのだと判断した。
「次に葵聖ちゃんの家族のことだ。こんなことを聞くのは葵聖ちゃんにもその家族にも失礼かもしれないけど、正直に答えてほしい。何か、家庭環境が悪かったり、家族間で問題があったりしていないかい?」
「……? ……ミズシナが何を言っているのかよく分からない」
「まあ、つまり、葵聖ちゃんとその家族の仲は良いのか悪いのかってこと」
「……世間一般的な家族と何も変わらないと思う。……それくらい、ミズシナも――っごめん」
「いや、いいよ」
葵聖ちゃんそう言うと、少し俯いてしまった。たぶん、僕の両親が何年も前にいなくなっていることを知っていたのに、葵聖ちゃんは無意識のうちにそれを思い出させることを言ってしまったから、謝ってくれたのだろう。僕には沙祈がいるから、もう昔のことは気にならないんだけどね。
「僕のこともそうだけど、葵聖ちゃんだって似たようなものだよね?」
「……どういう意味?」
「葵聖ちゃんの今の家族だって、直接的に血の繋がっていない義理の家族なのは知ってるよ」
「……っ! ……な、何で知ってる? ……ジビキしか知らないはずなのに」
「ああ、念のため言っておくと、赴稀ちゃんから聞いたりしたわけじゃないからね。ふと、そんな感じのことを耳にしただけだよ。確信なんてなかったから、こうして確認したってわけだよ」
「……そう」
どうやら、葵聖ちゃんの家族が義理だという事実は変わっていないらしい。そして、他の世界同様、そのことを知っているのは赴稀ちゃんだけで、僕たちには知られていないと思っていたみたいだ。まあ理由は何であれ、葵聖ちゃんにとって赴稀ちゃんが特別な存在でなければ、二人があれほど仲が良くなることはないだろうから、その事実は変えられないのだろう。
とはいっても、どの世界でも僕のような『伝承者』は葵聖ちゃんの家庭事情について知っていたし、その世界での日数が経過する毎にそのことを知り始める人もいたいみたいだけどね。あ、そういえば、赴稀ちゃん以外に霰華ちゃんも葵聖ちゃんの過去を知っていたはずだけど、この段階では葵聖ちゃんはそのことを知らないのか。
「……みんなには黙っておいてほしい。……あんまり楽しい思い出じゃないから」
「もちろんだよ。というか、元々僕は葵聖ちゃんの過去をみんなに言いたくて聞いているんじゃなくて、言い方は悪いけど、ただの好奇心で聞いているだけなんだ。だから、もう少しだけ答えてくれるかい?」
「……何を答えればいい?」
「まず、葵聖ちゃんの実の家族はどうなったのか、そして、いつ頃から義理の家族に引き取られたのか。そのことを教えてくれるかい?」
「……何かその言い方だと、ワタシが言うまでもなく、ミズシナは答えを知っていそう」
「そう聞こえるかい? まあ、細かいことは気にしないでもらえると助かるよ」
「……ワタシがまだ中学二年生のとき、家に強盗が入った。……そして、ワタシの家族はその強盗に殺され、ワタシ一人だけが生き残った。……しばらくして、叔父夫婦がワタシを引き取って、今に至る。……ただ、それだけ」
「ごめんね。辛い過去を思い出させて」
「……大丈夫」
ふむ。葵聖ちゃんの過去の具体的な事実も変わっていないらしい。でもそれなら、葵聖ちゃんの義理の両親にあたる叔父夫婦は唯一の生き残りとなった葵聖ちゃんを嫌悪し、家族ぐるみの家庭内暴力に発展しているはずだ。少なくとも、他の世界ではそうなっていた。
でも、葵聖ちゃんはそういうことは言わないし、前の世界と違って今の世界の葵聖ちゃんはとっても楽しそうだ。それは、赴稀ちゃんが生きていて、僕たちとより仲が良くて、家庭内暴力を受けていないからだと思う。だけど、それだと若干辻褄が合わない。そういうイレギュラーが発生しているのなら納得せざるをえないけど。
もしかして、葵聖ちゃんの左目の怪我は家庭内暴力によるものなのではないだろうか。いや、他の世界の葵聖ちゃんに対する天王野家の家庭内暴力は服で隠れる部分を狙っていたに違いない。そうでないと、僕たちが気がつかないわけがない。そうなると、やはり葵聖ちゃんの左目の怪我と家庭内暴力は無関係ということになる。
と、そのとき、僕は不意にあることに気がついた。
「ちょっと話を戻させてもらうけど、葵聖ちゃんが左目を失明したのは何年前の話だい?」
「……えーっと……三、四年くらい前……?」
「それともう一つ、葵聖ちゃんが実の家族と元々住んでいた家に、地下室はあったかい?」
「……ないけど。……それがどうしたの」
「だったら、変じゃないかい?」
「……?」
「葵聖ちゃんが左目を失明したのが三、四年前で、元々住んでいた家には地下室がないのだから、今住んでいる家で左目を失明したことになる。でも、葵聖ちゃんが今の家に来たのは中学二年生、つまり、二年と数ヶ月程度のはずなのに、それよりも前に葵聖ちゃんは左目を失明したことになる。これは、少しおかしくないかい? どうしても、僕には話の辻褄が合っていない気がするんだけど」
「……っ」
「言い間違い、勘違いは理由としては認められないかな」
「……帰る」
「あっ、葵聖ちゃ――」
僕の呼びかけに応じることなく、葵聖ちゃんはそそくさと仕事場の反対側にある家のほうへと帰って行った。僕としては、何で葵聖ちゃんがそんな風にすぐに分かる嘘を吐いたのかを知りたかっただけなんだけど、どうやら何かの地雷を踏んでしまったらしい。しばらく口も聞いてくれないかもしれない。
仕方ない。今日のバイトの時間はあと一時間くらいで終わるし、それが終わったらもう一度話しかけてみよう。それでも口を聞いてくれないようなら、今日は諦めて、他のみんなに話を聞くことにしよう。
僕が仕事場に戻ろうとしたとき、見覚えのある男性とすれ違った。僕はすぐにその男性が葵聖ちゃんの義理のお父さんだと思い出し、追いかけて話しかけた。
「あの! すみません!」
「……ん? 何だ、どうした……って、あれ? 君は誰だ?」
「あ、僕は葵聖ちゃんの友だちで、昨日から――」
「あーあー、そうだったそうだった! いやー、悪い悪い。うちの職場には人が多いからな。誰が誰だったか覚え切れんのよ。でもまあ、昨日あいつから紹介があったばっかだし、あんたみたいな若い奴は少ないからな。すぐに分かったよ」
「そ、そうなんですか」
何でかは分からないけど、僕は葵聖ちゃんの義理のお父さんに圧倒されてしまっていた。特別声が大きいわけでも、大柄な体格をしているわけでもないのに、こちらの声が出にくくなってしまう。
いや、どちらかといえば、僕のほうに問題があったのか。僕は父さんが失踪して以来父親というものをよく知らないし、沙祈のお父さんについてもあまりいい思い出がない。だから、父親という存在に少なからず距離を置いてしまい、警戒しているのだと思う。あくまで、そんな気がする程度だけど。
「それで、何か用か? 俺は今からちょっくら出かけてこないとならないんだが」
「えっと、二つほど質問があるんですけど、出かける前にそれだけ答えてもらえますか?」
「ああ、構わんよ」
「葵聖ちゃんはご家族と仲が良いですか?」
「……? 変なこと聞く奴だな。まあ、あいつは俺の実の娘じゃねぇけど、その分辛い思いをしてきただろうからな。だから、俺たち家族がどうにかしてやらんといけないだろ。少なくとも、仲が悪いってことはないな。現に、何も言わずにあいつのほうから仕事を手伝ってくれるし」
「……それならよかったです。次の質問なんですけど、葵聖ちゃんの左目について何かご存知ですか?」
「あー、あれな。何か、事情はよく知らんが、ある日学校から帰ってきたらあんな風に眼帯付けてたな。理由を聞いても答えないし、何か揉め事があったわけでもなさそうだし。逆に、あんたは何か知らんのか?」「いえ、僕は何も――すみません。その『ある日』とは、いつのことか分かりますか?」
「どうだったかな……確か、この前の火曜日くらいだったかな。最近曜日間隔がなくなりつつあるから、よく思いだせんけど」
「火曜日……」
葵聖ちゃんとその家族の仲が良くて、家庭内暴力を受けているわけではないということが分かって安心した。でも、今の世界に存在せず、記憶や記録としてのみ存在している火曜日に左目を失明したというのはどういうことだ。しかも、仲が悪いわけではない義理の家族にその理由も言わずに。
「おう、もういいか? そろそろ行かないと」
「あ、すみません。ありがとうございました」
「それじゃ、もう少しだけバイト頑張ってくれな。それと、俺から言うのもなんだが、葵聖とは仲良くしてやってほしい。あいつ、家や仕事場に友だちを呼んだことなんてほとんどなくてな。俺たちが言っても、実の家族が殺されたことをずっと引きずってるみたいだし。だから、あんたみたいな男が来てくれて、少し安心できたよ。ありがとな」
「い、いえ、こちらこそ。急にバイトをしたいだなんて無理を言ってしまって」
「何、人手は多くて困ることはないからな。それに、あいつの初めての婿候補ができたんだ。それくらい、安いもんだ。あっはっは」
「あはは……」
『お宅のお嬢さん、百合ですよ』とは、さすがに言えない。とりあえず、僕は笑ってその場を誤魔化し、葵聖ちゃんの義理のお父さんを見送った後、改めて仕事場に戻った。