第十三話 『幻覚』
三回目の幻覚を見た次の日の朝、僕は沙祈の家にいた。というのも、昨日は沙祈が僕の家に泊まるのではなく、僕が沙祈の家に泊まらせてもらっていたからだ。まあ、幼い頃からお互いの家を行き来することは珍しくなかったから、沙祈の家もまた僕の家のようなものだった。
今、沙祈は自分の部屋で今日午後から着ていく服を選んでいる。一方で、僕は沙祈の家にある僕用の部屋におり、午前中のことについて葵聖ちゃんと電話していた。
「えーっと……それじゃあ、八時半から十一時半までの三時間でいいかい? 明日は一日働けると思うから」
『……ミズシナがそれでいいなら、それで構わない。……でも、今日はヒサバとデートなんじゃないの?』
「まあ、うん。そうだよ」
『……ワタシから言うことじゃないと思うけど、ヒサバ、ミズシナのことをかなり心配してた』
「知ってるよ」
『……知ってるなら、なおさら――』
「大丈夫だよ、心配いらない。沙祈には、葵聖ちゃんのお家の手伝いをしに行くって言ってあるから」
『……そういうことじゃなくて』
「分かってる分かってる。でもさ、僕としてはやっぱり、恋人の沙祈に何か買ってあげたいって思うのが当然ってものでしょ? だから、少しスケジュールは一杯一杯になるけど、それでいいんだよ」
『……そう』
昨日の夕方、三回目の幻覚を見た後、僕は当然のように、その場にいた三人に心配された。特に、僕が幻覚を見ている最中の状態を以前見たことがある矩玖璃ちゃんと葵聖ちゃんは、初めて見る對君よりも心配してくれているような感じがした。
でも、僕は何事もなかったかのように三人からの心配を振り切り、予定通り葵聖ちゃんにバイトをしたいということを伝えた。突然そんなことを言われて葵聖ちゃんは少し困っていたみたいだけど、どうしてバイトをしたいのか、その理由を言ったらすんなり了承してくれた。
ただ、そうこうしているうちに予想以上に時間が経ってしまっていたらしく、僕が四人で話しているところに沙祈がやってきた。もちろん、すぐに戻ると言った僕に十分以上も待たされた沙祈は、非常に不機嫌になっていた。たぶん、今朝、学校が終わったら夜は一緒にいようといっていたから、その時間が少なくなったことも関係しているのだと思う。
沙祈の機嫌を直すため、僕は咄嗟の思いつきで明日デートに行こうと約束した。一応、沙祈の機嫌は直り、今に至ってもその機嫌は継続されている。しかし、明日は葵聖ちゃんと話をするためにバイトをする予定だったので、それぞれ午前午後に分けてすることになった。
葵聖ちゃんは僕がバイトをすることも、沙祈とデートすることも知っているから、さっきみたいに気を遣ってくれているのだろう。僕の狙いはバイトでお金を稼ぐことじゃなくて、葵聖ちゃんや、場合によってはその家族と話しをするというものだ。だから、多少無理をしてでも、行かせてもらう。
『……正直、うちの会社の人手は足りてるから、ミズシナが無理して来る必要はない』
「無理なんかしてないってば。僕は昨日言った通りの理由でバイトをしたいだけなんだから。それに――」
『……?』
「ああ、いや……実は、葵聖ちゃんと話したいこともあるんだ」
『……話したいこと? ……今話したらダメ?』
「駄目ってこともないけど、葵聖ちゃんだけじゃなくて、ご両親にも聞きたいことがあるからね。そう考えると、電話じゃなくて、直接会って話したほうがゆっくり話せるだろうし」
『……残念ながら、婿入りの話は受け付けておりません。……もちろん、ワタシが嫁入りすることもありません』
「え? 何の話?」
『……違うの?』
「あっ」
ああ、そうか。一瞬葵聖ちゃんが何の話をしているのか分からなかったけど、そういうことか。まあ、それでも、何でそうなるのか不思議だけど。確かに、葵聖ちゃんだけじゃなくてご両親にも話をすると言われたら、結婚の申し込みでもするのかと思ってしまうのかもしれない。もちろん、僕はそんなつもりなんて微塵もなかったわけだけど。
『……違うなら、それでいい。……それ以前に、ワタシにはジビキがいるし、ミズシナにはヒサバがいる』
「ごもっともだね」
『……あと、もしワタシとミズシナが禁断の愛を育んだとしても、ミズシナがロリコン疑惑で捕まる』
「さすがに捕まりはしないと思うけど……というか、そういう自覚はあったんだね」
『……成長途中、発展途上』
「そ、そうだね。僕もそう思うよ」
『……これから大きくなるもんっ! ……さすがに、ヒサバとかツチダテみたいにとまでは望まないけど、予定では、ジビキとかカイホコくらいにはなるはずだもんっ!』
「い、一応、気にしてたんだね……」
いつの間にか、随分と話が脱線してしまっている気がするの気のせいだろうか。いや、最初はバイトの話をしていたのに、葵聖ちゃんの発育状況についての話になってしまっているから、脱線していないわけがないか。まあ、こういう他愛のない会話をするのも楽しいんだけどね。
僕は話を元に戻す意味も込めて、葵聖ちゃんに言った。一方の葵聖ちゃんは余程自分の小柄な体格のことを気にしていたのか、瞳に涙を浮かべて泣きそうになっていた。
「あ、そろそろ家を出るから、ご両親や職場の人たちによろしく伝えておいてもらえるかい?」
『……分かった。……でも、ヒサバのことで急用ができたら、休みたいって連絡してくれていいから』
「最後の最後まで気を遣わせちゃってごめんね。それじゃあ、そういうことで」
『……了解。……またあとで』
そう言って、葵聖ちゃんとの通話が切れ、PICの立体映像が映し出されなくなった。僕は座っていた椅子から立ち上がって部屋を出ると、沙祈がいる別の部屋へと向かった。
「沙祈ー、そろそろ葵聖ちゃんのところに行ってくるから――」
「あ」
ドアを開け、部屋の中を見てみると、そこには着替え中の沙祈の姿があった。しかも、丁度着ていた服を脱いでいたらしく、下着だけを身に付けてスカートが足にかかっている状態だった。一瞬、空気が凍ったような雰囲気になったものの、僕は静かにドアを閉めた。
「ふぅ……」
まあ、僕の家にいるときも、沙祈に家にいるときも、こういうことは日常茶飯事だ。何といっても、同じ屋根の下で住んでいるのだから。それに、お互いの裸は見慣れているし、今さら気まずくなったりはしない。
でも、一緒にお風呂に入るときやベッドの上にいるときとは違い、むしろ、こういうハプニングのほうが恥ずかしくなるのも事実だ。昨日の朝の裸エプロン姿の沙祈がやけにエロく見えたのと同じようなものだ。だから、静かにドアを閉めて、次に話すときは何事もなかったかのようにすればいい。
とりあえず、沙祈に僕が何を言おうとしていたのかは聞こえたと思うし、あとで改めてメールを送っておけばいいだろう。それに、もうすぐ家を出ないと待ち合わせの時間に間に合わなくなる。
そんなことを考えて沙祈の部屋の前を離れようとしたとき、ドアの向こうから沙祈の声が聞こえた。
「逸弛ー。ちょっと来てー」
「……ん? 何だい?」
「ほら、もう入ってきても大丈夫だから」
「あ、うん」
気を取り直して、ドアを開けて再び沙祈の部屋に入る。するとそこには、下着だけを着た状態から着替え、可愛らしい私服を着た沙祈の姿があった。普段学校に着て行っている制服や日常生活で着ている服も充分に似合っているけど、今日着ている服はその中でも際立って似合っているように思える。
十月に着る服にしては少し薄い生地のような気がするけど、それゆえに沙祈の整ったボディラインが目立ち、いつまでも見ていられるような出来に仕上がっている。その大きな胸は強調され、短めのスカートから太股が大胆に露出されている。僕だけでなく正常な性癖を持つ人なら、まず胸や太股に目が行ってしまうことだろう。そして、赤髪や白い肌に合うように、服の色も選ばれている。
しばらくの間、僕はそんな沙祈の姿を舐めるように何度も何度も見回していた。すると、沙祈は少し恥ずかしそうにしながら、心配そうに僕が次に発する台詞を待っていた。きっと、午後からの僕とのデートのときに着ていく服を選んだから、その感想を聞きたいのだろう。僕は本心からの気持ちを言った。
「沙祈は本当に服を選ぶ才能があるね。髪色や肌色に合っていて、可愛い部分を最大限に生かせていると思うよ。やっぱり、沙祈は元々の素材が他の娘とは違うからかな、とっても似合ってるよ」
「そ、そう……? よかった……!」
「うんうん。あ、もしかして、髪留め変えた?」
「え? う、うん、そうなの……どう?」
「そうだね、前のも似合ってたけど、今付けてるのもそれ以上に似合ってると思うよ。着ている服によって、髪留めの印象も多少変わるのかもね」
「そうかも。そういえばさっき、そろそろ行ってくるって言いかけた?」
「ああ、うん。もうそろそろ出かけないと、待ち合わせの時間に間に合わないかもしれない。でも、何だか今は、沙祈の可愛い姿を永遠に見ていたい気分だよ」
「もー、逸弛ったらー。嬉しいけど、葵聖に頼まれてるんでしょ? あたしとのデートは午後からだし、それに間に合うくらいに帰ってきてくれればいいから、行ってきて?」
「まあ、それもそうだね。沙祈がそういうなら行ってくるよ」
「うん、行ってらっしゃい。気をつけてね」
「行ってきます」
そうして、僕は沙祈を一人家に残して、葵聖ちゃんのお家へバイトをしに向かった。一応、待ち合わせの時間には間に合ったけど、僕が働きたくて仕方がないと思ってると勘違いしたのか、葵聖ちゃんは三時間でこなすには厳しい量の仕事を渡してきた。
できるだけ早く仕事を終えて、葵聖ちゃんやそのご両親に話を聞きに行き、それでいて沙祈とのデートに間に合うように張り切った。結局、時間ギリギリでようやく全ての仕事が終わったので話を聞きにいく時間など残されておらず、僕は沙祈の家に帰った。まあ、葵聖ちゃんに話を聞く機会は明日もあるだろうし、それからでいいだろう。
昼ご飯を食べに行くには丁度いい頃、僕と沙祈は久々のデートに出かけた。