第七話 『幻覚』
今の世界には、前の世界やそれ以前の世界とは異なる出来事がいくつも起きている。それは、人間関係や人名に留まることなく、僕が当然だと思っていたことを不自然に変えてしまうほど、日常に大きな影響を及ぼしている。
数分前、沙祈にその不自然なことを聞いて説明を受けたおかげで、大体の状況は分かった。でも、僕としてはやっぱり納得がいかない。『箱』の内側には、どの世界においてもイレギュラーが発生する可能性はあると書かれていた。でも、だからといって、いくらなんでも立て続けにその類の出来事が起きすぎている気がする。
最初からそうなるように決まっていた今の世界に、偶然前の世界の生き残りである僕が送り込まれたのなら、それはそれで構わない。ただ、何事にも原因があるから結果が存在する。つまり、今の世界でイレギュラーな事態が大量発生していることにも、何らかの原因がないとおかしい。
それが何なのかは分からない。当然のことながら、検討もついていない。だけど、焦る必要はない。なぜなら、今の世界のみんなは前の世界のみんなと比べて全体的に仲が良く、とてもじゃないけど殺し合いをするようには見えない。まあ、前の世界のみんなもあんな惨劇を起こしてしまうとは思ってもいなかったわけだけど。
何はともあれ、その事実が僕の肩の荷を多少軽くしているのは事実だ。現に、前の世界やそれ以前の世界では初日の晩に殺されていた赴稀ちゃんは登校しているし、對君が誰かを殺そうとしている気配もない。
僕以前の『伝承者』のみんながどうだったかは分からないけど、こういう状況なら、惨劇を回避しつつ今の世界に起きている異常事態の原因究明ができるかもしれない。
それに、正直なところ、昨晩から現在まで『箱』の内側に書かれていたことのほとんどは役に立っていない。もちろん、みんなの人間関係をはじめとして悩みや過去は大体把握できているし、これから何が起きるかもしれないということにあらかじめ身構えることができているわけだから、まったく役に立っていないというわけではないけど。
九人しかいないのにざわついている教室の中で、僕は一人黙り込みながら考えをめぐらせていた。沙祈も少し前までは僕のことを心配してくれているのか近くにいたけど、今では折言ちゃんたちと話している。他のみんなも、僕に構うことなく日常を送っている。
そろそろ一時間目が始まる頃だ。おっと、その前にトイレに行っておくとしよう。そうして僕は教室を出るために立ち上がり、ふと教室の中を見た。そのとき、僕はあることに気がついた。僕は、一番近くで話していた對君と赴稀ちゃんに話しかけた。
「あ、二人とも、ちょっといいかい?」
「……ん? 何だ、どうかしたのか?」
「えっと、教室の中に矩玖璃ちゃんと葵聖ちゃんの姿が見えないんだけど、どこに行ったか分かるかい?」
「あー、きーたんとくーちゃんなら、さっき二人で保健室に行ったよ。何か、二人とも傷跡につけてるガーゼとか包帯とかを替えに行ったみたい」
「そういえば、海鉾が今朝は時間がなかったから包帯を替える時間がなかったとか言ってたな」
「昨日はお互い夜更かししちゃったからねー、仕方ないねー。それにしたって、さすがの對も一度に二人相手はきついでしょ」
「二人とも俺のことを想ってくれてるわけだから、どちらか片方だけというわけにもいかんだろ。というか、俺のことはともかくとして、天王野が寝坊したのは地曳のせいだろうが」
「レズこそ嗜好」
「お前って、ほんとブレないよな。まあ、体丈夫じゃないんだから、あんまり無理すんなよ」
「分かってるって」
後半の二人の会話を聞き流しながら、僕は考えていた。
今の世界は前の世界やそれ以前の世界よりも開始日が一日ずれている。でも、今日が初日の次の日であることには変わりない。初日の次の日の一時間目開始前に何が起きてしまうのか、僕はそれを知っている。
「ご、ごめん! 僕、ちょっと保健室行ってくるから!」
「え? あ、ああ」
僕は焦りながら二人にそう言うと、少し戸惑っている對君の返答を聞き届けることのないまま、教室を飛び出した。たぶん、そんな僕の姿を、教室にいたみんなは不審に思っていたことだろう。でも、今はそんなことに構っている場合ではない。
初日の次の日の一時間目開始前。九割以上の確率で、矩玖璃ちゃんと葵聖ちゃんは保健室に行く。本来このイベントは、赴稀ちゃんが對君に殺されている現場を見た葵聖ちゃんがそのことを知っていると見抜いた矩玖璃ちゃんが葵聖ちゃんから情報を聞き出すために起きるものだ。
保健室に行った場合、そこでは八割以上の確率で矩玖璃ちゃんが葵聖ちゃんに暴力を振るうことになっている。理由は、赴稀ちゃんの死のショックで気が狂った葵聖ちゃんの態度が気に入らなかった矩玖璃ちゃんが腹を立てたからだ。その後、葵聖ちゃんの生死に関わることがなければ、ほぼ十割の確率で、葵聖ちゃんは矩玖璃ちゃんに知っていることを教え、それなりに穏便に事は終わる。
でも、矩玖璃ちゃんが葵聖ちゃんに暴力を振るった際、約二割の確率でそのまま葵聖ちゃんを殺してしまう場合がある。また、反撃に出た葵聖ちゃんが矩玖璃ちゃんを殺してしまう可能性もそれに近い確率で起きる。
もちろん、今の世界では赴稀ちゃんは死んでいないし、ここまでの様子を見る限りでは矩玖璃ちゃんと葵聖ちゃんは僕が知っているよりも遥かに仲が良く、もしかすると對君も矩玖璃ちゃんの想いに気がついているかもしれない。
確証はないし、今の世界はイレギュラーだらけなのだからこれまでの常識は通用しない。だからこそ、何が起きてしまうか分からない。万が一のために、それがほぼ〇に近い発生確率だとしても、僕はそれを未然に防ぐ必要がある。そうでないと、僕が前の世界で唯一生き残って、『伝承者』に指名されて、こうして惨劇を防ぐために今の世界に来た意味がない。
僕は内心焦る気持ちを抑えられず、廊下を駆ける。階段を何段か飛ばしながら下り、ようやく保健室の前に辿り着いた。そして、一瞬だけ呼吸を整え、すぐに保健室のドアを開けた。
と、このとき、僕は目の前のことに囚われすぎていたあまり、他のことに気を配る余裕がなくなっていた。後々気がつくことにはなるけど、僕が廊下や階段を全力疾走している間、誰ともすれ違わなかったのだ。
本来なら、平日の学校はそれなりに人で溢れ返っていて、あと数分で一時間目の授業が始まるといっても、何人かの生徒や先生とはすれ違ってもおかしくない。それなのに、誰ともすれ違うことなく、誰一人として人の姿が視界に入らなかった。
ただ偶然に、特に何の理由も原因もなく、たまたまそうだったと言われれば、頷いてしまうことだろう。でも、思い出してみてほしい。僕が沙祈と学校に来るときも、街中にはほとんど人がいなかったのだ。それとこれが関係しているかと言われれば難しいところだけど、異常であることには変わりない。
でも、このときの僕はそれらのことに一切気がつくことができなかった。
「矩玖璃ちゃん! 葵聖ちゃん!」
保健室のドアが開かれると同時に、僕は部屋中に響き渡るほどの大声で二人の名前を呼んだ。一瞬後、二人の返事の代わりに、僕の目に真っ赤な惨状が映った。
「こんな……まさか……」
そこには、葵聖ちゃんの頭部を鷲掴みにして、保健室の硬い壁に叩きつけている矩玖璃ちゃんの姿があった。葵聖ちゃんの頭部は頭蓋骨ごと割れて中から血や脳味噌が溢れ出し、矩玖璃ちゃんの顔や制服の前面は返り血で真っ赤に染まっていた。
葵聖ちゃんの体は矩玖璃ちゃんによって壁に押し付けられたままダランと力なく四肢を放り出しており、二人の真下には真っ赤な水溜りができあがっていた。
目の前の惨状を信じられずに唖然としていると、僕の気配に気がついたのか、矩玖璃ちゃんが鷲掴みにしていた葵聖ちゃんの頭部から手を離した。その後、矩玖璃ちゃんは狂ったように笑いながら、僕のほうを向いた。
「どしたの、水科くん。保健室に何か用?」
「え……あ……」
「……? ああ、これ? 何かね、ムカついたから殺しちゃったよ」
「『ムカついたから』って、そんな理由で……!」
「ありゃ? わたし、何か変なこと言ったかな? ムカついたから、気に入らなかったから、殺す。自分にとって不必要な人間は消す。これって、これからの人生を楽しく過ごすためには必要不可欠じゃない? だって、わたしを不機嫌にさせて不利益しか生まない奴なんて、いないほうがいいじゃん。ね?」
「だからって……殺す必要なんかないじゃないか……」
どうしよう……どうしようどうしようどうしようどうしよう……!!!!
僕が、僕が自分のことや今の世界のことを考えすぎて、みんなのことをよく考えていなかったからこんなことが起きてしまった。一瞬でも油断したり、目を離したりするべきじゃなかった。
『箱』の内側には、どの世界においても保健室の先生はこの時間帯に姿を現さないと書かれていた。だから、どれほどの惨状が広がっていても誰も発見できないし、防音設備があるから悲鳴も発狂も聞こえない。『伝承者』である僕はそのことを知っていたのに、友だちグループのメンバーが一人でも欠けてしまうとその世界で惨劇を回避することはできないのに、それなのに……!
これからどうするべきか考えていると、ふと矩玖璃ちゃんの声が聞こえた。
「ああ、そっか。水科くんも、葵聖ちゃんと同じなんだね」
「え……?」
「せっかく楽しく葵聖ちゃんを痛めつけてたところだったのに途中で邪魔して、しかも無駄な時間を使わせてわたしを不機嫌にさせた。つまり、水科くんも、わたしにとって不必要な人間ってことになるよね」
「それって、どういう――」
「だーかーらー、水科くんもそこで肉人形と化した葵聖ちゃんみたいになるってこと。まー、沙祈ちゃんには悪いけど、何か言ってきたらあの子も殺せばいいだけか」
「さ、沙祈に何をするつもりだ!」
「まぁまぁ、落ち着きなよ。まずは、他人のことよりも、自分のことを心配したほうがいいと思うよっ!」
そう言って、矩玖璃ちゃんは僕の頭部を鷲掴みにしてその背後にある壁に叩きつけようとした。
僕がここで死んだら、この世界は今の世界で終わりを迎えてしまう。誰かに『伝承者』としての使命を引き継がせることもできずに、また惨劇が繰り返されてしまう。それだけはだめだ。でも、こうなった矩玖璃ちゃんには、たとえ男の僕でも勝てない。それはもう、腕力とか体力とか、そういう問題を凌駕しているものだった。
失敗した。わずか二日目にして、僕はみんなを助けられなかった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
僕の絶叫が、中心に真っ赤な惨状を作り上げている保健室中に響いた。