第六話 『幻覚』
それぞれ体の一部分に何らかの障害を持っている七人の姿を見て、僕は何も言えなくなっていた。それがこの世界におけるイレギュラーな事態の一つであることは明らかで、理解はできている。でも、何でそうなってしまったのか、何が原因だったのか、まったく検討もつかない。
「お、おい。どうしたんだよ、逸弛」
「……っ!」
ふと冥加君の声が聞こえてくる。顔を上げてみると、そこには僕のことを心配そうに見下ろしている七人と沙祈の姿があった。そうだ、今の世界にとってはこれが当然で、前の世界から来た僕がそう思えないことこそがみんなにとっては不自然なんだ。たぶん、僕がみんなの立場で、誰かが僕の立場なら、そうしていたと思う。
嫌な汗を拭い、いつの間にか崩れていた体をよろよろと起こす。その後、僕はみんなに言った。言い訳をした上で、ある程度この状況を理解するために。
「……あ、あぁ、ごめん。ちょっと、立ち眩みしただけだから、もう大丈夫だよ」
「そうか? 何だか顔色もよくないみたいだし、一回保健室で診てもらったほうが……」
「いや、本当に大丈夫だから……それよりも、みんなのほうこそ大丈夫なのかい?」
「どういう意味?」
「みんなそれぞれ怪我してるみたいだけど、僕なんかよりも治療したほうが――」
「ちょ、ちょっと逸弛っ!」
最後まで台詞を言い終わる前に、僕は沙祈に腕を引かれて、みんなと少し離れた教室の隅に連れて行かれた。そのとき見えたみんなの表情は、何か辛い過去を思い出したかのような、悲しそうなものだった。この段階では、僕はその表情の意味を理解できていない。
僕と沙祈が教室の隅に行くと、さっき登校してきた七人は自分たちの席に座り、適当に近くの席の友だちと話し始めた。それを確認すると、沙祈は少し焦りながら僕に言った。
「逸弛。いったい、何考えてるの?」
「『何』って……何がだい?」
「だーかーらー、みんなの前で怪我のことは口に出さないっていう決まりだったでしょ!?」
「そうだったっけ……いや、そうだったんだろうね」
「……昨日、逸弛があたしの首の怪我のことを聞いたときも何か変だなーって思ってたけど……逸弛、あたしが見てないところで何かあったの?」
「そういうわけじゃないよ」
そんなこと、言えるわけがないじゃないか。この世界は幾度となく繰り返されていて、僕たちは何度も殺し合いをして、僕は前の世界の生き残りで、今の世界は新しく創られたなんてこと。
「ただ……」
「『ただ』?」
「僕にもよく分からないんだけど、少し記憶が変なんだ。沙祈が知ってる限りのことで構わないから、僕の質問に答えてくれるかい?」
「え……う、うん。それならいいけど……」
沙祈は何だか腑に落ちないといった様子で、ひとまず僕の台詞に頷いてくれた。沙祈からしてみれば、僕が原因不明のまま記憶が変ということにさらなる違和感を感じざるをえなくなっていることだと思う。でも、断ることなく答えてくれるのを見る限り、やっぱり沙祈は沙祈なんだと実感できた。
とりあえず、解決しやすそうな問題から順番に聞いていくとしよう。
「まず、沙祈も含めたみんなの怪我のこと。何があったんだい?」
「昨日も言った通り、あたしの首の怪我は昔お父さんに付けられたもの」
「他のみんなのは?」
「折言は、下半身不随で両足の感覚がないから、機械の力を借りて移動してる。矩玖璃は、左腕が複雑骨折して以来元に戻らないから、未だにギプスを付けてる。赴稀は、内臓のほとんどに傷が入ってるらしくて、昔からあんな感じ。霰華は、心臓が弱いみたいで、左肩から左胸にかけて普段から保護してる。葵聖は、昔工具で左目が抉り取られたみたいで、ずっと眼帯してる。冥加は、右半身不随で右腕と右足の感覚がないから、杖を突くときもある。木全は、頭に酷い傷跡があるって言ってたから、それを隠すために包帯してる……って、そろそろ思い出した?」
「……ああ……そうだったね」
「あたしはみんなの怪我のことは大体知ってるけど、その原因まではあんまり分からないから。あと、いくら記憶が変になってても、さっきみたいに聞いて、みんなのことを傷つけちゃだめだからね?」
「……分かった」
みんなの怪我は沙祈みたいに表面的なもので、その機能までは影響していないと思っていた。でも、沙祈の話を聞く限りではそうじゃない。遷杜君は傷跡を隠してるだけらしいけど、みんなそれぞれその機能に何らかの影響が出ている。特に、對君、誓許ちゃん、赴稀ちゃんは普段の生活に影響が出るどころか、場合によっては命に関わる問題じゃないか。
この先のことも聞きたいけど、沙祈はよく知らないと言うし、聞かないようにと釘を刺されたから聞き辛い。たぶん、あのみんなのことだから僕が聞けば嫌な顔一つせずに答えてくれると思うけど、やっぱり、できることなら友だちを傷つけたくない。聞くとしても、しばらく時間を置いてからにしよう。
あと分かってないのは、座席が十個あるのにクラスメイトが九人しかいないこと、折言さんという人物のことくらいかな。数十秒間を開け、僕は続けて聞いた。
「次の質問いいかい?」
「うん」
「僕らのクラスは九人だけなんだよね? それなら、何で座席が十個あるんだい? 転校生が来るわけでもなさそうだし、先生用なんてこともないよね?」
「……あ……それは……」
僕がそう聞いただけで、一瞬のうちに沙祈の様子が変わった。沙祈は、何か目の前の事実から目を逸らそうとしているかのような目をしながら、七人が座っているほうを向いた。そして、一度だけ大きな溜め息を吐いた後、ようやく口を開いた。
「ほら、そこの席見て」
「『そこの席』?」
沙祈が指差した通り、その方向を見る。十個の座席のうち、七個は埋まっている。そして、列の前のほうに空いている席が二つ。たぶん、その席は僕と沙祈の席なのだろう。
沙祈が指差しているのは、窓側の一番後ろの席。ポツンと周囲の空間から取り残されたような、切り離されたような、寂しい席があった。沙祈は僕がその席を見たのを確認すると、続けた。
「あの席には、折言の妹がいたの……」
「妹? あ、ちょっと待って。その前に、『折言』さんって誰?」
「逸弛、そんなことも忘れちゃったの? 折言……つまり、土館折言。あたしたちの友だちでしょ?」
「土館折言……? それじゃあ、土館誓許ちゃんは……?」
「……? 初めて聞いた。そんな人いたっけ?」
「いや、僕の勘違いならそれでいいんだけど……つまり、あの席に座ってたのは、その折言ちゃんの妹だったと」
「そゆこと」
待て待て待て待て。今度は何だ。今の世界には誓許ちゃんがいなくて、その代わりとして折言ちゃんがいる……? いや、あの外見や性格、話の流れからしても、今の世界にいる折言ちゃんというのは僕が知ってる誓許ちゃんと同一人物で間違いないはずだ。改名したという話も聞いたことがないし、今の世界では誓許ちゃんは最初から折言ちゃんだったということになる。
そして、そんな誓許ちゃん……じゃなくて折言ちゃんには妹がいる……? 僕が知ってる誓許ちゃんには妹なんていなかったはずだけど、それは誓許と折言という名前の違いから、何かが変わってしまったってことなんだろうか。いやいや、名前が変わったところまではイレギュラーの許容範囲だけど、さすがに家族関係まで変わるなんてことがあったら、いくらでもイレギュラーが発生するということじゃないか。
どちらにしても、土館誓許ちゃんが土館折言ちゃんになっていて、彼女には妹がいて同じクラスだった、なんてことは『箱』には書かれていなかった。そう、『書かれていなかった』んだ。イレギュラーな事態がまたしても発生したことに変わりがない。
誓許ちゃんの名前が変わっていることを今の世界の沙祈が知っているわけがない。それに、何で彼女に妹がいるのかという問いに答えられるとも思えない。仕方ない、彼女の妹について聞いていくとしよう。あと、これからは誓許ちゃんのことは折言ちゃんと呼んだほうがよさそうだ。
「えーっと、誓……じゃなくて、折言ちゃんの妹のことなんだけど、僕たちのクラスメイトなんだよね? 何で学校に来てないんだい?」
「……死んだからよ」
「え……?」
「死んだから。去年、病気で」
「病気……? 何の……?」
「折言からは病気だとしか聞いてないから、それ以上は何も知らない。でも、生まれたときから内臓全般が不自由で、いつ不治の病にかかっても不思議じゃないって診断を受けてたのは聞いたことがある」
「そう……だったのか……」
「……、」
「それで、その子の名前は何と言うんだい……?」
「土館午言。お姉ちゃんの折言とは双子の姉妹で、昔っから仲が良かったみたいよ」
「ありがとう、色々聞いちゃってごめん。だいぶ記憶は元に戻ってきたから」
「うん……」
沙祈にそう言って、僕がそれらのことを聞いたのを誤魔化しておいた。それにしても、『土館午言』ちゃんとは、どういう人物だったんだろう。そもそも折言ちゃんに妹がいたなんてことを知らない僕からしてみれば、まったく検討もつかない。
それに、まさかもうこの世にいないなんて予想できなかった。もしかして、前の世界までの折言ちゃんにも妹はいたけど、すでに亡くなっていたから知らなかっただけなのかもしれない。それなら、家族関係の改変は起きていないし、イレギュラーだったのは名前が変わっていること、午言ちゃんがクラスメイトだったことくらい。
……ん? 『折言』と『午言』って、組み合わせると『誓』と『許』になるような……まあ、だから何だという話ではあるけど、何か関連性がありそうだ。一応覚えておくとしよう。
僕は沙祈から聞いたこと、それによって分かったことを頭の中で整理し、あとでPICのメモ帳に記録しておくことにした。その後、沙祈と一緒に自分たちの席に行き、座った。