第三話 『幻覚』
「……んぁ……っ」
何か柔らかくて暖かいものが手に触れている感覚とともに、よく知る女の子の可愛らしい声が聞こえてくる。僕はそれによって目を覚まし、すぐさま布団を跳ね除けて起き上がった。
光がほとんど差し込んでこない真っ暗な部屋の中、僕たち二人はベッドの上で一緒に寝ていたらしい。全裸の僕のすぐ隣には、同じく服を着ていない沙祈の姿がある。沙祈は僕が目を覚ましたことに気づいていないみたいで、無防備な寝顔を見せながら、可愛らしい寝息を立てている。たぶん、さっき触れた柔らかくて暖かいものは沙祈の胸だったのだろう。
「あぁ……そうか……」
普段は左寄りに結わえられている沙祈の赤い髪は、今は解かれてストレートになっている。僕は起こさないように、優しく沙祈の髪を撫で、ベッドを抜け出した。その後、すぐ近くにあった適当な服を羽織って、思い出す。
そうだ。僕はこの狂った世界から、みんなを助け出さなければならない。それは……僕が一つ前の世界であの惨劇を経験した『伝承者』だから。もう二度と、あんな惨劇を繰り返してはならない。僕自身のために、みんなのために、そして、沙祈のこの笑顔を守るために。
前の世界では、葵聖ちゃんがみんなのことを殺し続け、沙祈さえも殺した。僕は目の前で沙祈が消し炭になっていく光景を見せられ、怒りのあまり葵聖ちゃんを殺してしまった。最終日、霰華ちゃんからこの世界の秘密について伝えられ、『伝承者』の使命を果たすため、僕は今の世界に来た。
霰華ちゃんからこの世界の秘密のことや『伝承者』のことについて聞いているときは半信半疑だったけど、まさか本当に次の世界に来ることができるとは思ってもいなかった。何も知らない沙祈がこうしてすぐ傍にいてくれるだけで嬉しくて、泣いてしまいそうだけど、そんなわけにはいかない。
僕は『箱』の内側に書かれていたみんなの記憶を頼りに、これから惨劇を回避しなければならない。
僕たち友だちグループの九人によって引き起こされる惨劇には、どの世界でも共通する、一定の法則がいくつかある。それは、どの世界でも『對君が惨劇の起点』となり『自分が伝承者であることを彼に悟られるとその時点で僕たちの物語は終わる』ということ。
他には、『初日の晩に赴稀ちゃんが殺されること』、『赴稀ちゃんは死ぬ間際に謎のメールを残すこと』、『九日間で七人が死亡すること』、『一連の事件は同一犯の可能性が高いこと』、『個人によって殺人方法が異なること』などが挙げられる。
それ以外にも、後々の展開に大きく影響する部分やそうでない部分まで。僕たちの行動の一つ一つの選択によって、誰がどう感じて何をするのかまでが事細かく『箱』の内側には書かれていた。そこに書かれていた全て……とまではいかないけど、大体は記憶してある。PICで写真を保存できればよかったけど、『箱』の内側ではPICの機能は一切使えなかったから仕方ない。
さて、前の世界での経験と『箱』の内側に書かれていたことによると、あと三十分くらいで赴稀ちゃんから謎のメールが送られてくるはずだ。でも、それではもう手遅れで、この世界での全員の救済は不可能になってしまう。僕たちは九人で一つ、誰かが一人欠けた時点で結末は決する仕組みになっているみたいだから。
ひとまず、どの世界でもなぜか初日の晩に赴稀ちゃんを殺す役割を担っている、對君に連絡をしてみよう。さすがに、事件までにまだ猶予がある段階で電話に出られないなんてことはないだろうし、電話をしながら赴稀ちゃんを殺すなんてことはできないはずだ。
振り返って、『すーすー』と寝息を立てている沙祈の寝顔を見る。僕が『伝承者』であることは、沙祈だけでなく他の誰にも悟られるわけにはいかない。僕としては、ぐっすり寝ている沙祈を起こしたくないという思いで、静かに部屋を後にした。
そういえば、今日は沙祈が僕の家に泊まりに来た日だった。たった九日前の話だというのに、随分懐かしく感じられる。それだけ、前の世界での惨劇は僕に精神的なショックを与え、僕は平和な日常をこれほどまでに取り返したいと願っていたのだろう。
それにしても、僕は『箱』から出た記憶がないのに、何で沙祈の隣で寝ていたんだろう。『箱』の中で寝ていたわけではないし、気絶した感じもしない。それなのに、どうしていつの間にか移動させられているのか。まあ、『箱』の内側にも『箱』について分かっていないことは多いと書かれていたし、これもそのうちの一つなのかもしれない。今はそれよりも、對君に連絡するほうが先決だ。
リビングの灯りを点け、適当な椅子に座り、PICを起動させる。對君に電話をかけ、十数秒後、立体映像の画面上に對君の顔が表示された。對君の後ろからは、何やらガヤガヤと賑やかな音が聞こえている。
『よぉ、逸弛。どうしたんだ? 今日は火狭と一緒にいるって要ってなかったか?』
「え? ああ、うん」
そんなこと言ったっけ。まあいいや。
「それよりも對君。今どこにいるんだい?」
『……? おかしなこと聞くやつだな。昼間も言ってた通り、俺んちにいるぞ』
「そうなんだ、それならよかった。あと、これから家の外に行く予定ってある?」
『さぁ、どうだろうな。今のところはないが、もしかすると後でまた買い出しに行く必要が出てくるかもしれないな。この調子だともうすぐなくなりそうだし』
「買い出し……? 對君は今、自分の家にいるんだよね?」
『ああ、そうだが。それがどうかしたのか?』
「そういえば、さっきから後ろのほうが騒がしいけど、家に誰か来ているのかい?」
『おいおい、逸弛。何か会話が噛み合わないと思ったら、寝惚けてるのか? 今日学校で言ってた通り、今晩は俺の家に集まって遊ぼうって話になってただろ? それで、逸弛と火狭、遷杜と金泉はそれぞれ先に予定が入ってたから、俺たち五人で――』
對君の家に集まって遊ぶだなんて話、初めて聞いた。僕が経験した前の世界ではこんなイベントは起こらなかったし、『箱』の内側にも書かれていなかったはずだ。それなのに、これはいったい、どういうことなんだろう。
今までの世界で、一度たりとも例のないイベント。何か決定的な致命傷になりうることが起きそうには思えないけど、何かがおかしい。そして、初日の初っ端から、こんなイレギュラーに遭遇するなんてどうなっているんだ。半ば苛々しながらもそれを表情に出さないようにして、僕は對君のほうを見た。
『……ミョウガー。……いつまでこんなところで突っ立ってるの。……早く戻ってきてくれないと、ゲームの続きができないでしょ』
『ああ、悪い。もう少ししたら戻るから、みんなと一緒に待っててくれ』
『……分かった』
「……………………え?」
對君の左腕に軽く抱き付き、對君と会話していたのは葵聖ちゃんだった。僕と沙祈、遷杜君と霰華ちゃん以外の四人は對君の家に行っていると聞いていたとはいえ、僕にとってその光景は軽く恐怖を覚えるほどのものだった。
對君と葵聖ちゃんはどの世界においても『主犯』になる可能性がずば抜けて高く、二人はほとんどの世界で殺し合いを経験している。葵聖ちゃんの口数が少ないこともあるのか、二人があんな風に仲良く楽しそうに会話しているところはあまり見たことがないし、珍しいという言葉では足りない。何なんだろう、この違和感は。
僕は葵聖ちゃんの左目に眼帯が付けられていたことを気にも留めず、少し驚いたような表情をしながら、立体映像を眺めているしかなかった。すると、今度は遠くのほうから誓許ちゃんの声が聞こえてくる。
『冥加君ー、はーやーくー』
『悪いな、逸弛。みんなが呼んでるからもう切るぞ?』
「う、うん、こっちこそごめん。タイミングが悪いときに電話しちゃったみたいで」
『いや、大丈夫だ。それじゃあな』
「あ、ちょっと待って對君」
『何だ?』
「今日から明日にかけて、對君も他のみんなも、学校に行くまで絶対に家の外に出ないでほしい」
『構わないが……何でだ?』
「ごめん。今はその理由を説明できないんだ。でも、いつか話せるときが来るかもしれないから、今は僕に従ってほしい」
『……? よく分からんが、分かった。家の外に出なければいいんだな』
「うん。あと、對君も含めてそこにいるみんなの間で何かトラブルがあったら、すぐに僕に連絡してほしい。些細なことでも、どうでもいいようなことでも構わないから」
『りょーかい。それじゃ、また明日』
「また明日、学校で」
そう言って、對君との通話が切れた。その瞬間、全身を強烈な疲労感と脱力感が襲い、深い溜め息を吐く。とりあえず、色々とイレギュラーな事態はあったけど、これで何とかなるはずだ。
對君に『家の外に出ないように』と釘を刺しておくことで、對君のもう一つの人格は人工樹林で赴稀ちゃんを殺しにくくなるはずだ。それなら對君の家で殺人が起きるのかといえば、そんなことはないはずだ。今對君の家には對君と赴稀ちゃん以外に三人の友だちがいて、さっきの様子を見ている限りでは、對君はその相手をするのに時間を取られている。そんな中で赴稀ちゃんを殺せるとは思えない。
それに、『トラブルがあったらすぐに連絡してほしい』と言っておいたから、何かあったら僕に連絡が入るはずだ。對君のことだから、僕からの電話の内容をある程度はみんなに話すはず。もし對君のもう一つの人格が時と場所を考えずに今までの法則通り動くなんてことがあれば、他の三人が僕に連絡をしてくれると思う。駆け付けて間に合うかは微妙なところだけど、何もしないよりは、保険をかけておいたほうがいい。
さて、あとは遷杜君と霰華ちゃんに電話をかけておくべきだろう。この状況で、僕と沙祈はともかくとして、對君の家にいる五人の動きは縛ることに成功した。あとは、今のところ状況が分からないあの二人に電話をするほかない。
遷杜君と霰華ちゃんは初日に、各世界の『伝承者』から電話がかかってきやすい人物だ。今の世界の『伝承者』である僕もそのうちの一人になるんだと思うけど、確かに、口が堅そうだから相談しやすいのは分かる。相談した結果、質問したことが解決されるかどうかは別として。
そして、僕は遷杜君に電話をかけた。