第二話 『恋人』
沙祈のお父さんの怒号と沙祈の泣き声を聞いた僕は、瞬間的に嫌な予感を察知して、迷うことなく、靴を脱ぐことすら忘れたまま沙祈の家に駆け込んだ。
僕はしばらく沙祈と顔を合わせておらず、連絡は繋がらず、家の鍵は開いている。そして、何か尋常ではないことが起きてしまっていることを暗示する、二人の声。心臓の鼓動が高鳴り、嫌な汗をびっしょりとかきながら、僕はその声がした部屋に辿り着いた。
そこには、沙祈に暴力を振るっている、沙祈のお父さんの姿があった。しかも、沙祈は衣服を纏っておらず、着ていたと思われる下着まで全ての服はボロボロの状態で床に散乱していた。幼い沙祈の白い柔肌には無数の赤い蚯蚓腫れのような痕があり、沙祈の顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。
僕が沙祈と顔を合わせていない間に何が起きていたのか、すぐに分かった。もちろん、当時小学生の僕は『沙祈のお父さんが沙祈に暴力してる』というところまでしか分からなかったわけだけど、沙祈はそれ以上の、もっと酷いことをされそうになっていた。僕が沙祈の家に来るのがあと少し遅ければ、沙祈はどうなってしまっていたのか。考えたくもない。
全裸にされ、全身を痛めつけられていた沙祈を見た僕は、自分の中で何かが切れたのを感じた。そして、沙祈をあの悪魔から助けるべく、その背中に力づくで体当たりした。普段なら小学生がどれだけ力を込めて体当たりしたところで大人が倒れるとは思えないけど、真後ろから不意を突いてしたからなのか、悪魔はその部屋の壁に叩きつけられた。
僕は沙祈に声をかける。しかし、沙祈には僕の声が聞こえていないらしい。沙祈は頭を抱えて体を小さく丸めて、ただただ『ごめんなさいごめんなさい』と言うばかり。沙祈の心は完全に閉ざされてしまい、それによって、沙祈がどれほど酷いことをされていたのかを察した。
早くしないと沙祈のお父さんが起き上がって、今度は僕まで暴力されるかもしれない。いや、僕はどうなっても構わない。今はただ、沙祈をこの場から遠ざけて、助けないと。僕に残された唯一の大切な人であり、一生傍にいたいと思える女の子を。
その一心で、僕は床に散乱している沙祈の服を適当に拾った後、怯えながら震えている沙祈の手を引いた。そして、沙祈の顔を半ば強引に上げさせ、僕は言った。『僕はこの命に代えてでも、君のことを守り続ける。何があっても、どんなことが起きても。だから、今は逃げよう』と。
僕の台詞によってようやく意識が現実世界に戻ってきたのか、沙祈の瞳に光が戻っていくのが分かった。その後、沙祈は痛みや絶望による涙ではなく、嬉しさや希望による涙を流した。まだ声を出すことはできないみたいだったけど、僕からしてみれば、沙祈のその反応だけで充分だった。
そのときだった。何の前触れもなく、僕の体が真横に吹っ飛び、部屋の壁に叩き付けられた。薄らいでいく意識の中、沙祈の声が聞こえてくる。どうやら、沙祈のお父さんが体勢を立て直して、僕の体を蹴り飛ばしたらしい。
体中の骨が折れたんじゃないかと思えてしまうほど、全身に強烈な痛みが走る。このままだと、僕は沙祈を助けられない。誰が何と言おうと、この世界がどれだけ非情でも、僕だけは絶対にそんな結末を望まない。
火事場の馬鹿力と言うべきか、そんなことを考えていると、自然と全身から痛みが引いていくのが分かった。今はただ、沙祈を助けられればそれだけでいい。どんなことをしてでも、沙祈を助けなくちゃいけない。すると、どこから拾い上げたのか、僕の右手には一本のナイフが握り締められていた。
これを使えば、沙祈を助けられる。その後に僕がどのような罰を受けることになるのか考えもせずに、気がつくと、僕はそのナイフを構えて沙祈のお父さんに向かって走り出していた。
一瞬後、ナイフは沙祈のお父さんの腹部に突き刺さり、そこからドボドボと真っ赤な血液が溢れ出てきた。大量の血を目の当たりにした僕はようやく正気を取り戻し、自分が何をしてしまったのか理解した。
ナイフから手を離してよろよろと後ずさりする。沙祈のお父さんは苦しそうにナイフを引き抜き、その場に崩れ落ちた。いくら沙祈を助けるためとはいえ、いくら沙祈に酷いことをした人とはいえ、僕は取り返しのつかないことをしてしまった。
そう思った矢先だった。
ふと顔を上げてみると、そこには傷口から血を流しながら立っている沙祈のお父さんと、見覚えのない人物が立っていた。その見覚えのない人物は手に鉄パイプのようなものを持っており、沙祈のお父さんのことを睨み付けていた。
直後、沙祈のお父さんは僕に刺されたナイフを構え、その見覚えのない人物に向かっていった。ナイフが突き刺さり、鉄パイプのようなものが振り下ろされる。数分後、そこには血の海の中に沈む、二人の姿があった。
後々分かったことだけど、このとき現れた見覚えのない人物の正体は、一年くらい前に倒産した無名の会社の社員だったらしい。どうやら、沙祈のお父さんはそれなりに有名で規模の大きい会社の上層部で、その会社のせいで自分の会社が倒産したと思い、上層部である沙祈のお父さんに復讐しようと目論んでいたのだという。
沙祈のお父さんが働いていた会社の影響で経営状況が悪化して潰れた会社は数知れず、その中には僕の父さんが起こしていた事業も含まれていた。母さんはこのことを知っていたのか分からないけど、もしかすると、それなりに裕福な暮らしができるほど稼いでいた沙祈のお父さんと再婚することで、楽をしようとしていたのかもしれない。まあ、母さんはもういないから、真相は分からないけど。
沙祈のお父さんは裏で法律に触れそうなこともしていたらしく、いつ命を狙われてもおかしくない状況だったという。そんな状況で愛する妻を亡くし、再婚相手を失い、ついに耐え切れなくなって沙祈に手を出してしまった。それは許されることではないけど、少しだけ同情する。
それで、僕にナイフで刺されたことで瀕死状態にあった沙祈のお父さんは、家に上がってきた見覚えのない人物が自分を殺そうとしているのがすぐに分かったのだろう。だから、僕や沙祈だけでも助けるために、その人物と対峙した。
こうして、僕と沙祈は両親を失い、それぞれの両親の遺産を引き継ぎ、生活保護を受けることによって、辛うじて生きられる生活を始めた。沙祈にも親戚はいたみたいだけど、沙祈の両親の話はすでに親戚中に広まっており、その娘である沙祈を引き取ろうと思う人はいなかった。
それからというもの、僕は沙祈の家へ、沙祈は僕の家へ、今まで以上に頻繁に遊びに行くようになった。というよりは、ほとんど同棲と呼んでしまっても過言ではないだろう。僕も沙祈も相手の家に毎日のように泊まりに行くのはもちろんのこと、合鍵を作り、暗証番号を教え合い、自由に行き来できるようにした。
父親から酷い虐待を受け、両親を失い、親戚からも見放された沙祈は、少しの間だけ心を閉ざしていた。話しかければ答えてくれるけど、その言葉に感情はこもっておらず、それ以外の場面では切なそうな表情をしていた。
僕はそんな沙祈のことを元気付けるべく何度も声をかけては、小学生らしく遊んだ。そうしているうちに、いつの間にか沙祈は元気を取り戻し、僕がよく知る、今の沙祈になった。
ただ、おそらく父親から酷い虐待を受けたせいだとは思うけど、沙祈は今まで以上に人見知りになってしまった。街中で歩いているときも、学校でクラスメイトに話しかけられたときも、すぐに僕がいるところに来て後ろに隠れて様子を伺う。そんな感じだった。
特に異性に対しては警戒度を高めており、話しかけられただけで問答無用に殴りかかったり、罵倒したりしていた。そんな有様だったとはいえ、僕に対しては今まで通り一人の女の子として接してくれて、それでいて頼りにしてくれていることに、僕は喜びを感じざるを得なかった。
まあ、中学生の頃にクラスが別々になったとき、授業中に男性先生に指名されただけで僕のクラスに走ってきたのはさすがに驚いたけど。そういえばあの後から、僕と沙祈は問題児呼ばわりされるようになって、二人だけの特別学級に移されたんだっけ。今になって思えば、あれもいい思い出かな。
そんな僕たちは共同生活をし続け、流れるように時間は経っていった。僕たちもついに高校生だ。担任の太陽楼仮暮という難しくて珍しい名前の先生には事情を説明してあるから同じクラスにしてくれると思うけど、いつまでもこのままではいけない。
そう考えた僕が思いついたのは『沙祈に何人か友だちを作ってあげて、この人見知りを自然に治そう』というものだった。もちろん、沙祈にそんなことを話せば反対するのは分かっていたので、表向きは『せっかく高校生になったんだから、楽しい遊び仲間を作ろう』ということにしておいた。
高校生になってクラス分けが終わった後、僕はすぐにそれに取り掛かった。できれば、グループの中心になりやすい統率力がある人や、誰にでも気軽に話せる優しい人は避けておきたい。そういう人は僕がわざわざ声をかけるまでもなく、勝手に声をかけてくれるだろうから。だから、どちらかといえば、あまり人付き合いが上手そうではない、少し異質な雰囲気を放っている変わった人のほうがいい。
その結果、僕は条件に合う五人のクラスメイトを選んだ。
冥加對君という、人に対して恐怖心を抱いていそうな男の子。木全遷杜君という、何とも近寄りがたい雰囲気を放っている男の子。海鉾矩玖璃ちゃんという、どう見ても無理して明るく振舞っている女の子。地曳赴稀ちゃんという、おかしな言動が多い女の子。金泉霰華ちゃんという、いつも一人で何かをしている女の子。
五人は僕が話しかけると快く友だちになってくれると言ってくれた。しばらくすると、霰華ちゃんが天王野葵聖ちゃんという、暗い印象を受ける女の子を連れてきて、土館誓許ちゃんという、人付き合いはよさそうだけど何か違う女の子が声をかけてきた。
どうやら、誓許ちゃんは對君に一目惚れしたらしく、それで僕がクラスメイト数人を集めているのを聞きつけて声をかけてきたらしい。僕も友だちとして、誓許ちゃんからの相談に快く応じた。對君も誓許ちゃんに気があるみたいだし、そのうち二人がくっ付いてくれれば、友だちの僕としても嬉しい。
その後僕は、僕と沙祈に加えて、新しく友だちになってくれた七人を『友だちグループ』とした。僕たちはすぐに打ち解けて、よく集まったり遊びに出かけたりする仲になれた。沙祈の人見知りも少しずつよくなっているみたいで、最初は僕の後ろに隠れていたけど、いつの間にか自然に話せるようになっていた。
そして、友だちグループを結成して約半年後、今から約一年前、僕は沙祈に告白された。それはつまり、沙祈が僕のことを昔からの幼馴染みとしてではなく、一人の男として見てくれた証だった。いつか僕のほうから言おうと思っていたけど、まさか沙祈のほうからそんなことを言われるなんて思いもしなかった。
沙祈に告白された僕は、改めて沙祈のことを一人の女の子として認識した。沙祈の肌は透き通るように白く、同級生と比べてみてもずば抜けてスタイルがいい。もういっそモデルにでもなったほうがいいのではないかと思えるほど胸が大きく、腰にはくびれがある。
このとき、ようやく僕は今まで自分が沙祈に対して抱いてきた感情が愛だと知った。僕はこの女の子のことを自分の命に代えてでも守り続けたい。そして、この女の子を他の誰にも渡したくない。僕だけのものにして、永遠に独り占めしていたい。
僕は沙祈からの告白に『僕もだよ』と返事をした。沙祈はその場で嬉し涙を流し、僕に抱きついた。その晩、僕はもっと沙祈のことを知りたい、愛したいという一心で、沙祈を抱いた。