第二十六話 『姉妹』
ディオネが家の外に出たのを確認すると、私はすぐに体を起こし、廊下を抜けてリビングのほうへと向かった。お母さんにディオネのことを聞くために。そう、私はお母さんに『ディオネは私にとってどういう存在なのか』を聞く。そして、確かめる。
私が着いた先のリビングは真っ暗で人の気配はしなかった。お母さんは時折ここで仕事をしていることがあるから今日もそうだと思っていたけど、どうやら違ったらしい。さっきディオネが家の外に出たのを確認したときにお母さんの靴があるのを見ているから家にはいると思うけど……というか、帰ってきてからずっと考え事をしてたからお母さんがいつ帰ってきたのか全然気がつかなかった。
誰もいないリビングから少し歩き、お母さんの部屋へと向かう。そこに近づくにつれて、よく見てみるとかすかに灯りが漏れてきているのが分かった。
これから私は、お母さんにこれまであえて聞かないようにしていたことを聞こうとしている。それはお母さんを傷つけてしまうかもしれないし、逆にまったくの検討違いなことなのかもしれない。どちらにしても、私の身に何かが起きた、とお母さんは心配することだろう。
これ以上お母さんに心配をかけて負担を増やしたくないのは、今でも変わらない。そう思っていると、心臓の鼓動が高鳴り、息が荒くなってくる。でも、チャンスは今しかないんだ。この機会を逃せば、もう一生このことを聞けないような気がする。そしてそれは私に大きな後悔を生むと同時に、何か大切なものさえ失ってしまうきっかけになる気がする。だから、お母さん、今回だけはごめんね。
お母さんの部屋のドアの前に立ち、深呼吸をして呼吸を整える。よし、もう大丈夫だ。
そうして、私はお母さんの部屋のドアを開けた。
「お母さん。少し話があるんだけど……」
「あら、誓許。もう具合はよくなった?」
「具合?」
そこには、私がよく知る優しいお母さんの姿があった。どうやらお母さんは仕事中だったらしく、何やら忙しそうにいくつものタブレットを操作していた。
お母さんの言葉に私が首を傾げると、お母さんは手に持っていたタブレットを机に置き、私のほうに近づいてきた……と思った直後、今度は手の平を私の額に軽く当ててきた。
「んー、誓許ったら帰ってきてからずっと寝ちゃってたから、てっきり頭でも痛いのかと思ってたけど……うん、熱はないみたいね」
「え、えっと……『帰ってきてから』……?」
「……? もしかして、お母さんが家にいたこと気がついてなかった?」
「え」
「いやー、お母さんもよく分からないんだけどね。今日は何でか時間通りに仕事場に来る人が少なくて、しかも連絡もつかなくて仕事にならないからって、急遽午前中で切り上げることになったのよー。まあ、その分本来午後からするはずだったお仕事を持って帰ってくるはめになったんだけど……」
「へ、へー、そうだったんだー……」
「本当、不思議なことってあるものねー。一日に何百人も無断欠勤するなんてこと、先輩方も初めてだーって言ってたしー」
そうだったんだ。私がディオネについての考え事で集中し過ぎていたからじゃなくて、急遽午前中で仕事を切り上げることになったから、お母さんは私よりも早く家に着いていた。だから、お母さんが帰ってきたかどうかなんて分かるわけもなかったということだった。
というか、お母さんもそれならそうと起こしてくれてもよかったのに……いや、ディオネはお母さんが家にいることを知っていただろうから、さっき話したときに教えてくれればいいものを……。
それにしても、仕事にならないほど大勢が無断欠勤したなんて、お母さんも言っていたけど珍しいと思う。そういえば、今日は私のクラスでも欠席している人が何人かいたし、自習になった授業も多かったっけ。無断欠席・無断欠勤が流行ってるのかな? 流行ってほしくないけど。
お母さんは私の額から手をどけると、私の顔を見てにっこりと微笑んだ。お母さんのその笑顔を見ると、何だか私まで元気になって嫌なことを全部忘れられそうだった。
「そういえば、さっきお風呂に入っていたみたいだけど……何で制服着てるの? 着替えならまだあったはずだけど――」
「あー、いや、その……こっちのほうが落ち着くから……?」
「お母さんに聞かれても困るんだけど……誓許がそれでいいなら、お母さんは構わないわ」
『ディオネがお風呂に入ってました』とは言えない。まだディオネの存在そのものをお母さんに言うには早い。いくら時間がなくて急いでいるとはいえ、話の流れを掴んで、お母さんが言いやすい雰囲気を作ってからじゃないと。
「それと、誓許はぐっすり寝ちゃってたみたいだから起こさなかったけど、もうこんな時間だし、お母さんは先にお夕飯食べちゃったからね。一応、誓許の分と思って作ったのは保存してあるけど」
「あ、うん。ありがと。あとで食べるね」
「食欲なかったら無理して食べなくてもいいのよ? お母さんにとっては、誓許の健康が一番大事なんだから」
今の今まで忘れていたけど、お母さんに言われて気がついた。まったく食欲がない。というよりは、脳が栄養補給よりも大事なことを目の前にしているから、そっちのほうに意識が行っているといったほうが正しいのかもしれない。どちらにしても、お母さんがせっかく作ってくれたんだからあとで食べよう。
「……それで、誓許が言いたくなければ言わなくてもいいんだけど……学校で何かあったの……?」
「……っ」
「辛いことや悲しいことがあって、そのせいで思い悩んでいるなら、お母さんに相談して? 心配をかけるだとか、迷惑だとか、そんなことは考えなくていいから。誓許が思い悩んでいるほうが、お母さんは心配だから……ね?」
「お母さん……」
お母さんにとって、今の私は『思い悩んでいる』ように見えたのだろうか。たぶん、お母さんの言う通り、今の私は『思い悩んでいる』のだろう。それは間違いないと思う。お母さんができる限り気を遣ってそう言ってくれているのも分かる。
でも……こんなに優しいお母さんのことを傷つけてしまったもいいものだろうか。いくら今しかチャンスがないとはいえ、どうしても聞いておかなければならないこととはいえ、それでも――、
「お母さん。一つだけ、相談……というよりは質問してもいい……?」
「うん、何?」
優しく微笑みながら私の次の台詞を待っているお母さんの顔を見ると、罪悪感から泣きそうになってくる。しかし、私は心の中でグチャグチャに混ざり合う様々な感情を押し殺し、ついに意を決した。
「私のお父さんにあたる人のこと……そして、私に妹がいるのかを……教えて」
「……!」
私がそう言うと、お母さんは心底驚いた表情をして、信じられないといった様子で私のほうを見ていた。その表情は、私が私のお父さんにあたる人のことを聞いたことによってもたらされたものではなく、私が『妹』という存在を初めて口に出したことに対しての驚きなのだということはすぐに分かった。
お母さんの心を傷つけてしまったと同時に、何か核心に迫ることができるかもしれないという明確な手応えを、私は感じていた。十数秒間、その場に沈黙が訪れる。そして、お母さんは私にそのことをどう伝えるべきなのか考え終わったらしく、堅く閉ざされていた口を開いた。
「誓許がどうしてお母さんにそのことを聞いたのか、どうしてそのことを知りたがっているのか。たぶんそれは、誓許が思い悩んでいる理由の一つで、触れてはいけない部分だと思う。だから、お母さんはそこまでは聞かない」
「……、」
「誓許も知っていると思うけど、うちは昔からお母さんと誓許の二人暮らし。お母さんも朝から晩まで働いているけど、それでも生活環境はそこまでよくない。でも、お母さんは誓許さえいてくれればそれでいいと思ってる。これからする話の中で、それだけは覚えておいて」
「……うん」
「お母さんが今の誓許と同じくらいだった頃、世界は第三次世界大戦真っ只中だった。幸いお母さんが住んでいたところはそれほど戦争の影響を受けていなかったけど、それでも、治安は最悪だった。そんなある日……たぶん、戦争のせいで気が狂っちゃったんだろうね。お母さんは、何人かの男の人に拉致されて、その先で色々と酷いことをされた」
「……え」
「最終的に一週間くらいで見つけ出されて命だけは助かったけど、そのときにされた行為で私は妊娠していた。そして、後に誓許が生まれた」
何となく分かっていたけど、やっぱりお母さん本人から当時のことを言われると辛いものがある。私は、お母さんとお母さんにとってどこの誰かも知らない人との間で勝手に誕生してしまった、まだ明るくて楽しい未来があったお母さんの人生を滅茶苦茶にした、望まれていないのにこの世に生まれてきてしまった子だったんだ。
この世界において『不必要』『存在価値なし』という烙印を押されても不思議ではない自分の出生の秘密や、お母さんが経験した悲惨な過去のことを思い、私は思わず目から涙が溢れ出そうなのが分かった。しかし、ここで泣いてしまえばお母さんに心配をかけて、話を中断させてしまうと思い、必死に堪えた。
「最初はやっぱり、『何でこうなったんだろう』とか『何で私がこんな目に』と思ったよ。でもね、少しずつ『この子は私にとって大切な存在で、この子には何の罪もない』って考え始めた。それで、これから何があっても、この子だけは守り抜いてみせようって思えるようになった。そうしたらもう可愛くて可愛くて、今ではこんなに美人に育ってくれて、お母さんはとっても嬉しいよ」
「お母さん……私……」
「誓許の言う通り、誓許に妹でもいれば誓許に寂しい思いをさせなくても済んだかもしれないね……」
「ううん……私、お母さんがいてくれればそれで――」
すると、お母さんは私のことを抱き寄せた。何を言うわけでもなくただただ、私のことを優しく包み込むように抱き締めていた。私も、そんなお母さんの体に抱きついた。
と、そこで私はあることに気がついた。
「……お母さん、『私に妹でもいれば』ってことは――」
「誓許はお母さんにとってただ一人の可愛い子どもってこと。それに、もし妹がいたらお母さんが忘れるわけがないし、一緒に住んでいないわけないでしょ?」
「それも……そうだね」
やっぱり、私に妹はいなかった。この場面でお母さんが嘘を吐く理由はないし、お母さんがそんなことをするとは思えない。PICでも調べたし、これで私は正真正銘の一人っ子だということが証明できた。少し本題からずれていることに気がつくことなく、私はお母さんの胸に顔をうずめていった。
それからしばらくお母さんと抱き合った後、自室に戻ってみると、そこにはいつの間にか散歩から帰ってきていたらしいディオネが例の如く宙に浮きながらタブレットを弄っていた。
それはもう、悲しそうな表情で。