第二十話 『知識』
約十分後、私とディオネは例の図書館の中にいた。校舎の最上階の一番隅にあるということでもっと時間がかかると思っていたけど、ディオネに連れ去られるように走ってきたからなのか、思いのほか時間がかからなかった。
「おー」
図書館の中に入ってすぐのところで、私たちはその光景に驚くあまり立ち竦んでいる。ディオネはどちらかといえば、驚いているというよりも関心しているといった様子にも見える。一方で、私は何か言葉を発することなく、ただただ辺りを見回しているばかりだった。
てっきり、不自然な形で隠されていたことから、そう簡単に図書館には入れないだろうと思っていた。でも、実際に来てみると、出入り口は一つしかなかったものの鍵はされておらず、すでに部屋の電気は点いていた。まあ、私たち以外に人はいないみたいだけど。
そのとき、私はふと思い出したように、ディオネに話しかけた。
「そういえば、聞き忘れていたけど、ディオネは図書館に来て何をするつもりだったの?」
「『何』って、それはもちろん調べ物だよ。ほら、お姉ちゃんから借りたタブレットでも、インターネットにアクセスすれば色んな情報を得られたよね? でも、今日何気なくそのことを思い返してると、不意に何かが足りない気がしたんだよね」
「まあ、この世界のありとあらゆるのことが全て載ってるわけじゃないだろうしね。個人情報に関わることとか些細なことは、探そうと思ってもそう簡単に見つけられないと思う」
「それに、ボク自身、どうしても知りたかったことがあったんだよ。だから、もしかしたら、図書館に行って、電子データじゃなくて紙の本で調べれば何か手がかりが見つかるかなって」
「へー、なるほど」
「んじゃ、どこにあるのか大体の目星はついてるから、ボクはもう探しに行くね。せっかく図書館に来たんだし、お姉ちゃんも探検したらいいよ」
「はいはい、分かったわよ。あ、でも、昼休みはあと二十分くらいで終わるから、それまでには済ませてね? 別に今日しか行けないわけじゃないだろうし、明日もまた来ればいいでしょ?」
「はーい」
そう言って、ディオネはスーッと少し離れた本棚に向かっていった。ディオネの後ろ姿を見ながら、私はもう一度図書館全体を見回すことにした。
ここには、どの方向を見ても本棚があり、その本棚にはこれでもかというほど本が敷き詰められている。目測教室十部屋以上の広さの中には、紙媒体特有の妙な匂いが充満している。ここに、いったい何冊の本があるのかは検討もつかない。何千、何万、いや、もっとそれ以上。最後に紙媒体を見たのは随分前だからなのか、あまりその感覚を掴めない。
こんなにも大規模で、しかも見たこともない言葉が書かれている背表紙を持つ紙の本たちがたくさんあるにも関わらず、学校側は何でその存在を私たち生徒に教えなかったんだろう。明らかに何者かの意図が働いていて、不自然に隠蔽されてきたとしか思えない。
そもそも、知られて不都合が起きるくらいなら、すぐにでも取り壊してしまうべきだし、昼休みに堂々と開放してもメリットはないはず。私以外に生徒がいないのは分かっていたけど、大抵の場合、特殊教室にはその教室を管理する先生がいるはず。それなのに、この図書館にはいない。もしかして、生徒だけじゃなくて、先生たちでも知ってる人が少ないってことなのかもしれない。
「さて、それじゃあ、私は探検するとしようかな」
私はそう呟いた後、ディオネが向かっていった方向へと足を進め、適当な本棚の前に立った。
とりあえず、この図書館の謎についてはいくら考えても答えは出ないだろう。それ以前に、私が知っている情報が少な過ぎるし、誰に聞けば答えを教えてくれるのか分からないのだから、これではどうしようもない。私の手に負える問題ではないことだけは確かだ。
私はディオネに連れて来られるままにここまで来たから、何か探したい本なんてない。というか、キーワードを入力して検索できないなんて不便だし、紙の本を捲って読むという感覚に実感が沸かない。正直なところ、図書館に興味があったのは事実だけど、そこで紙の本を読もうとは思えないのだった。
そんなことを考えていたにも関わらず、気がつくと私は目に付いた紙の本を手当たり次第に手に取っていた。その大半は背表紙を見て選び、目次を軽く読んだ後、ペラペラと適当に捲るだけ。でも、そんな新鮮な感覚に、私は虜になっていた。
ふと目を移したとき、その中でも異彩を放つ紙の本を一冊見つけた。何が私のことをその紙の本に引きつけたのだろうとか思いながら、その本を手に取り、表紙を見てみる。表紙に絵はなく、何かアルファベットの文字列があったのだろうということは分かったけど、掠れていてよく見えなかった。ただ、『P―I―C―』と書かれていたのは分かった。
「あ!」
不意に、私の背後からそんな声が聞こえてきた。振り返ってみると、そこにはディオネの姿があり、ディオネはやけに驚いた表情をしていた。そして、そんな表情の中に少しの嬉しさを含ませながら、ディオネは言う。
「それ、ボクが探してた本だ! たぶん!」
「え? そうなの?」
「うん! ほら、その本の裏面見てみてよ! 電子化されてる本にはそれぞれそのデータにアクセスするためのURLとかパスワードとかが書いてるけど、それにはないはずだよ!」
ディオネに言われる通り、手に持っていた本を裏返す。すると、ディオネが言う通り、確かにこの本にはインターネット上にある電子データにアクセスする手がかりがなかった。てっきり古い本なのかと思いきや、昔の売り物にはあったというバーコードすらなかったので、そういうわけでもなかった。
つまり、この本はバーコードが廃止された最近に印刷された紙の本であり、何らかの理由で電子化されていない本なのだということが分かる。ただの偶然で手に取っただけだというのに、まさかディオネが探していたものを見つけてしまうとは思ってもいなかった。しかも、こんなに珍しいものを。
ディオネに言われたことを確認し終えた私は、その本を裏返して目次のページを開いた。どうやら、この本にはPICのことや終戦後に急速に発展した科学技術などについて書かれているらしい。とりあえず、ディオネも気になるというので、一番最初から読んでいくことにした。
書かれているのは、PICが普及している現代に住む人たちなら誰でも知っているような、些細なことばかりだった。それはもう、PICの取り扱い説明書ともいえてしまう程度のもので、何か革新的な内容は一切含まれていない。何でこんな本が存在しているのか、そんな疑問さえ浮かんでくるほどだった。
……と、数ページ捲ったとき、『PICの開発から普及まで』というシンプルタイトルのページを見つけた。そのタイトルを見る限り、つまりPICの歴史が書かれているんだろうということが何となく分かり、少しだけ読むことにした。
「えーっと、何々……『PICは二十一世紀初頭に物理学者・太陽楼仮暮によって開発される。第三次世界大戦終戦後、現代社会においてその機能の必要性が見直され、爆発的に全世界に普及……』って、え!?」
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「え……あ……いや……」
そこにさり気なく書かれていたのは、私にとってそれまでのものの見方を変えてしまうような、革新的なものに他ならなかった。そして、それと同時に、この本の存在意義や存在そのものが隠蔽されていた学校の図書館にあった理由すらも理解できた気がした。
PICを開発したこの物理学者というのは、まぎれもなく、私のクラスの担任の先生である仮暮先生だ。『太陽楼』なんて苗字は日本中を探してもそこまで大人数はいないだろうし、おまけに『仮暮』なんて名前の人は今まで先生以外に見たことがない。
そういえば以前、『仮暮先生は教師になる前はどこかの研究所にいた』みたいな噂を耳にしたことがある。つまり、そのことを踏まえて考えれば、ここに書かれていることにつじつまが合ってしまうのだ。仮暮先生は教師になる前は物理学者で、そのときにPICを開発した。第三次世界大戦終戦後にPICが全世界に普及して、何の理由でなのかは分からないけど、仮暮先生は教師になった。
こんなこと、今まで考えたこともなかったから、未だに信じられていない自分がいるのが分かる。でも、紙の本という形で学校の図書館にある以上、間違ってはいないということは分かる。これは……もう少しこの本を読み進めて、仮暮先生本人に話を聞いて、真相を確かめる必要があるかもしれない。
あれ? そういえば、この本にはPICは二十一世紀初頭に開発されたと書いてあったけど、そうなると、今から二十年くらい前にはPICは開発されていたということになる。仮に、仮暮先生が二十歳の頃にPICを完成させたとした場合、仮暮先生は三十台から四十台でないと話が合わなくなってしまう。でも、私が知っている仮暮先生は確か、まだ二十台後半だったはずだ。
仮暮先生は珍しい特異な名前をしていることから同姓同名の別人のこととは考えられないし、ましてや、ペンネーム的なものとも考えられない。となると、いったい……?
そのとき、昼休み終了を告げるチャイムが聞こえてきた。図書館内にスピーカーはなかったものの、入ってくるときにドアを開けっ放しにしてきたので、廊下から聞こえてきたらしい。
「やばっ! ディオネ! 私、もう教室に戻らないといけないから、まだ探し物したいなら残ってて!」
「ううん、大丈夫。明日また来ればいいだけだし、ボクはお姉ちゃんと一緒にいたいからね」
「そうなの? それじゃあ、急ぐよ!」
「はーい」
そして、私はもやもやした気持ちを抱えながら午後の授業を受けることになった。放課後にはさすがに閉まっているだろうから、また明日来て調べればいい。ディオネもそう言っていたし、私自身もそう思っていた。
でも、事は私の思い通りに進まなかった。