第十七話 『虚勢』
突如として聞こえてきたその声に私は心底驚いた。そして、その声が聞こえてきた方向を見てとき、そこに逸弛君と火狭さんがいたことにより、私はさらに驚くことになった。それはもう、言葉通り目を丸くして。
気づくと、私は思わず逸弛君の名前を呼んでいた。
「……い、逸弛君!?」
「やぁ、對君に誓許ちゃん。何をしていたんだい?」
逸弛君は私と冥加君が何でこんなところにいたのかということについて気づいていないらしく、普段通りの爽やかな笑顔でそう聞いてくる。その笑顔には表裏などなく、逸弛君が純粋にそのことを知りたがっていることが伺えた。
と同時に、見ているほうまで元気が出てきそうな逸弛君の笑顔を見た私は、少しだけ胸を撫で下ろす気持ちになった。とりあえず、気づいていないのなら適当に誤魔化せば変な誤解は生まずに済む。そう思ったからだ。
私は二人に会ったことで冥加君がどんな反応をしているのかを確認することなく、逸弛君に話しかけようとした。しかし、その直前、逸弛君の左腕に抱き付きながら不機嫌そうな表情をして私のほうを見ていた火狭さんが声を発した。
「……あんた、今日だけはあたしと逸弛の邪魔をしないでよね? この前はあんなことがあったし、最近はあんまり遊びに行けてなかったから、今日は久し振りの二人きりのデートなのよ。あたしも、こんなところであんたと言い合って逸弛との大切な時間を潰すつもりはないから」
「……っ」
火狭さんの言葉の一つ一つが私の心にグサグサと突き刺さる。
そうだ。私と冥加君は気分転換のために遊びに来ていただけだけど、逸弛君と火狭さんはそうじゃない。二人は列記とした恋人で、休日にこういうところにいるということはデート以外に考えられない。そして、もし私が火狭さんの立場なら、その時間を少しでも長く過ごしたいと思うのは必然だ。
私だって、火狭さんと言い争いたいとは思っていない。火狭さんも、それに近いことは思ってくれているというのは分かっている。だから、今の火狭さんの台詞はどこもおかしくない。そう思えるはずだったし、そう思うのは当然のことだった。
しかし、私は納得できなかった。何といっても、自分の気持ちに納得できていなかった。
私の目の前では、私の好きな男の子である逸弛君が他の女の子と密着している。一方で、私は友だちの冥加君と二人きりで気分転換に来ている。おそらく、私が本当に逸弛君のことが好きなら、冥加君のことなど構うことなくそちらのほうに行くはずなのだろう。
でも、私はそんな考えには至らなかった。もちろん、そんなことをすれば冥加君に申し訳ないし、せっかく気分転換に誘ってくれた冥加君の気持ちを無駄にすることになる。そういう思いもあった。
だけど、何でだろう。私は本心から、このままのほうがいいと思っていた。
「あいにくだけど、私も今日は火狭さんとは争うつもりはないの。今日はこっちにもこっちなりに特別な事情があるからね」
「……何それ、珍しいわね。まさかあんた、表面ではそんな風に強がって見せて、本当は裏で何かしようとしているんじゃないでしょうね?」
「まさか。そんなこと、あるわけないじゃない。私が今言ったことは全て本心であり、ただの事実よ。それに……」
「!?」
そして、私は続けて言う。
「今日は、私の彼氏は冥加君だから」
私は、やけに突っかかってくる火狭さんに見せつけるように、さっきまでと同様に冥加君の左腕に抱きついた。私の目の前には、私の突然の行動に動揺を隠せないでいる火狭さんと、私と冥加君を見て何度か頷いている逸弛君の姿があった。そして、私に抱きつかれている冥加君も何が起こったのか理解できていない様子だった。
少しの間、その場を沈黙が支配した。その後、ようやく考えを巡らせることができるようになったのか、明らかに不自然な汗をかきながら、嘲笑するように火狭さんが声を発した。
「ふんっ。あんたもあんたで、そんな風に余計な見栄を張っちゃって。そんなことだと、むしろそんな自分勝手なことに利用されている冥加が可哀想に思えてくるわね。ねぇ、冥加?」
「え? えっと――」
「火狭さんが何と言おうが、今日は冥加君が私の彼氏であることには変わりないわ。それに、冥加君だって、さっき私に抱き付かれたときに『もっとくっ付いて欲しい』って言ってくれたし、何も問題はないわ。そうよね、冥加君?」
「あ、ああ。うん」
「あはは。いや~、ようやく對君と誓許ちゃんがね~。それに、僕と沙祈以外にもカップルがいたとはね~」
火狭さんに見せつけるように冥加君の左腕に抱きつく、私。私の行動をどうにかして批判したい、火狭さん。何が起きたのか未だに理解できていない様子の、冥加君。何かに納得した様子を見せている、逸弛君。
そんな中で、今度は私が火狭さんを挑発するように言った。
「それじゃあ、私と冥加君はこれからもデートの続きをして楽しむから。せっかくの休日なんだし、火狭さんも逸弛君と楽しんできたら? デート」
「あんたに言われなくても、元々そのつもりよ! ほら、こんなやつ放っておいて、さっさと行こう! 逸弛!」
「ちょ、ちょっと待ってよ、沙祈! 何も、そんなに引っ張らなくても――あ。對君、誓許ちゃん。また月曜日、学校でねー」
「あ、ああ。またな」
火狭さんに半ば強引に引きずられるように遠ざかっていく逸弛君。私は冥加君に抱き付きながら、冥加君は私に抱き付かれながら、そんな二人の後ろ姿を眺めていた。
それから、二人が途中の曲がり角を曲がって、その後ろ姿が完全に見えなくなったとき、不意に冥加君が話しかけてきた。冥加君はやけに申し訳なさそうに、私の心情を探るようにしながら聞いてくる。
「……土館。あれで良かったのか?」
「何で?」
「『何で?』って、土館は逸弛のことが――」
「さっき火狭さんに言った通りだよ、冥加君。今日は、私の彼氏は冥加君なんだから。それに、こうして私のことを遊びに誘ってくれた冥加君を裏切るようなことはできないでしょ?」
「まあ、それもそうかもな……土館なら、たぶんそう言ってくれるような気がしたよ……」
たぶん、冥加君は『私が冥加君のために逸弛君の目の前でこんなことをした』と思っているんだと思う。確かに、私がそうした理由の一つに冥加君への気遣いという項目は含まれている。でも、本質的にはそうじゃない。
私は心の底から逸弛君のことだけが好きだったはずなのに、それがどうしてか、今ではそう思わなくなっていた。そして、冥加君とこうしているのも悪くないと思っていた。だから、私はこうして冥加君の左腕に抱き付いている。まあ、わざわざ訂正するようなことでもないから、言うつもりはないけどね。
しばらくの間、私は冥加君を安心させるべく、できる限り微笑みかけた。しかし、ふとディオネの声が聞こえてくると同時に、私は冥加君から少し離れ顔を俯けた。
「お姉ちゃん。話しかけないほうがいいってのは分かってるけど、だからこそ言わせてほしい。返事をしたくないのなら返事はしなくていいから」
「……、」
「さっきから……具体的には今日のお昼頃から思ってたけど、お姉ちゃんは何なの? 昨日までの話では、お姉ちゃんは水科さんのことが好きで、冥加さんとはただの友だちだって聞いたよ? それなのに、今日のお姉ちゃんはとてもじゃないけどそんな風には見えない」
「……うるさい」
「ボクはお姉ちゃんが嘘をついているとは思えないし、相手が誰でもいいって思っているようには見えない。たぶん、お姉ちゃんは水科さんのことが好きなんだと思う。でも、それって、本当に恋愛的な意味合いなの? もしかして、本当はそうじゃないんじゃないの? もし、お姉ちゃんが水科さんのことを恋愛的な意味で本気で好きなら、今さっきみたいなことはしないはずだよね?」
「……分かってる」
「まあ、ボクは異性のことを好きになったことなんてないから、お姉ちゃんの心情を真の意味で理解はできない。だけど、これだけは分かるよ。お姉ちゃん、もう一回自分の気持ちに収集をつける必要があるんじゃないの? ただでさえ、お姉ちゃんは色んなことに振り回されて混乱してるっていうのに、これ以上余計な問題を増やすとお姉ちゃんの身が持たないよ。ボクから言えるのはこれだけで、最終的に決めるのはお姉ちゃんなんだ。あとは、自分の好きにしたらいいよ」
「……でも――」
「んじゃ、ボクはまたしばらく黙ってるから。今日限定彼氏の冥加さんとデートを楽しんだらいいよ」
ディオネはそう言って、私から離れていった。私はそんなディオネのことを追うことなく、どこに行ったのかすら分からないまま俯き続ける。
ディオネが言ったことは全て正しい。私は自分自身の気持ちを理解できていないどころか、収集をつけられずにいる。私は逸弛君のことが好きなはずなのに、冥加君といるほうが楽しいと感じている。ディオネが皮肉気味にあんなことを言うのも当然だ。混乱しているのは何も私だけじゃない。そういうことを教えてくれたんだと思う。
ふと、冥加君が心配そうに私の顔を覗き込もうとしているのが分かった。私は、冥加君にこれ以上余計な心配をかけないようにしようと思い、それまでの落ち込んでいた気持ちをすぐに切り替えた。というよりは、強引に勢いだけでそう見せかけようとしたといったほうが正しいのかもしれない。
「さて! それじゃあ、冥加君! さっさと次に行こう?」
「え? いいのか……?」
「いいのいいの! さっきも言ったけど、今日の私の彼氏は冥加君なんだから。それに、冥加君が望むのなら……少しアレなことも別に……」
「マジすか」
「あはは。冗談だよ、ジョーダン。さぁ、行こう?」
そうして、私と冥加君はそれまでに引き続き夕方まで遊び尽くした。辺り一帯が薄暗くなって、賑やかな街路からほとんどの通行人がいなくなるまで、ずっと。
今日という日は、私にとって何か大きな経験になった気がする。また今度いつか、私もディオネの言う通り自分の気持ちに収集をつけるべきかもしれない。改めて、そう考えることができた。