第十五話 『朦朧』
軽く肩を揺さぶれる感覚がした。何だろう。まだ眠いな。今日は土曜日だし、もう少し寝ていたい。
「……お姉ちゃ~ん、あと何分したら起きられる~?」
どこか遠くのほうからディオネの丸い声が聞こえてくる。冥加君との約束はたぶん午後から集まることになるだろうし、昨日の夜はディオネに変なことをされることはなかったとはいえ、それ以外に色々あったから中々寝付けなかった。
結局、寝始められたのは普段よりも二時間……いや、三時間くらい後だったかもしれない。だから、私はまだしばらく寝ていても許されるだろう。ディオネにもそう言っておこう。元々、私がこんなにも眠いのはディオネのせいでもあるわけだし。
「あと……むにゃにゃ……」
「……え~?」
「三……」
「……うん~?」
「三時間くらい……寝かせて……」
「……あと三――いや、三時間だって~……」
ああ。やっぱり、十月も後半になって十一月が近いからかもしれないけど、やけに布団の中がぬくぬくしていて心地いい。いつまでも、このまま布団の中にいたい。ディオネには三時間と言ったけど、冥加君との約束もあるし、もうそろそろ起きないといけないかもしれない。
覚醒しきっていない意識の中、ディオネが誰かと話している声が聞こえてくる。……ん? ところで、ディオネはいったい誰と話しているんだろう。
「……名前~? うーん……ないよ~? うん……だけど、ないものはないし~」
ディオネの声を聞いてハッとした私は睡魔を払うべく、勝手に閉じようとする目蓋を無理やり開いた。すると、私と一緒の布団に包まっていたディオネの姿を発見した。ディオネは私に温もりを求めるかのように密着しており、服越しでもその暖かさや心臓の鼓動を感じることができた。
こう見てみると、ディオネも私と変わらない普通の女の子なんだと思い、私はすやすやと小さな寝息を立てて眠っているディオネのことが何だか微笑ましくなった。そして、二、三度その薄茶色の髪を撫でた後、ディオネの手の中に私のPICが握られていることに気づいた。
ディオネが私のことを起こそうとしたり、誰かと話しているように聞こえたのはてっきり寝言だとばかり思っていたけど、どうやらそうではなかったらしい。今回はたぶん寝ぼけてしたことなんだとは思うけど、昨日に引き続きまたしても誰かからかかってきた電話に出てしまうとは。私以外の人と話すと困るのはディオネのはずなのに、何で何度もそういうことをするんだろう。
どちらにせよ、とりあえず電話に出ないと相手の人に申し訳ない。私は寝起きの朦朧としている意識の中、ディオネの手に握り締められているPICを取り、その画面を見た。
どうやら、運がいいのか悪いのか、今回の電話相手も昨日と同じく冥加君だったらしい。そういえば、昨日冥加君は『また連絡する』みたいなことを言っていたから、そういうことなのだろう。
ディオネのことを誤魔化しつつ、私が今まで電話に出られなかったことについて誤魔化す必要がある。私は、自分でもよく分かる眠そうな声でPICの向こう側にいる冥加君に話しかけた。
「……もしもし、冥加君……?」
『あ、土館か? よかった、話せなかったらどうしようかと思っていたところだったんだ』
「ごめんね。昨日はちょっと、その……色々あって。それで、中々起きれなかったの。普段ならもっと早くに起きているんだけど」
『何かあったのか? 悩みがあるのなら、まずは俺に言ってくれよ?』
「……悩み……ううん、大丈夫。たぶん、そのうち自力で解決できると思うから」
『えっと、それでだな。今日のことなんだけど、土館は何か希望はあるか? ほら、何時からなら外に出られるとか、行きたい場所とか』
「うーん、私は特にそういうのはないかな。今日もお母さんは仕事だし、普段から門限はないから……って、こんな風に答えちゃうと冥加君が困るよね」
『あー、いや、そんなことはないぞ? 俺としては、土館と一緒に出かけられることが楽しみで楽しみで仕方なかったほどだからな。今日のことを全て、俺に任せてもらっても構わないくらいだ』
「ふふっ。うん、ありがとね」
『……ん? 何で今笑ったんだ?』
「ううん、何でもない。ふと、休日に男女二人きりで遊びに行くなんて、デートみたいだなって思ったから」
『……は、はい!? デ、デート!?』
「あはは。そんなに焦らなくても大丈夫だよ、今日は気分転換というか日頃の息抜きだからね。それじゃあ、せっかくだしお昼も一緒に食べたいから、どこかお勧めのところはある?」
『あ、ああ……それじゃあ、十二時に第六地区のS-4エリアの中央噴水前はどうだ?』
「うん、分かった。楽しみにしてるね」
『ああ』
そう言って、冥加君との通話が終わった。それと同時に、PICの画面から発せられていた立体映像が閉じられる。PICに表示されている時刻はすでに午前十時を回っている。まったく気づかなかったけど、思いのほか寝過ぎてしまっていたらしい。
その後、私は未だにすやすやと眠っているディオネの寝顔を確認した。指で頬を軽くつついてみたり、少しつねってみても、ディオネは言葉になっていない眠そうな声を上げるだけで、一向に起きる気配がなかった。さすがのディオネも、色々と疲れが溜まっていたのだろう。居候しているということもあるけど、私の生活スタイルに合わせてもらっているわけだし。
私はディオネを起こさないようにそっと布団から出て、改めてディオネに布団をかけた後、午後からの冥加君との約束に間に合うように準備を始めた。
それから一時間と少し経ち、そろそろ冥加君との待ち合わせ場所に行くにはちょうどいい時間になった。忘れ物はないはずだけど、どこも変なところがなければいいな。
「ところでお姉ちゃん」
「ん? 何?」
「お姉ちゃんは今日、何をしに行くんだっけ?」
「『何を』って、昨日も言わなかったっけ? 冥加君と気分転換代わりに出かけてくるんだよ」
「あくまで、『恋人でもなんでもない』冥加さんと『気分転換代わり』に『出かけてくるだけ』なんだよね?」
「そうだけど……何でわざわざ聞き直したの? というか、もしかして怒ってる?」
「何か、お姉ちゃんってば、やけに張り切ってるような感じがしたから」
「そうかな? どこかおかしいところでもあった?」
「ないよ。むしろ、そのまま力づく押し倒したくなるほど可愛いよ」
「……なぜだろう。段々ディオネが変態になっていっている気がする」
たぶんディオネも冗談のつもりでそう言っているんだと思うけど、何だかやけに本心からの言葉に聞こえてしまう……じょ、冗談だよね?
そんなことはさておきとして、私は鏡の前に立って改めて自分の姿を確認した。
髪は左右二つの髪留めで括ってあり、それを体の前のほうに垂れさせている。頭のほうも目立つ跳ね方はしてないし、おさげの毛先も綺麗にまとまっている。普段家にいるときや学校に行くときもこれくらいは気をつけているつもりだけど、今日は少し力を入れて髪留めを変えてみたりした。
服は今の季節では少し寒いかもしれないけど、薄い生地の長袖のワンピースを着て、丈が長めのスカートを履いている。学校指定の制服は丈が中途半端だから仕方なく短くなるように折ったりしているけど、私個人としては露出度の高い服はあまり着たくない。今の季節は寒いからというのも理由の一つではあるけど、周りの人に軽い女だと思われたくないからだ。
そういえば、火狭さんはそんな私の考えとはまったく逆のことをしていたような気がする。いつも学校指定の制服を盛大に加工して胸元を大きく開けたり、その胸の谷間を周りに見せつけるかのようにしている。まあ、火狭さんがそうだからといって私が何かを言いたいわけじゃないんだけど、私としてはあまり好きになれない。
よし。大して持っていくものなんてないけど、大体の準備は整った。冥加君と待ち合わせ場所の第六地区のS-4エリアは私の家からそう遠くはないし、しかも中央噴水前というのは冥加君なりの気遣いだろうか。どこかの建物で待ち合わせというよりも、そういった噴水や公園といった場所のほうが、何となく気分がよくなる。
私は鏡の前で一度だけ微笑むと、その後ろの布団に座っていたディオネのほうを振り返った。
「ほら、ディオネもさっさと着替えちゃいなさい。もう行くから」
「あーい……ってか、ボクはお姉ちゃん以外の人には見えないんだから、極論を言えば、服なんて着る必要はないんだけどねー」
「いやいや、いくらなんでもそれは寒いでしょ。というか、私にしか見えてないとしても、私のすぐ近くに素っ裸で宙に浮いている女の子がいるってだけで私のほうが落ち着かなくなるわよ」
「ああ、そういう弄り方もあるのか。なるほどなるほど」
「何勝手に納得してるの」
「ん? いや、待てよ……ボクはお姉ちゃんにしか見えないから、服を着る必要はない……つまり、全裸で街中を歩いても誰もボクに気づけない……? ……ハッ! 閃いた!」
「はいはい。何を閃いたのかは知らないけど、さっさと服を着ないと置いてくわよ?」
「あ、待って! すぐにパジャマ脱ぐから! あと、下着も!」
「パジャマを脱いだ後、別の服を着ないと外に出さないからね。いや、もう今すぐ無理やり着せたほうがいいかも。このままだと、ディオネが勝手に素っ裸で外をうろうろしそうだし」
「ギクッ」
「はい、さっさと済ましちゃうわよ」
「うぅ……分かったよ……」
「何でそんなに残念そうなの……?」
相変わらず、ディオネは何を考えているのかよく分からない。まあ、だからこそ、会話が尽きることもなく、本当に妹ができたみたいで楽しいというのもまた事実なのだった。ただ、ついさっきも思ったけど、段々ディオネが変態になっている気がする。しかも、今度は妙な露出癖を知ってしまったし。
何はともあれ、ディオネに半ば無理やり服を着せた私は、冥加君との待ち合わせ場所に向かった。ディオネに服を着せるのに思いのほか時間がかかってしまったらしく、少し遅れそうにもなった。