第七話 『説教』
結局、昨日私はもどかしい気持ちを抱えたまま、無為に一日を終えてしまった。冥加君たち六人が何を話していたのかを理解できず、ディオネが教室に入ったと同時に天王野ちゃんの様子が急変したことも、どうして金泉ちゃんは私が教室の外で隠れていることを気がつけたのかということも、まだ何も分かっていない。
そういえば、あれから私はディオネともお母さんともろくな会話を交わしていない気がする。
ディオネは私に気を遣ってくれたのか、自分から話しかけようとはしなかった。そして、昼間のときと同じように、私が渡したタブレットを一人で黙々と弄っているばかりだった。
一方のお母さんはというと、昨日はお仕事が長引いたらしく、普段よりもやけに疲れて帰ってきたので、私の様子がおかしいことには気がつかなかったらしい。まあ、お母さんに余計な心配をかけずに済んだと考えれば、よかったといえるだろう。
さて、そんな風に塞ぎ込んだまま終えた日から一夜明け、今私は教室の中で授業を受けている。今日もまた、今まで通りの平和な世界で、平凡な一日が始まっている。何もおかしなことは起きていないし、心配するようなものはない。
あえて一つだけ言っておくならば、昨日はあんなに違和感があった冥加君たち六人の様子がおかしかったということくらいだ。いや、どちらかといえば、冥加君たち六人は私がよく知る彼らの雰囲気に戻ってくれている。だけど、昨日の今日でそんなにすぐに元通りになるとは思えない。だから、私は『様子がおかしい』と感じた。
退屈なわけではないし、面白味がないわけでもない。だからといって、楽しいわけではないし、自分から進んで受けたいとも思わない。そんな一時間目の授業はまだ始まってから十分程度しか経っていない。教室前方に位置する教卓付近に立ち、電子式の黒板を使って私たちに授業をしているのは、私のクラスの担任である仮暮先生だ。
「はぁ……」
気がつくと、特に何かを深刻に考えていたわけでもないのに、私の口からはそんな溜め息が漏れていた。他のクラスメイトたちはみんな静かに授業を受けているというのに、私はどこか落ち着かない気持ちになっていた。
「お姉ちゃん」
ふと、私の斜め右上あたりからそんな声が聞こえてきた。私はその声がした方向を顔を動かすことなく、目だけで見た。すると、そこには案の定ディオネの姿があった。私がディオネに返答する意思がないことを察したのか、ディオネは続けて言った。
「お姉ちゃん。昨日から何度も言うみたいで悪いけど、昨日の朝と夕方のことはもう忘れたほうがいいよ。ボクとしても、お姉ちゃんがそんなに思い悩んで苦しむ姿は見たくない」
分かってる。それくらいのこと、私が一番よく分かってる。そして、私が思い悩んでいると、ディオネは私のことを心配してしまうということも。もちろん、私なりに昨日のことは忘れようと考えた。だけど、今までこんなことはほとんどなかったからなのか、どうしても忘れられない。みんなのことが心配で心配で仕方ない。
私は自分の口元に軽く手を当てて、ディオネにだけ聞こえる声を放った。私が座っている席は列の一番後ろだし、他のクラスメイトたちは授業に集中しているから、たぶん気がつかれないはず。
「どうしたらいいと思う?」
「と、言うと?」
「私はみんなの様子がおかしいことを心配している。でも、今まではこんなことはほとんどなかったから、どうしていいかが分からない。このままだとディオネが私に気を遣い続けるかもしれないってことは分かっているのに、忘れようと思ってもどうしても忘れられない。こんな私は、いったいどうすればいいと思う?」
「お姉ちゃん。妹的存在のボクから一つだけアドバイスを言わせてもらうとね、別に一人で抱え込む必要はないんだよ?」
「え?」
「確かに、あの六人に聞いてもろくな返事は帰ってこないかもしれない。だけど、お姉ちゃんと同様にあの六人に仲間外れにされている火狭さんと水科さんは? 担任教師の太陽楼先生は? それに、お母さんや、場合によってはボクだっている。誰にだって構わないから、相談すればいいんだよ」
「相談か……」
実際のところ、私が気になっていることや悩んでいることを誰かに相談するという考えは前からあった。そうすれば、少なからず私の肩の重荷は退いてくれるだろうし、もしかしたら、問題の解決に繋がるかもしれない。
しかし、私はそれを実行に移してはいない。それもそのはずだ。
元々、このことは冥加君たち六人の様子に違和感を感じたからこそのもの。つまり、私自身の問題ではなく、私ではない他人の問題ということになる。それなのに、誰かに相談してしまえば、それこそ本末転倒というものではないだろうか。そんな考えが過ぎって、今まで私はそれを実行に移せずにいた。
だけど、ディオネは自分から私に『相談すればいい』と言ってくれた。そうだ。ディオネはどこからどうやって来たのかすら分からない謎多き女の子だけど、それでも私のことを姉的存在として慕ってくれているのもまた事実だ。そんなディオネなら、私のこのモヤモヤしたもどかしい気持ちを打ち明けても……、
「……!」
不意に、私の脳裏にある二つの場面が過ぎった。
一つ目は、ディオネが私の部屋に出現した日に言っていた、『願い事を叶える代わりに、ある人物を殺してほしい』ということ。ディオネには他人の願いを叶える力が本当にあるのかもしれない。でも、冷静になってよく考えてみれば、ディオネの台詞のうちで語るべき論点はそこではないことに気がつける。
『ある人物を殺してほしい』なんて台詞を、そんな簡単にこの現代で口に出そうと思えるだろうか。いや、事件も事故も起きないようになっているこの時代で、『殺人』という行為に及ぼうと考えることそのものがありえない。たとえ普段の生活から恨みや妬みを持ってしまうことがあっても、実際にそうなったことはこの数年間でほとんどないのだから。
それなのに、ディオネは『願い事を叶える』という餌を吊るして、私に『殺人』をさせようとした。たとえ本当にディオネに願い事を叶える力があったとしても、私個人の身勝手な願いのために誰かを殺めることなんてできるわけがない。
そんな台詞を放ったディオネのことを、そう簡単に信用していいのだろうか。
二つ目は、昨日の放課後に冥加君たち六人の会話を聞いていたときに、ディオネが教室の中に入った直後に天王野ちゃんの様子が急変したということだ。そのとき、その場にいた木全君は『ただの体調不良だろう』みたいなことを言っていたはずだけど、そんな都合のいい話があるだろうか。
確かに、天王野ちゃんはそれほど体が丈夫そうには見えないし、普段から地曳ちゃんに色々なお世話をしてもらっている。だから、急な体調不良が起きてもおかしくはないと思えるかもしれない。でも、昨日の朝の段階では天王野ちゃんはそれほど具合が悪そうには見えなかった。
それに加えて、ディオネが教室の中に入ったのとほぼ同時に天王野ちゃんの様子が急変し、しかも一瞬だけディオネが笑っていたことを思うと、とてもではないけど偶然とは思えない。ディオネが何かをしたから天王野ちゃんの具合が悪くなった、どう考えてもそれが妥当だと思えてしまう。
そんな表情をしたディオネのことを、そう簡単に信用していいのだろうか。
ディオネのことを信頼できないからといって、他の人に相談できるわけでもない。お母さんの負担をこれ以上増やしたくないし、昨日の冥加君たち六人の会話からも分かる通り仮暮先生は冥加君たち六人の異変に気がついていないみたいだったし、私からは逸弛君や火狭さんには話しかけにくい。
「……うーん」
「そこまで悩むくらいなら、無理して誰かに相談する必要はないんだよ? ボクはただ、お姉ちゃんがこれ以上思い悩んで苦しむ姿を見るのが嫌だったから、一言アドバイスをしただけだし」
「そういうディオネには悩みとかはないの?」
「ボクの悩み?」
一昨日のことと、昨日のこと。ディオネは私に違和感を感じ取らせる台詞を放ち、不信感を抱かせる表情をしていた。ディオネがそんな台詞を言い、そんな表情をしたのには理由があるのではないか。そのことを確かめるために、私はそう聞いた。
ディオネが私のもとに来てから今までに聞いた話をまとめる限りでは、ディオネが前にいた場所は何かと大変で、ディオネ自身にも何らかの悩みがあることくらいは分かっていた。だけど、それを詳しく聞ける機会はなかった。
いい機会だ。今、このときに、それを全部聞くとしよう。
「まあ、ボクにだって悩みくらいあるよ。それはもう、多種多様で大量に」
「へぇ~、例えば?」
「お姉ちゃんに信用してもらえていないこと」
「……え……?」
そのとき、私の中でこの世界の全てがその動きを止めたように思えた。
「もしかして、ボクが気づいていないとでも思った? ボクはこれでも、結構勘がいいほうなんだよ。それに、お姉ちゃんがボクにわざわざ悩み事について聞いてきたのは明らかに不自然だったし、それ以外にも色々とボクにそのことを気づかせる要因はたくさんあった。その結論として導き出されたのが、『お姉ちゃんはボクのことを信用していない』ということ。どう? 図星だよね?」
「……っ」
「返事がない、ということは図星ってことでよさそうだね。それで、何でお姉ちゃんはボクのことを信用していないの? ボクが本名を言っていないことや、ボクが前にいたところについて上手な説明ができないからボクのことを信用できていないって感じでもなさそうだけど?」
「それは……」
「もしかして、昨日の夕方のこと? それなら、ボクは何もしてないから安心してよ。他には……あ、あれかな。一昨日の晩にボクがお姉ちゃんに『願い事を叶える代わりにある人物を殺してほしい』って言ったこと? あのことなら、お姉ちゃんが嫌なら無理してする必要はないって言ってあるし、ボクを信用できない理由にはならないはずだよね? それ以外に思い当たることはないんだけど、お姉ちゃんからは何かある?」
「……ごめん……」
結局、私は何を言い返すこともできないまま、ディオネの口から放たれる言葉の数々に圧倒されてしまった。私が考えていたことの全てを『勘』という一言だけで言い当て、その分析までされて、その上私の考えが根本から間違っていることさえ指摘された。
これだけのことを言われて何かを言い返せるほど、私の心は強くなかった。最終的に、私は顔を俯けて、小さな声でディオネに一言『ごめん』と謝ることしかできなかった。それ以外に何かを言おうとは思えなかったし、そもそも何も頭に浮かんでこなかった。