第三話 『急転』
次の日の朝、私はディオネと二人で学校に向かっていた。私としては、できることならディオネには家で静かにお留守番しておいてほしかったけど、本人がどうしても『外に出たい』と言うので連れてきてしまった。まあ、昨日のお母さんの件もあって、ディオネが私以外の人に見えないっていうのは本当だと分かっているからそれほど大きな問題はないんだけどね。
まあ、こうして誰かと一緒に登校するっていうのは今回が初めてのことだし、その相手が突然現れた居候少女で、しかも私のことを実の姉のように慕ってくれているとなると、何だか不思議な気持ちになる。嬉しさ半分、驚き半分といった感じだろうか。
街中を歩いている最中、ディオネはやけに街の風景を見回しては目新しいものを見るかのように『うわー人がいるー』とか『お姉ちゃーん、あれ何ー』とか言っていた。そして、そのたびに私が逐一説明をしていくという状態がしばらく続いていた。いったい、この子は前はどんなところにいたというのだろうか。
こんなありきたりな街の風景は今や全世界のどこでも見られるし、何も珍しいことはない。むしろ、私が住んでいるこの街は住宅密集地域ということもあってなのか、特色という特色がほとんどない。あるのは特色ではなく、マンションばかりなのだから。
それなのに、目を輝かせられるような珍しいものは何一つとしてないはずだけど……もし、この子が前は未開発地にいたとしたのなら、そういう反応を見せるのも不思議ではないのかもしれない。授業とかニュースでは地球上の陸地のほぼ全ては戦後処理が終わったと言っているけど、海洋に関してはまだほとんど終わっていない。つまり、ディオネが前は海際に住んでいたのなら……と考えれば納得できなくもない。
ディオネが過去に何かを背負って生きているのは分かっているし、それを問い詰めるというのはディオネを傷つけてしまうことに繋がってしまうだろう。突然現れて詳しい説明もなく居候させている時点で色々と裏がありそうだけど、それでも、何の理由でなのかは知らないけど私のことを実の姉のように慕ってくれているこの子のことを私は傷つけたくない。そう思ってしまうのだった。
街路を歩いている私のすぐ傍で、ディオネは宙に浮きながらずっと街の風景を見回している。私はディオネのほうを向くことなく話しかけた。
「そういえば、昨日言っていたことって本当なの?」
「……? 『昨日言っていたこと』って? 昨日私がお姉ちゃんに言ったことはたくさんあるけど、そのうちのどれのこと?」
「いやいや、大体分かってるでしょ。ほら、願い事を叶えられるとか、何とか」
「あー、そのこと? ってか、大まかな説明とボクからの要求はもう言ってあるから、あとはお姉ちゃん次第なんだけどね。お姉ちゃんがどうしても嫌と言うのなら無理強いをするつもりはないから、ボクはお姉ちゃんが条件を承諾してくれるまで気長に待つつもりだよ」
「とはいっても、ねぇ……」
「それに、時間はまだまだたっぷりあるわけだし。まあ、お姉ちゃんが承諾してくれなくても、ボク一人で勝手に行動を起こすこともあるかもしれないけどね」
「そう……」
ディオネには、おそらくどんな現代科学を用いても説明できないことが三つある。
一つ目は、動力源を必要とすることなく宙に浮いていられること。本人曰く、『ディオネ』という実体が不完全なために重力とかを受けにくくなって、いわゆる宇宙空間と似た状態を簡単に長時間維持できるから、半永久的に宙に浮いていられるのだという。
ただ、だからといって、そう簡単に宙に浮ければ誰も苦労はしない。この世には重力以外にも色々な力が働いているわけで、『重力を受けにくい』ってことは裏を返せば『少なからず重力を受けている』ってことになるのだから、宙に浮いていられる証明にはならない。体が軽く感じたり、跳躍力が上がったりすることはあっても、宙に浮いていられるほど重力を受けていなかったら、宇宙空間に飛び出してしまうはずだ。
それに、宙に浮いていられるのは地面から五メートルまでだとか、基本的には歩く程度のスピードでしか移動できないだとか、寝るときは宙に浮いていられなくなるだとか、色々とめちゃくちゃな制約ばかりがあるらしい。何というか、一つ一つのことにつじつまが合っていないし、そもそも、科学的に証明できない現象がどうして私の目の前で起きているのか理解が追いつかない。
二つ目は、私以外の人には見えないということ。これは昨日ディオネが私の前に現れた直後にお母さんが私の部屋を覗きに来たとき、お母さんがディオネの姿に気がついていなかったことから、事実であることが分かっている。
と、まあ、それだけなら何もおかしなことはなさそうに思える。でも、冷静になって考えてみれば、何で『私』という個人には見えて、『それ以外の人たち』という大多数には見えないのか。しかも、頑張れば私以外の人にも見えるようにできるだとか、私以外の人には姿を見せたくないからそうしたくないだとか、こちらも色々とめちゃくちゃな言い分を聞かされている。
それ以前に、自分を透明人間化できる原理が分からない。私の視界には映って、私以外の人たちの死角に入れる技術。監視カメラに特定の物を映らないようにできる技術が開発されて、その対処法までもが開発されたのは随分と懐かしい話だけど、監視カメラの部分を人間に置き換えた例は聞いたことがない。やはり、これもまた科学的に証明できないことの一つなのだと片付けるしかない。
最後の三つ目は、少し聞くだけで胡散臭さを感じざるをえない、願い事を何でも叶えられるということ。話を聞いてみたところ、どうやらディオネには昔からそういう能力があったらしく、私にあることをしてもらう代わりに私の願い事を何でも叶えてくれるらしい。
その前にディオネのその能力の制約について言っておこう。まず、ディオネ自身が自分の願い事を叶えることはできず、他人の願い事しか叶えられないということ。そして、願い事を叶えられるのは一人あたり数回程度で、生命体を殺すことができず、無から有を生み出すこともできないということ。
つまり、ディオネが叶えてくれる願いというのはあくまでディオネ以外の誰かを、物理的にではなく状況的に幸せにするというものということになる。もちろん、願い事を増やすとか、ディオネ以外の誰かがディオネの願い事を叶えるように願うなどの行為も禁じられているらしい。
いったいいつの間に、そしてどうやってこれらの制約を見つけ出したのかは分からないし、聞いても本人は教えてくれなかった。だけど、やはりこれもまた、どうしたらそんなことができるというのか。妙にメルヘンチックで胡散臭いディオネの台詞を、私は信じることができなかった。
というのも、こんな私にも叶えたい願いというものは少なからずあって、多少なりとも現実にそんなことがあればと期待していたからだ。昨日の晩にもディオネと少し話したけど、働き詰めのお母さんに楽をさせたいとか、私の好意に気がついていない彼を振り向かせたいとか、私にもそういう願望がいくつかある。だけど、ディオネにそれらを叶えてもらうための対価はあまりにも大きなものだった。
ディオネが願い事を叶える代わりに私にさせようとしていること、それは『殺人』だった。ディオネが言うには、自分の存在を維持させるためにはある人物の存在が邪魔でその人を殺してほしいらしい。でも、ディオネ自身の能力ではそれができず、直接対決の場合ディオネだけでは力不足になる可能性が非常に高い。だから、最初から私にその人を殺してもらおうという算段だったようだ。
最初は何かの冗談かと思ったけど、ディオネは真剣だった。私が『そんなことをしたら警察に捕まる』って言っても、『ここには警察なんていない』ってわけの分からない台詞で即答されたし。その殺してほしい人が誰なのかは分からないけど、どうやらディオネは本気でそう考えているらしい。
ディオネ……まさかこの子、悪魔の使いとかそういう類いの概念的な存在だったりはしないだろうか。何かが原因で私はそれに取りつかれ、そそのかされそうになっているのではないだろうか。……いや、さすがにそれは考え過ぎかもしれない。悪魔はあくまで概念的なもので、実在などしていないのだから(あくまで、『悪魔』と『あくま』をかけたわけではない)。
「……ん? お姉ちゃん、どうしたの? ボクの顔に何か付いてる?」
「いや、別に――」
「えー? ボクの顔には目も鼻も口も付いてるでしょー? お姉ちゃんはボクのことをのっぺらぼうとでもいいたいのー? 酷いなー、もー」
「あのねぇ……そういう意味で私に聞いたわけじゃないでしょ?」
「あ。もしかしてお姉ちゃん、おこ? おこだー、おこおこおこおこー」
「はぁ……」
ディオネと会話をしていると、思わず溜め息が漏れてしまう。何というか、ディオネは変な方向に頭がいいのか、それとも他人と会話することになれているのか、話していると度々面倒臭いと思ってしまうときがある。
さっきも今も、まさにそうだ。ディオネだって、私が何を言おうとしているのかくらいは分かっているはずなのに、無駄に会話を引き伸ばそうとする。本人にその自覚があるのか否かはさておきとしても、こんな朝早くの時間帯から余計な体力を使わせないでほしいところだ。
「あ、そういえばお姉ちゃん」
「何?」
「PICのパスワード教えてくれてありがとね。いやー、まさか市販のタブレットでもパスワードを入力すればそのまま同じように使えるなんて知らなかったよー」
「というか、何でディオネはPICのパスワードを知らないどころか、本体そのものを持っていなかったのよ。今はPICの装着を義務づけられている時代なのに」
「ボクにも色々あるんだってば。ってか、そういうことはボクに本名がなくてこうして仮にディオネと名乗っていることから察してほしいところなんだけど……あ! お姉ちゃんお姉ちゃん! このゲーム、ダウンロードしてもいい?」
「一応言っておくけど、ディオネがPICを持っていないって言うからタブレットでもPICの機能を使えるようにしてあげただけだからね? ……まあ、暇潰しの代わりにゲームがしたいのなら、無料の範囲で好きにしたらいい――」
「なーんだ、これ有料じゃん。面白そうだったからしてみたかったんだけどなー……ありゃ? ボタン押してないのに、なぜかダウンロードが始まってる!? 何で何で!?」
「おいおい」
あたふたと焦りながらタブレットを操作しているディオネの姿を見ながら、私は再び溜め息をついた。昨日も言っていたけど、ディオネは私が住んでいる場所やそこにある人や物について好奇心旺盛らしい。だからなのか、タブレットを渡してからはずっと黙々と調べ物をしていた。
ただ、今でもまだ操作方法になれていないらしく、こんな感じで一定時間ごとに何か問題を起こすのだった。まあ、PICのパスワードを教えている時点で何かが起きることは承知だったし、ゲームの一つや二つなら私のお小遣いでも何とかなると思うから構わないけどね。
ディオネはPICのパスワードを知らず、それ以前にPIC本体を持っていなかった。その存在や機能は知っていたみたいだけど、それもまたディオネに本名がないことやディオネが前にいた場所に関係があるらしく、PIC本体には触れたことすらなかったらしい。
これから一緒に暮らす以上、私が構ってあげられない時間も必然的に出てくるだろう。そのたびに昨日みたいに部屋を荒らされては困るので、私のPICのパスワードを教えて、使っていなかったタブレットを渡すことで私はそれを回避しようと考えたわけだ。案の定、ディオネは未知の世界に興味津々といった様子で、私と話していないときはただひたすらにタブレットに釘付けになっていた。
あと、このことで一つ気がついたことがある。それは、ディオネが手にした物も一緒に私以外の人には見えなくなるということだ。朝ご飯を食べるとき、ディオネは宙に浮きながらタブレットを弄っていたけど、お母さんはそれに気がつかなかった。『タブレットが浮いている!』なんてことにならなかった以上、そう考えるのが妥当だろう。
そういえば、昨日ディオネが私の前に現れた直後にお母さんが部屋を覗きに来たとき、ディオネは私の下着を両手一杯に持っていた。だけど、お母さんはディオネにも下着にも気がつかなかった。ということは、そういうことでいいのだろう。本人に確認はしていないけど、わざわざ確認するまでもないと思うし、またごちゃごちゃと会話を捻じ曲げられるのは正直しんどい。
それからしばらくの間、私は学校へと向かう道を歩き、ディオネはそのすぐ傍でタブレットを弄り続けていた。そして、ようやく私の教室へと向かう廊下に来たとき、私はディオネのほうを少しだけ振り返って言った。
「いい? 教室の中やみんながいるときには、緊急時以外は私に話しかけないでね?」
「何で? ボクはお姉ちゃん以外の人には見えないんだよ?」
「だからこそ、よ。ディオネが他の人に見えないんだったら、そのディオネと話している私は、他の人から見れば何もない空間に独り言を言っている変な人に見えちゃうでしょ?」
「あはは、それ面白いね! あとで話しかけちゃお~」
「あのね……これでも、私は結構本気で言っているんだけど……?」
「むむっ。ボクだっていつでもどこでも本気全快だよ。キリッ」
「頼むから、私のことを頭がおかしい子だけにはさせないでよね……」
「お姉ちゃんだけじゃなくて、ボクもみんなずっとそうじゃん」
「うーん、話が通じてない気がする……」
「……やっぱりこれも忘れてるか……だったら、余計に面白くなりそう……ふふっ」
「何笑っているのよ。ほら、もう教室だから、静かにタブレットでも弄っておいてよね」
「はいはーい」
「やれやれ……」
何にしても、ディオネと二人きりでないとき以外はディオネと話すわけにはいかないから、もし話しかけられても無視するけどね。まあ、ディオネはああ言っていたけど、本人は私が言いたいことを理解しているはずだろうから、静かにしてくれているはずだろう。
そんなことを考えながら、私が教室の出入り口の前に立ったとき、そこにあるドアが真横にスライドして開いた。いつもならこの時間帯なら私が一番乗りのはずだけど、珍しいことに今日は私の友だち六人の姿があった。六人はどこか暗い雰囲気で、何やら真剣な話をしているように見える。
状況がいまいち分かっていない私がその六人に声をかけようとしたとき、その前に冥加對君が私に気がつき、やけに焦っている様子で私に近づいてきた。そして、冥加君は私の肩をがっしりと掴みながら、普段は見せない緊縛した口調で言った。
「土館! 無事でよかった! 俺たちのことや、向こうのことは覚えているよな!?」