第二話 『死角』
「あら……?」
「あー、お母さん! これは、その、何というか……」
結局、私が床に散乱している物を片付けられておらず、謎の小さな女の子をどこかに隠すこともできていないまま、お母さんは私の部屋を覗きに来てしまった。少しだけ驚いた表情をしているお母さんに対して、私はどう説明しようかと焦りながら、考えを巡らせていた。
すると、そんな私の考えとは逆に、お母さんは予想外の台詞を言った。
「こんなに部屋を散らかして、どうかしたの? 何か探し物でもしているのなら、お母さんも手伝おうか?」
「え……? あ、いや、それは大丈夫だけど……」
「あら、そう? というか、もう十月も終わりなんだから、早いところ服を着ないと風邪ひくわよ? 探し物はその後でも構わないでしょ?」
「う、うん、そうだね。今から着ようと思っていたところなんだよ」
「そういえばさっき、誰かと電話でもしてたの? やけに大きな声が聞こえた気がしたけど……」
「そ、そうなんだ。明日友だちとどこかに行こうかなーって思ってて、そのことについて話し合っていたんだよ。それで、思わず声が大きくなっちゃって。これからは気をつけるね」
「そう。まあ、お友だちは大事にしたほうがいいから、いっぱい楽しんできてね」
「ありがとう、お母さん」
「うん。あ、そうだ、お母さんは今からお風呂に入るから、誓許も早く服を着るのよ? 誓許には風邪なんてひいてほしくないからね」
「大丈夫大丈夫。お母さんも疲れてるだろうから、早くお風呂行ってきたら?」
「そうね。それじゃあ、お休み」
「お休みなさい」
そう言って、お母さんはすたすたとお風呂場のほうへと歩いていった。私はそんなお母さんの後ろ姿を気がつかれないように目で追いかけ、お母さんがお風呂場に入ったのを確認すると部屋のドアを閉めた。そして、未だに空中であぐらをかきながら両手一杯に私の下着を持っている小さな女の子からそれを奪い取った。
私は下着を身に着けながら、小さな女の子に背を向けた状態で話しかける。
「それで、何でお母さんはあなたのことについて一切触れなかったの? どうせ何か知っているんでしょ?」
「さっきも言ったけど、ボクはお姉ちゃん以外の人には見えないようになっているんだよ。まあ、ここでの記録ではボクはいないことになっているみたいだから当然といえば当然かもね。お姉ちゃんもボクのことを忘れているみたいだし」
「つまり、どういうこと? あなたは、私の脳が生み出した幻覚みたいなものなの?」
「うーん、そこまでボクの存在を否定されると何だか悲しくなるなー、っていうか正直へこむ。せめてそこは、お姉ちゃんにしか見えない透明人間とでも言ってくれればよかったんだけどなー」
「はぁ……まあ、分からないことを長々と聞き続けてもらちが明かないわ。たとえあなたが私にしか見えない透明人間だったとして、どうやって私の部屋に入ったのか、どうやって宙に浮いているのか、そういうことにも答えてもらわないといけないわけだし、他にももっと……あ、そうだ」
「どうしたの?」
「あなたのことを何て呼べばいいのかを聞いていなかったわ。あなた、名前は? それと、どこから来たの?」
「名前? ああ……」
私はそのまま布団に入って寝られるようなラフな格好に着替えた後、続けて床に散乱している物を元々あった場所に収納し直していく。一方の小さな女の子は何を考えることがあるのか、私に名前を聞かれて少し困っているようにも見えた。
そして、いつまで黙っているつもりなのかと小さな女の子のほうを振り返ったとき、小さな女の子は何かを思いついたという様子で私のほうを見ていた。その後、ようやく小さな女の子が口を開いた。
「ボクの名前はディオネ。こことは別の、もっと悲惨なところから来たんだよ」
「『ディオネ』……? どう考えても日本語じゃなくて外国語よね……ということは、日本人じゃないってこと? それに、『もっと悲惨なところから来た』って、どういう意味?」
「まあ、ボクにも名前と呼ばれるべきものは一応別にあるんだけど、残念ながらそれはあくまで『そうなるはずだった』というだけで『ボクの本名』ではないんだよ。だから、ボクのことはこれからディオネって呼んでくれればいいよ。向こうではみんなも、ボクのことをそう呼んでいたからね。あと、『もっと悲惨なところから来た』っていうのはそのままの意味だよ」
「えっと、あなたの名前のこととかどこから来たのかとか、そういうことについてはよく分からないままだけど……それじゃあ、これからあなたのことは『ディオネ』と呼べばいいのね?」
「そうそう。これからもよろしくね、お姉ちゃん」
それにしても、名前が『そうなるはずだった』ってどういう状況になったらそんなことになるんだろう。それに、『ディオネ』っていう名前は何か元にしたものがあるのかな。まあ、『小さな女の子』とか『あなた』とかを言い続けるのは疲れるし、呼び名を教えてもらったのはよかったかな。
私は一通り床に散乱しているものを元々あった場所に収納し終えた後、もうすでに敷いてある布団の上に座った。その後、片付け終わった自分の部屋を一度だけ眺めた後、私の目の前の空間に浮いているディオネに改めて質問した。
「それで、そのディオネに質問なんだけど、さっきの――」
「ボクはお姉ちゃんの部屋に侵入したわけではなく、あくまでお姉ちゃんの部屋に『出現』しただけ。ボクがお姉ちゃんの部屋を荒らしていたのは、ここの情報を得たかったから。ボクがお姉ちゃん以外の誰にも見えないのは、ここではボクはいないことになっているから。また、見えるようにしようと思えば、他の人にも見えるようにすることはできると思うけどあまりしたくない。ボクは何かを動力源にして浮遊しているわけではなく、『ボク』という実体が不完全なためにここの重力とかそういうものを受けにくくなっているから、浮遊しているように見えるだけ。そして、さっきも言ったけど、ボクのことはディオネと呼んでくれればよくて、ボクが元々いたところについては説明が面倒だからあまり聞かないでほしい。これで、お姉ちゃんの疑問は全部解消できた?」
「え、ええ。あまりに唐突に淡々と説明されたからまだちょっと理解に追いついていないけど、ディオネについての大体のことはよく分かったわ」
「それはよかったよ。それじゃあ、改めて。これからもよろしくね、お姉ちゃん」
「待って」
「ありゃ? まだ何か聞きたいことがあるの?」
ディオネは私が質問しようとしていたことなど全てお見通しと言うかのように、妙な説明口調で一つ一つ淡々と答えてくれた。それによって、私がディオネに対して抱いていた疑問のほとんどは解消され、それと同時に、全てを包み隠さず正直に答えてくれたディオネのことを疑うという気持ちを忘れていった。
だけど、まだ足りない。私はまだ、ディオネに聞かなければならないことが二つある。ディオネが意図的に答えなかったのか、ただ単純に言い忘れただけなのかは分からないけど、それは私にとっては他のことよりももっと優先度の高いものだった。
「最後に二つだけ、ディオネに答えてほしい質問があるわ」
「ボクが元々いたところについては説明しにくいから答えられないけど、それ以外ならボクはお姉ちゃんからの質問なら何でも答えられるよ」
「それじゃあ、遠慮なく質問させてもらうわ。どうして、ディオネは今日この時に私の前に姿を現したの? そして、何でディオネは私のことを『お姉ちゃん』って呼ぶの?」
「一つずつ答えていくよ……ボクはね、お姉ちゃんとずっと一緒にいたかったから、ここに来たんだよ。ボクはみんなに仲間外れにされたから本来ならここに来ないはずだったけど、どうしてもお姉ちゃんのことが心配だった。それに、ここならお姉ちゃんと直接触れ合うことができると思ったからね」
「お姉ちゃん……つまり、私と一緒にいたかった……?」
「うん。ボクにとって、お姉ちゃんはボクそのものと言っても過言ではないからね。お姉ちゃんは色々な面でボクの人生も請け負っているわけだし」
「……どういう意味?」
「思い出せないなら別にいいよ。まあ、簡単に言っちゃうと、ボクはお姉ちゃんのことが大好きで、そんなお姉ちゃんと一緒にいたかったからここに来たってこと」
何だか、ディオネにうまくごまかされているような気もするけど、たぶんこの子にもこの子なりに言いたくないことがあるのだろう。見たところ、小学生か中学生くらいの身長と体格だけど、妙に大人びている部分も感じられる。もしかすると、実は私とそんなに年齢差がないのかもしれない。きっと、私の友だちの天王野葵聖ちゃんみたいな感じなのだろう。
そんなことを考えていると、不意にディオネが話しかけてくる。
「あと、ボクがお姉ちゃんのことを『お姉ちゃん』って呼ぶのは、まあ、『ボクにとって姉的存在』だからって解釈してもらえれば問題ないよ。実際のところ、厳密にはそれで間違っていないはずだし」
「そう……って、これは簡単に納得していいことなの?」
「いいんじゃないの? 少なくとも、ボクからしてみれば簡単に納得してくれたほうがありがたいんだけど」
「まあ、いっか。あ、そういえば」
「えー、まだ質問あるのー? ボク、もう眠いからお姉ちゃんと一緒に寝てみたいんだけどー」
「いやいや、そのことについて聞いておかないといけないのよ……って、何一緒に寝ることになってるのよ……それも含めて、さっきディオネが『これからもよろしく』みたいなことを言っていたけど、それってつまり――」
「うん、その通り。今日からボクもこの家に住むことにしたから」
「だよね……何か、そう言われる気がしてた」
「別にいいでしょ? ボクの姿はお姉ちゃん以外の誰にも見えないんだし、ボクの声も誰にも聞こえない。それにボク、このままお姉ちゃんに追い出されちゃうと、どこにも行くあてがなくなっちゃうんだ……あー、もうすぐ十一月だから外は寒いだろうし、平和とは言っても夜中にこんな幼女が一人でうろうろしていたら誰に何をされるやら……」
「……分かったわよ……居候でも何でも、好きにしたらいいわ」
「やったー、ありがとー! お姉ちゃん、大好きー!」
私はまたしてもディオネに抱きつかれながら、ふと自分の顔が少し緩んでいるのに気がついた。
ディオネの本当の正体も目的も分からないままだけど、この子は悪い子ではないような気がする。それに、ここまで私に懐いていて、私のことを実の姉のように慕ってくれているのは嫌な気分ではない。むしろ、口に出したことはなかったけど、私は姉妹というものに憧れていた。だから、正直なところ結構嬉しかったりもする。
それに、ディオネの言う通り、ディオネの姿が誰にも見えないのならお母さんに迷惑をかけることもないはず。この状態がいつまで続くかは分からないし、そのうちご飯の減り方でお母さんも何か気がつくかもしれないけど、こんな小さな女の子を放っておくわけにもいかない。少なくとも、しばらくの間はかくまってあげても大きな問題はないだろう。
こうして、私と謎の小さな女の子、ディオネの生活が始まった。
「ところでお姉ちゃん」
「何?」
「お姉ちゃんって、何か願い事とかある?」
「『願い事』? 例えばどんな事のこと?」
「えっと、願い事は言葉通りの意味で願い事なんだけど……まあ、お姉ちゃんがどうしても叶えてほしい願いって言えば分かるかな?」
「つまり、億万長者になりたいとか、好きな人を振り向かせたいとか、そういうことでいいの?」
「そうそう。さっすがお姉ちゃん。察しがいいね」
「うーん、今のところはないかなー」
「これから先もずっと?」
「いや、これからどうなるかは分からないけど、今のところはないかな。億万長者になればお母さんに楽をさせてあげられるだろうし、私にも好きな人はいるけど、それらは誰かに叶えてもらうようなものじゃないし」
「じゃあ、そこで逆に考えてみてよ」
「逆?」
「うん。たとえば、『億万長者になってお母さんを楽にさせる』じゃなくて『億万長者になってお母さんに今までの恩返しをする』って考えてみたり、『好きな人を振り向かせる』じゃなくて『好きな人を振り向かせるきっかけを作る』って考えてみるのはどう?」
「確かに、そう考えてみれば、どっちも捨てがたいわね……お母さんには苦労かけてばっかりだからそろそろ恩返しをしたいってこともあるし、このままだと一生彼は私に振り向いてはくれないだろうし。もしそんなことが本当に叶うんだったら……というか、何で急にそんなことを聞くの?」
「ああ、それはね――」
そうして、まもなく日が変わろうかというとき、ディオネは私に可愛らしい満面の笑みを見せながら、しかし、いたって真剣な様子で言った。
「色々条件はあるみたいだけど、ボクはね……どんな願い事でも叶えられるんだよ。だから、この力を使ってお姉ちゃんを幸せにしてあげようと思ったんだ」