第一話 『再会』
『私がこうして何気なく息を吸って吐くだけで他の誰かが苦しみ、私がこうして無意識に内に自分の心に嘘をつくから争いが生まれる。過去の過ちを悔いても意味がないことは分かっているのに、それでも後悔と絶望は絶えない』
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何気ない日常の、何気ない一日がもう少しで終わろうとしている。髪の毛に付いた水滴を適当に拭き取った後、この私土館誓許は自分の体にバスタオルを巻き、廊下を通じて少し離れた部屋にいるお母さんに声をかけた。
「お母さーん。お風呂上がったよー」
「はーい」
遠くのほうから、お母さんの優しい声が聞こえてくる。今日私がお風呂に入ったのはこれで二度目だ。とはいっても、別に何か特別なことがあったわけではない。私は昔からただ何となくお風呂が好きで、基本的に一日に二度は入るようにしており、場合によっては三度入ることも珍しくない。
私はお母さんと二人暮らしをしている。私には兄弟や姉妹はいないし、お父さんの顔も名前も知らない。一応、お母さんの話では私がまだ赤ちゃんの頃にお父さんと色々あって、それで離婚したのだと聞かされているけど、本当はそうじゃないことくらい分かっている。
私がどうやってこの世に生を受けて、今に至るのか。その理由は、私が高校生なのにも関わらずまだ三十台前半というお母さんの年齢や、私の過去の境遇を思い返してみれば自ずと分かることだ。
お母さんは私のお父さんと呼ばれるべき人の力を借りることなく(それ以前に誰がそうなのか分からなかったのかもしれないけど)、私のことを女手一つでここまで育ててくれた。私が生まれたのは第三次世界大戦の真っ只中で、世界中が人にも物にも満足できていない時代だった。
そんな中で、当時十代後半のお母さんは、生まれたときから四肢が不自由な状態で産まれた私のことを庇いながら、必死に生きてきた。最低限の衣食住を揃えたり、私とお母さんの生活費を稼いだ上で、私の不自由な体を治す手術費のために働き続けた。
私のお母さんは、それはもう世界中のどんなお母さんにも負けないほど、母性に溢れる人だったと思う。たとえ自分が望んでいない時期に、父親が誰なのかすら分からないような状態で、私みたいに不自由な体をもってして産まれた赤ちゃんのことをここまで育てるというのはそう簡単にできることじゃない。
そういうこともあってなのか、昔から私とお母さんは仲がよく、私もお母さんのことは他の誰よりも大好きだ。この想いは世間一般の子どもたちが母親に抱いているものよりももっと感謝に溢れるもので、誰にも負けないほどの想いだと自負している。
さてさて、そろそろ服を着ないと体が冷えてしまう。とはいっても、私とお母さんが住んでいるマンションはそれほど広いわけではなくむしろ狭く、収納スペースもほとんどないので、服は自分の部屋のタンスから取り出してそのまま着そこで替えることになっている。ろくな防寒設備もないので、冬場は結構寒い。
ふと廊下を通じて少し離れた部屋から微かな明かりが漏れているのが確認できた。たぶん、お母さんがドアを開けたまま仕事をしているのだろう。朝早くから夕方まで外で働き詰めで、家に帰ってくるとヘトヘトになっているというのに、お母さんは私と自分自身のために家でもずっと働き続けている。
一週間くらい前に、外でのお仕事も正社員になれたことで収入が安定し始めたと言っていた気がするけど、やはりそれだけではまだお金が足りないということだろうか。前に、毎日ほとんど寝ていない状態で働き続けているお母さんの姿を見て、『私もバイトしたほうがいい?』と聞いたことがある。でも、お母さんは『私は大丈夫だから、誓許は学生生活を楽しんで』と即答した。
やはり、昔からお母さんはお母さんなのだ。我が身を犠牲にしてでも、私みたいな娘のことを優先して考えてくれる、母性に溢れる優しい人なのだ。だから、私はそんなお母さんの気持ちを無駄にしないために、大学を卒業するまでバイトはしないようにすることにした。そして、今しかないこの学生生活を楽しむことにした。
「お母さん。いつもありがとう」
私はお母さんの部屋のほうを向いて、小さくそう呟いた。この台詞はお母さんに聞いてほしかったわけではない。ただ、私が心の中でお母さんに感謝していると、いつの間にかそんな台詞が口から漏れていたものだった。そうして、私は真っ暗で静かな廊下を歩いて自分の部屋に向かった。
「……あれ? さっき私、部屋の電気消したような……」
私のすぐ目の前にある、廊下に面している一つの部屋。その閉ざされたドアの隙間からは、僅かではあるけど明かりが漏れている。一時間くらい前に私がお風呂に入ろうとして部屋を出たとき、私は確かに部屋の電気を消したはず。だとすると、この明かりは何だというのか。
僅かな可能性として、私が消し忘れたということも考えられる。でも、戦争中に比べて安くなったとはいえ電気代も馬鹿にならないご時世で、しかも年中金欠かつ年中節約生活の土館家では一秒たりとも電気や水などの無駄遣いはできない。
お母さんは私の部屋に勝手に入るような人ではないし、たとえそうだとしても電気を消し忘れるなんてことはないはず。それに、私とお母さんは二人暮らしだから他には誰もいないし、玄関の鍵はお母さんがお仕事から帰ってきたときにしていたのを見たから誰かが入ってくることもできない。部屋を出るときに窓は閉めておいたし、玄関の電子ロックがそう簡単に解除されるとも思えない。
まあ、考え過ぎても何になるわけでもないし、そろそろ寒くなってきたから部屋に入るとしよう。きっと、うっかり私が電気を消し忘れただけだと思うし。というか、それ以外の可能性は考えられない。
そして、私は自分の部屋のドアを横にスライドさせて開いた。
「うーん、ここにもないかー。やっぱり、ここではボクはいないことになってるのかなー。まあ、別にいいけどね。というか、お姉ちゃんってば、いつまでお風呂に入っているんだろ。相変わらず綺麗好きなところは変わってないみたいでよかったけど、ふふっ。あー、楽しみだなー。これからはお姉ちゃんとこんなに平和なところで生きていけるなんて、夢みたいだよねー」
ドアが開いた直後、私は思わず前言撤回したくなるようなその光景に絶句してしまった。
そこには、私の部屋のタンスや机の引き出しの中身を床一面にぶちまけながら、その奥に頭を突っ込んでいる一人の小さな女の子の姿があった。その小さな女の子は独り言をぶつぶつと呟きつつ、何かの小動物のように可愛らしくお尻を振りながら、何かを探しているように見えた。
その小さな女の子は見た感じでは百四十センチくらいしか身長がなく、体つきもかなり小柄であることがよく分かる。また、それほど長くない茶髪を背中側に垂らすような形で括っており、私が通っている学校とよく似ている制服を着ていることも分かった。
見覚えのない小さな女の子が私の部屋(というか家)に不法侵入していて、私の部屋を荒らしている。これだけの情報だけでも、充分にマンション経営側のセキュリティ管理の不行き届きと、この小さな女の子に対して不法侵入とかで訴えられそうだけど、このときの私はそんな考えすら回っていなかった。
その小さな女の子は、どういう原理なのか『宙に浮いていた』。それは、天井から糸を吊るしているだとか、羽とかプロペラを動力源にして浮遊しているというわけではないというのは何となく分かった。それはもうおとぎ話の妖精のように、床からそれほどの高さではないけど、フワフワと浮いていた。
私は思わず、その小さな女の子がフワフワと宙に浮いている光景に見惚れてしまった。一応現代科学でも似たようなことはできるらしいけど、一般に実用化されていない以上それを自分の目で直に見たのは初めてだし、そして何よりもあんな風に宙に浮くことができるというのはどういう感覚なのだろうと少し羨ましいと思ってしまった。
だけど、このまま見惚れていても状況は何も変わらない。そう考えた私はドアを開いてから数十秒後、ようやくその小さな女の子に対して声を発した。一方の小さな女の子は余程集中して私の部屋を荒らしているのか、ドアが開いたことにも、私に数十秒間ずっと見られていたことにも気がついていないように見えた。
「あ、あなたは……誰……?」
「……ん? あ、お姉ちゃん、おかえり! そして、久し振り!」
「へ? お姉ちゃんって――」
私が『お姉ちゃんって何のこと?』と聞き返そうとしたとき、その小さな女の子はそれまで通り宙に浮いた状態で勢いよく私に抱き付いてきた。突然抱きつかれたということもあり、一瞬だけ首が絞まりそうになったけど、すぐに解放された。
その小さな女の子は自分の頬を私の頬に擦りつけたり、私の体を抱き締めながら、やけに嬉しそうな様子で私に話しかけてくる。いや、対する私は何がどうなったのか分からなかったから、その台詞はもはやただの独り言だったといっても差し支えないのかもしれない。
「あー、お風呂上りのお姉ちゃんって本当にいい匂いなんだねー! っても、直接抱き合えたのはこれが初めてだから普段の匂いは分からないけど、でも、ようやくお姉ちゃんの体の温もりを感じられて、ボク本当に嬉しいよー! いやー、やっぱり、ボクには向こうじゃなくてこっちのほうがあってるのかもしれないねー! いっそのこと、こっちに住み移っちゃったほうが色々と懸命なのかもー!」
「え、えっと……」
「はぁはぁ……お姉ちゃんの髪、お姉ちゃんの顔、お姉ちゃんの腕、お姉ちゃんの胸、お姉ちゃんのお腹、お姉ちゃんの足……もうそのままどこかに保管しておきたいくらい透き通るほど澄み渡っていて、純粋を形にしたかのように健康的な白っぽい薄橙色……あぁん、餓死してミイラになるまで永遠にこうしていたいー! あ、でも、ここでは栄養を摂る必要はないんだっけ? いや、ここだからこそ摂るべきなのかな?」
「ちょ、ちょっと!」
「どうしたの? お姉ちゃん?」
私は話を聞こうとしてくれないその小さな女の子を、お互いの体が密着せず、お互いの顔が見える位置まで突き放した。小さな女の子は私のその行動に疑問を覚えたかのように、キョトンと小首を傾げながら宙に浮いている。
「そろそろ私にも質問させてよ! あなたはいったい誰なの!? どこから来たの!? あと、どうやって私の部屋に入ったのか、私の部屋で何をしているのか、そういうことにもまとめて答えて!」
「え……? お姉ちゃん、ボクはボクだよ……? まさか、忘れちゃったの……?」
「それに、さっきから何で私のことを『お姉ちゃん』って呼ぶの? 私には妹なんていないし、あなたとは今日初めて会ったから忘れるとかそういうことはない!」
「あ、えっと、これって、まさか……そういうこと……でいいのかな……? そうじゃないとお姉ちゃんがボクのことを忘れるわけがないし、こんなに突き放すわけがない。だから、たぶん、そうに違いない……これは、ちょっと、困ったことになったな……」
「この期に及んで何を言っているの? 素直に私の質問に答えてもらえればあなたのことを警察に突き出したりはしないから、正直に答えて」
「まあまあ、そう言わないでよ。ほら、体が冷えちゃうだろうから、とりあえず何か服を着て。バスタオル一枚だけじゃ寒いでしょ?」
「分かってるけど、誰のせいでこんな――」
私は私の理解の範疇を超えた現象を目の当たりにして、自分の感情が高ぶっているのがよく分かっていた。でも、突然現れた謎の小さな女の子に部屋を荒らされていたことに困惑し、その小さな女の子が宙に浮いていたことに憧れ、そして『お姉ちゃん』と呼ばれるたびに妙な親近感を覚えてしまった。
だからなのか、私は忘れていた。私の部屋のドアとお母さんの部屋のドアが開きっぱなしになっていてそれぞれの音がよく聞こえるようになっている状態で、大声を張り上げてしまっていたことを。
「誓許ー? 誰かいるのー?」
不意に聞こえてきたお母さんの声に、私は思わずハッと息を呑んだ。そして、自分の部屋の床に大量の物が散乱していることや、謎の小さな女の子が宙に浮いていることを思い出し、少しずつ心拍数が上がっていくのがよく分かった。
床に大量の物が散乱していることについてはいくらでも言い訳ができる。でも、この小さな女の子についてはどう説明しろというのか。こんな遅くの時間帯だから『友だちが来た』とは言えないし、私に従姉妹はいないから『従姉妹が来た』とも言えない。だからといって、正直に『不法侵入された』と言うとそれはそれで話がややこしくなりそうだし、何よりもこの小さな女の子と二人で話をすることができなくなってしまうかもしれない。
私は少しずつ迫ってくる足音を聞きながら、なぜか両手一杯に私の下着を持っている小さな女の子のほうを向き、お母さんに聞こえない声量で言った。
「お母さんが来てるから、早くどこかに隠れて! あなたも不法侵入で捕まりたくはないでしょ!」
「え? あ、そっか。こっちではお母さんもいるんだったっけ。久し振りに会うわけだし一言二言挨拶しておきたいところだけど、お姉ちゃんがこんな様子だからねぇ。それに、ここではボクの存在が抹消されている以上、お母さんがどんな状態なのかっていうのも大体予想はつく、かな」
「何ぶつぶつ言っているのよ! 早く早く!」
「あー、ボクがお母さんに見つかることを心配してくれているのなら、大丈夫だよ安心して」
「『安心しろ』ってそんな、空中に座りながら言う台詞じゃないでしょ!? というか、何で両手一杯に私の下着ばっかり持ってるの!?」
そして、お母さんの足音がすぐそこまで迫っているとき、謎の小さな女の子は空中であぐらをかきながら、さも当然のことかのように言った。
「ボク、お姉ちゃん以外には誰にも見えないから」