第二十四話 『脱出』
そうだった。何で今まで私は思い出せなかったのだろう。突然閉じ込められたことで、私は普段ならまず最初に実行するそんな思考すらままならない状況にあった。
仮暮先生が言ったように、最初からSystem Alteration Passwordを使用して教室の外に出られるようにすることもできたんだ。そうしていれば、廊下から教室の中に投げ込まれた容器から発生していたガスによって、何人かのクラスメイトが倒れずに済んだかもしれないのに。
でも、仮暮先生は『ようやく電子ロックを解除できた』とも言っていた。確か、仮暮先生は機械類に対してそれなりの知識があって扱いにもなれていたはずだ。そんな仮暮先生が解除に時間がかかったということは、私が手伝ったとしても何の役にも立たなかったかもしれない。
それに、私が知っているSystem Alteration Passwordはあくまで両親から教えられたものと、両親が管理しているデータベースを勝手に閲覧して知っているものでしかない。その範囲は、公務員である仮暮先生が知っているものとほとんど同じものだろう。つまり、やはり私では仮暮先生の役には立てなかったのだ。
自分を責めても仕方がない。何にしても、ひとまずこれで廊下に出ることができる。そうすれば、投げ込まれた容器から発生しているガスを吸うこともなくなるし、外部とも連絡を取ることができる。そして、天王野さんを確保することもできるだろう。そう考えて、私は教室の出入り口であるドアのほうに向かって歩き始めた。
その直後だった。
突如として、ドンッという耳を劈くような轟音が辺り一帯に響き渡り、地鳴りのような強烈な揺れが私がいる教室を襲った。その際、一瞬だけ眩い閃光のようなものも見え、数秒間だけ私は視覚、聴覚、触覚を封じられた。
揺れが治まり、轟音が聞こえなくなってから十数秒後、ようやく封じられた感覚が少しずつ元の状態に戻っていくのが分かった。そのとき、私が一番最初に聞いたのは悲鳴、そして、一番最初に見たのは辺り一面真っ赤に染まった地獄のような光景だった。
教室の出入り口であるドアを出てすぐの場所には、脱出を試みていたクラスメイトたちが数名いたはずだ。しかし、いくら探してみてもそこに彼らの姿はなく、あるのはただただ赤一色だけだった。
その赤色の正体は紛れもなく、血。よく見てみると、廊下に広がっている血の海の中には、人間の腕や足らしきものが浮かんでいたり、骨の破片や内臓と思わしきものが散乱している。本来なら人間の体に基本パーツとしてくっ付いている、もしくは組み込まれているそれらは、もはやその跡形すらない。
そして、先ほどの轟音に加えて、地鳴りや閃光。これらのことから考えられるのは、非常に殺傷能力の高い爆弾や爆薬であると間違いないだろう。ということはつまり、今回の事件の犯人である天王野さんが爆弾かそれに類似する何かを投げ、クラスメイトを殺したということでいいのだろうか。
「うわああああああああああああああああ!!!!」
「きゃああああああああああああああああ!!!!」
教室の中が悲鳴と絶叫で溢れ返る。つい数秒前まではそこにいたはずのクラスメイトが、今では跡形もなくただの肉片と化し、辺り一面に真っ赤な鮮血を撒き散らしている。感情が恐怖に支配され、奇声を上げるにはただそれだけのことで充分だっただろう。
しかし、私たちはつい先ほどまで教室の中に閉じ込められていた。そして、仮暮先生の働きによってようやく現れた退路。でも、その退路は自分の命を救うための逃げ場所などではなく、自分を死へと誘うゲートだった。
教室の中は、今だにガスを発生し続けている容器のせいで安全とはいえない。かといって、外に出ようとすれば今のように爆殺される可能性もある。つまり、私たちはほぼ完全に退路を絶たれ、時間をかけて苦しみながら死ぬか、今すぐに一瞬の激痛を受けて死ぬか、そのどちらかしか道は残されていない。
その後、そんな信じがたい……というよりは信じたくない現実を叩きつけられたクラスメイトたちは爆弾が投げ込まれる可能性があるというのに、そんなことなど関係ないといった様子で奇声を上げながら廊下へと逃げていった。
そんな彼らの姿は、平和ボケした心に急に強烈な電気ショックを与えられ、完全に感覚が麻痺したようにすら思えた。『どうにかして生き延びたい』。人間なら誰しもが思う本能的なその感情に心を支配され、冷静な判断ができなくなっている。とはいっても、このままでは私もガスを吸って死ぬことになるので、私自身も冷静な判断ができているとは言いがたいわけだけど。
次の瞬間、またしても大きな爆発音と強烈な振動と眩い閃光が私がいる教室を襲った。数秒後、目を開けてみると、そこには先ほどまでよりもさらに悲惨な光景が広がっていた。
爆弾によって殺されたクラスメイトはすでに十人を超えていることだろう。廊下に面している壁は元の透明色が分からなくなるほど、教室の中から廊下を確認できなくなるほど赤一色に染まっている。また、十人以上の体内から撒き散らされた大量の血は廊下だけでなく、開き続けている教室の出入り口であるドアから教室の中に侵入し、その近くにいたクラスメイトたちの体の前面をも真っ赤に染め上げていた。
廊下や教室の中を含めた辺り一帯には血独特の生々しい匂いが立ち込め、嗅覚がおかしくなってしまうのではないほどの嫌な匂いを感じられる。腕や足、そして骨の破片や内臓が散乱し、血の海に浮いている。中には、爆発によって人体のパーツとしての原型すらとどめていないものすらあった。
悲鳴や絶叫が耳を劈く。目の前で何人ものクラスメイトが殺されたこと、今まで味わったことのない衝撃を受けたこと、教室の中に充満し始めているガスを吸ってしまったことで、教室の中に残っているクラスメイトたちも次々と倒れていく。
幸いなことにも、私は自分の席が教室の全体の前のほうだったために、教室の中央部分に投げ込まれた容器から発生し続けているガスを吸うこともなく、ドアから廊下に出て逃げるにしても、クラスメイトが邪魔でそれもできそうになかった。結果的に、今のところ私は二つの難を逃れているということになる。
一瞬だけ、教室の中を見回す。現在、教室の中に残っていて私のようにまともに立っているクラスメイトは……七人。私の友人である火狭さん、水科さん、木全さん、そして他のクラスメイトが四人。
七人はそれぞれ離れた位置で難を逃れている。おそらく、私と同じように教室内での座席が影響していたり、ただ単純に出遅れたために、その間に安全地帯を見つけて難を逃れているのだろう。いや、もしかすると、目の前で大量虐殺が行われていることに唖然として足が動かなかっただけなのかもしれないし、実は自殺願望があってこのままガスで死にたいと思っているだけなのかもしれない。
どちらにしても、私を含めて教室の中には八人の生存者がいる。つまり、今日は欠席していて犯人の疑いがかかっている天王野さんと生存している私たち八人を除いた二十一人はガスと爆弾によって殺されたということになる。
クラスメイトの七割を失ったのは悲しいことだけど、こうして全滅することなく、八人の生存者を作ることができたのは不幸中の幸いといえるだろう。もっとも、これから先私たち八人がこのまま生き延びることができる保障なんてないし、今すぐにでも殺されるかもしれないので、そんなものは儚い望みでしかないわけだけど。
そのとき、不意に私はあることに気がついた。
「……あれ? そういえば、仮暮先生と土館さんは……?」
そう呟いた後、私は一度だけ教室の中を見回した。やはり、私以外の生存者の七人の中にも、教室の中に倒れているクラスメイトたちの中にも、仮暮先生と土館さんの姿はない。まさか、あの二人も恐怖で自我を保てなくなり、思わず廊下に出てしまったのだろうか。
土館さんはともかくとして、仮にも私たちの担任教師でる仮暮先生がそんなことでは、もうどうすることもできない。仮暮先生さえ生きてくれていればまだ何とかできたかもしれないのに、このままでは、私一人だけの力ではどうすることもできない。
打開策は何一つとして浮かばず、尽きる以前の問題として、策はない。
一秒、一秒と時間が経つにつれて少しずつ爆発音が多く、大きくなっているような気がする。それに、つい先ほどまではある程度の間隔を開けて爆発音がしていたにも関わらず、今ではその間隔すら感じられないほどに絶え間なく爆発音が聞こえてくる。
先ほど仮暮先生が電子ロックを解除した際に白く濁っていた教室の壁が元の透明色に戻ったとき、一瞬だけ天王野さんの姿が見えた。このことから、天王野さんは今回の事件の犯人であり、おそらく何人ものクラスメイトを殺した爆弾を何度もいくつも投げ込んでいるのも天王野さんなのだろう。
もう教室の中から廊下へと出ていくクラスメイトなんて一人もいないというのに、今だに爆発音は聞こえてくる。これはもはや、正気の沙汰とは思えない。そもそも、大量虐殺なんて真似をしている時点で正気の沙汰とは思えないわけだけど、天王野さんは最初に教室の中にガスを発生させる容器を投げ込んでいる。つまり、爆弾なんて使わずに、ガスで私たちを殺すつもりだったのだ。
しかし、仮暮先生が電子ロックを解除したことで天王野さんの計画は崩壊し、やむをえず爆弾を使って逃走者を殺すことにした。おそらく、そこまでは天王野さんとしても意味のある行動だったのだろう。
でも、ただただ爆弾を投げ込み続けているだけの今になっては、その行動に何の意味があるのかすら分からず、計画性などまるで感じられない。それはまるで、頭が狂って、ただただ無慈悲に人を殺したい破壊したいという衝動に駆られているだけに過ぎない。
これはもう、人がしていい領域を遥かに超えている。
私はようやく自分の死を悟った。相手が感情を持たない狂人で、こちら側に退路がないのであれば、もはや何の行動にも意味はない。命乞いをしたところで爆殺されるだけだし、逃げようとすれば肉片と化したクラスメイトたちのようになることは明らかだ。
結局、私はこの十七年間の人生で何も成すことができなかった。
両親が世界中の人々に対してしていることが誤りであると指摘することはできなかったし、想い人である木全さん……いや、遷杜様にこの気持ちを伝えることもできなかった。楽しいことなんてほとんどなく、つらいことばかりだった私の人生には何の意味があったんだろう。
もう少しだけ私に時間があれば何かを変えられたのかもしれないのに、そんな時間など残されてはいない。いくら尋常ではない耐久性を誇る透明な強化ガラスでも、何十何百と近くで爆発があればいつ壊れてしまうかは分からない。私の命が消え去るのは、そのときなのだろう。
「みなさん! 諦めるのはまだ早いですよ!」
「……え……?」
不意に私の背後から一人の女性の声が聞こえてきた。後ろには誰もいなかったはずなのに、いつからその女性はそこにいたのか。私はあまりに突然のことに驚き、咄嗟に後ろを振り返った。すると、そこには死んだと思っていた仮暮先生の姿があった。
仮暮先生は教室の中で生存している私たちの視線を集めると、一度だけニコっと笑った。そして、その足元にある空洞(正確には教室の床に空いている穴)を指差して言った。
「ここもパスワードが書き換えられていたみたいで、その解読に時間がかかってしまいましたが、この空洞から通じる道は緊急用の避難経路としての役割を持ちます。犯人が教室の中に入ってくる前に、生き残っているみなさんだけでも生き延びましょう!」
そうして、私を含めた生存している生徒八人と仮暮先生はその避難経路(というよりは天井裏にある狭い空洞)の道を這い蹲るように通り、辛うじて難を逃れることに成功した。