第十三話 『暗示』
本日最後の授業の終了を示すチャイムが聞こえてくる。終礼をした後、教室の中はクラスメイトたちの話し声で溢れ返る。そんな中、私は何をすることもなく、ただただ無言のまま自分の席に座っていた。
「はぁ……」
「どうしたの? 金泉ちゃん。そういえば、今日は何だか溜め息ばかりだね」
「え?」
特に意識せずに溜め息を漏らすと、丁度私の席の近くに来ていたらしい土館さんが声をかけてきた。土館さんは特に変わった様子もなく、何気ない感じで私に声をかけてきたようだ。いや、今の場面で『変わった様子』なのは、土館さんではなくこの私のほうだろう。
普段は一日中、空き時間さえあれば知恵の輪を解いている私だけど、今日はそうではなかった。一応、知恵の輪自体は今も机の上に一つだけ置かれている。でも、その解除の作業は、今朝から何一つとして進んではいない。むしろ、『解く』というよりも『触る』程度の扱いしかしていないのだから、勝手に解けてしまうほうがおかしな話だ。
「私が……? そ、そうだったかしら?」
「うんうん。登校してすぐくらいはそうじゃなかったのに、一時間目あたりから急に雰囲気が変わった気がする。まあ、私の気のせいかもしれないけど、何となく体調でも悪いのかなって思ったから」
「い、いえ……体調は悪くないですし、気分も良好ですわ」
「そう? それならいいんだけど」
もちろん、そんなわけはなかった。無意識であっても(無意識だからこそ、というべきか)、一日中溜め息が出続けている状態が健康的なわけがない。でも、私がそんな状態になったおおよその目星はすでについている。
おそらく、これは今朝の天王野さんとの会話が原因だろう。現に、今日私は一日中天王野さんのことを考えており、心配していた。それもそのはずだ。天王野さんがあれほど大事にしていたリボンが、なぜか継ぎ接ぎだらけになってしまっていたのだから。
それに、今朝の状況を思い返せば思い返すほど、天王野さんは悲しそうな表情をしていて、私に助けを求めていたように思えてくる。ただ、いくらそのことを考えてみても、明確な結論は導き出せない。でも、天王野さんがその小さな胸に何かを抱えているのは明白だ。
もちろん、殺人を犯してしまったこと(私の推理ではほぼ確定事項となっている)や、リボンが継ぎ接ぎだらけになっていたこともその理由に含まれるだろう。しかし、私は自分では解決できないことが分かっているにも関わらず、その違和感を拭うことができないまま、もどかしい気持ちを抱えて過ごしているしかなかった。
ふと周囲を見回してみる。私のすぐ近くには今だに土館さんがおり、教室の中には十数名のクラスメイトや友人グループの三人の姿が見える。でも、天王野さんの姿は見当たらなかった。
おそらく、もう家に帰ったのだろう。そう考えるのが普通であり、それ以上は考える必要はない。そういえば、放課後にもう一度天王野さんと話をしようとか考えていたけど、結局それは実行できそうにない。さすがに、一人で天王野さんの自宅に行くのは何が起こるか分からないから危険だし、今さら連絡して呼びつけるわけにもいかない。
今日はもう何もできそうにない。私は本当に、本心から天王野さんのことを元の状態に戻してあげたい、救ってあげたいと思っているのに、現実はそううまくはいかない。『改めて』この世界の非情さを痛感した私はそろそろ自分も家に帰ろうと思い、少し顔を俯けながら立ち上がろうとした。
そのときだった。
「金泉ちゃん、一時間目が始まる前に廊下で天王野ちゃんと話していたよね? そして、金泉ちゃんの様子がおかしくなったのは、その直後の一時間目開始あたりから。もしかして、そのときに天王野ちゃんと何かあったの?」
「……え?」
何の前触れもなく、それまでずっと満面の笑みのまま私のすぐ傍に立っていた土館さんがそんな質問を投げかけてきた。突然のことだったということもあり、何のことを聞かれているのか理解できなかった私は、何気なく顔を上げた。
私が見た先には、あと数センチ顔を上げる位置が上だったらお互いの顔同士がぶつかってしまいそうなくらいに、腰を屈めて私に顔を近づけている土館さんの姿があった。しかも、その土館さんには表情がなく、雰囲気は明らかにおかしく、声色も冷たかった。
「あ、あの……土館さん……? な、何でこんなに顔を近づけているのかしら……? 非常に立ち上がりにくいので――」
「何か不満? 別に構わないでしょ? 女の子同士なんだし、何か変なことが起こるわけでもないよ」
「い、いえ、そういうことではなくて――」
「それで、天王野ちゃんと何かあったの?」
「……何でそんな質問をされるのかしら? 私は別に、天王野さんとは何も――」
「私は金泉ちゃんに『天王野ちゃんと何かあったのか』ということについて聞いている。金泉ちゃんが私に質問をする必要はない。でも、金泉ちゃんは私の質問に答える必要がある。これは権利ではなく、義務。自由ではなく、強制。抵抗は許されず、それでも抵抗するならどんな手段を使ってでも言わせる。さあ、答えは?」
「……っ」
はたから見れば、今の私と土館さんの姿は少々滑稽に見えていることだろう。女子高校生二人が教室の中でお互いの顔を極限まで近づけて見つめ合っているのだから。でも、幸いなことにも今は放課後なので、クラスメイトたちはそれどころではなく、余程の物好きでなければ私と土館さんの姿を見てはいないだろう。
それにしても、やはり最近の土館さんは時折狂気が垣間見えるときがある気がする。何がきっかけで、そして、何が土館さんのことをこんな風にしたのかは分からない。ただ一つだけ明確にいえるのは、『最近の土館さんは異常』だということだけだ。
普段の学校生活では今まで通りの『正常な土館さん』なのにも関わらず、こうして何かのスイッチが入ると『異常な土館さん』に変身する。それはまるで、土館さんの中に二つの人格があって、その狂気に染まっているほうの人格がつい最近封印から解かれた、みたいな感じにすら見える。
いや、どこからどう見ても、誰がどう見てもそうなのに、二重人格だなんてあまりにも現実味がなさ過ぎて説得力に欠ける。それに、現代医学で治せない病気なんてほとんどないのだから、そんな二重人格なんて現実離れした病気にかかっているのなら、幼少期のうちに定期検査に引っかかって治療を施されて完治しているはずだ。
少々思考がぶれてしまった。今私が最も考えるべきは、『土館さんが二重人格か否か』ということではない。そんな答えの出ない問題をいくら考えたところで意味はない。私が最も考えるべきは、『異常な土館さん』に聞かれた質問にどう返事をするかということだ。
今だに、『異常な土館さん』は微動だにせずに、体勢を変えることなく、一瞬たりとも私から視線を外すことなく、私の顔に自分の顔を近づけて凝視している。そんな土館さんに対して軽く恐怖を覚えた私は、自分の腕や足が小刻みに震え始めてきたのを実感し、しだいに言葉が出なくなっていくのがよく分かった。
「あれ? 逸弛? どこに行くの?」
「あ、ごめん、沙祈! 僕はちょっと寄り道してから家に帰るから、沙祈はみんなと一緒に帰ってきてくれるかい? 約束通り、夜には沙祈の家に行くから!」
「え……? 何か用事でもあるの? 寄り道するくらいならあたしもついて行くけど――」
「大丈夫大丈夫! 大した用事じゃないし、そんなに時間もかからないと思うから! それじゃあ、またあとで!」
「い、逸弛!? 待っ――」
一瞬、土館さんから気を逸らしたとき、そんな会話が聞こえてきた。その会話を聞いた私はふと自分の意識がどこかから現実世界に引き戻されたような感覚になり、土館さんから数歩後ずさりをして顔を遠ざけ、火狭さんと水科さんがいる方向を見た。
丁度水科さんは教室から出る直前だったらしく、小走りで廊下に出て行った水科さんの後ろ姿が見えた。また、そんな水科さんを追いかけるべく、手を伸ばしながら声をかけようとしている火狭さんの姿も見えた。しかし、火狭さんの手も声も水科さんに届くことはなく、教室の自動ドアは閉まった。
その後、少々顔を俯けて今にも泣き出しそうな悲しそうな表情をしている火狭さんだけが残っていた。私と、二人のその会話を聞いていた教室に残っていた数名は、そんな火狭さんのことを眺めているばかりだった。
すると……、
「ほらほら! 水科君も何か理由があって火狭ちゃんを置いていかないといけなかったんだよ! だから、そんなに落ち込まないで!」
「……あんた……何で……」
気がつくと、つい先ほどまで私のすぐ近くにいたはずの土館さんはすでにそこにはおらず、代わりに火狭さんがいるところへと行っていた。私が目を離している隙にいつの間に移動したのか分からなかったけど、それ以上に私としては、つい先ほど私と話しているときと比べて、土館さんの様子が変わり過ぎていることに驚きを隠せなかった。
この状態の土館さんはいわゆる『正常な土館さん』なのだろう。もっとも、本人が『正常』と『異常』の切り替えを意識して行っているとは思えないので、どうするわけにもいかないけど。それに、もし意図的に切り替えを行っているのであれば、土館さんの根本的な人格を疑わざるをえなくなってしまう。
「『何で』って、それはもちろん、私たちがトモダチだからでしょ?」
「でも……あたし、今までずっとあんたに――」
「……いいのいいの、そんなこと気にしないで。それに元々、私は火狭ちゃんと険悪な関係のままでいたかったわけじゃなくて、こうしてただ一人のトモダチ同士として話したかっただけなの。火狭ちゃんだって、本当はそうだったんでしょ?」
「それは……そう……だけど……」
「本当!? ということは、今日から私たちは改めてトモダチになったってことだからね! これからはよろしくね、火狭ちゃん! あと、元気出してね!」
教室の後方部分で繰り広げられる、女子高校生による平凡な青春ドラマのワンシーンような光景を見ながら、私は思った。『そういえば、火狭さんと土館さんは非常に仲が悪かったはずだな』と。
何が二人のことをそうさせているのか、火狭さんと土館さんは常日頃から非常に仲が悪い様子を私たちに見せている。ある些細なきっかけで過激な口喧嘩に発展したり、場合によってはヒートアップして殴り合いの喧嘩になることもある。
私はそんな二人の喧嘩を止めに入ったことはなく、うるさいと感じながらも、知恵の輪を解きながら、人間という生き物の生態を観察をしていた。人がどれほど私利私欲にまみれていて、どれほど傲慢で自己中心的なものなのかを。
もちろん、私のその行動・思考はあの二人の友人として以前に、人として最低なものなのだということは理解している。そもそも、私はこんなことしか考えられない自分のことが好きではないから、自分の人間的な価値が下がろうと構わない。だからといって、これは私の個性というか本質的なものだと思っているので、わざわざ治すつもりもないけど。
でも、少なくとも、私のそのときの思考が誰かに読まれたりしなければ、二人を傷つけることはない。喧嘩を止めに入ったことがない友人は他にもいるし、そう考えれば、別に構わないのではないだろうか。あの二人がどう喧嘩しようと、私がどう考えようと。
それに、何も私はあの二人に喧嘩を続けてほしいと思っているわけではない。ただ単純に、争い事に巻き込まれたくなくて面倒なことはしたくなかったからこそ止めに入らず、自分の中では少しでもプラスに考えられるように努力していただけにすぎない。
そんな二人が仲良くなってくれて、今度一切喧嘩が起きないのであれば、万々歳だろう。これで日常を静かに平穏に過ごすことができる。ただ、あの二人の仲はそう簡単に修復できるようなものではなく、ほとんど修復不能なほどの溝が入っていたように思えた。
それなのに、土館さんはそんな過去の記憶を忘れたかのように、火狭さんと会話している。どちらかといえば、火狭さんはあまりに予想外の行動を取っている土館さんの雰囲気に流されているような感じがするので、あまりあてになりそうもない。
「土館……ううん。誓許……ありがと」
「うん、どういたしまして! それじゃあ、一緒に帰ろっか! 夜にまた水科君と会うんだったら……よし、それまでは私『たち』と一緒にいよう!」
「あたし『たち』?」
「おーい、金泉ちゃーん! 話は聞こえたよねー?」
「え? ええ。私は別に構いませんが――」
「じゃ、そういうことになったから、お店が閉まっちゃう前に早く行こう! たまには男の子は抜きで、短時間だけど、簡単な女子会といこうじゃないかー!」
「お、おー!」
考え事をしていると、よく分からないままに私も土館さんのテンションに流されてしまっていた。まあ、今の『正常な土館さん』であれば、いつ豹変するかは分からないものの、最初から『異常な土館さん』の状態よりは、比較的安全にいられるだろう。それに、今回の場合は火狭さんもいるし、それほど時間も長くはならないと思うので、危険はないはずだ。
「それにしても、火狭ちゃんって本当におっぱい大きいよねー。もみもみ」
「こ、こらっ! ま、まさか誓許! 急にあたしと仲直りをして慰めたのって、それが目的!?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどね。ふと視界に入って見てみたら大きいなーって思ったから、つい。ほら、大きくて形がよくて揉み応えがありそうでしょ? もみもみ」
「そ、そんなところ揉んじゃだめ……っていうか、ちょっと待って!? ここ、教室の中だから! みんな見てるから! さすがにこんなところで……いや、あとでいくらでも触っていいから、せめて学校の敷地内を出てからに――ひにゃあっ!?」
「もー仕方ないなー。あ、ちなみに、何センチあるの?」
「え? 一応、この前逸弛に測ってもらったときは九十――って、言わせないでよ!」
「へー。一の位が聞こえなかったけど、試し揉みしてみた感じでは私よりは大きいみたいだね。もみもみ」
「『試し揉み』って何!? というか、もうそろそろ本気でまじでやめてくれる!?」
珍しく火狭さんが常識人で、土館さんが非常識人に見えてしまう会話が聞こえてくる。土館さんとしては落ち込んでいた火狭さんのことを励ましてそうしていたのだとは思うけど、少々やり過ぎな感じもした。ただ、火狭さんはこれまでずっと険悪な関係にあった土館さんと仲良くなれたことで気分が高揚していたのか、満更でもないようにも見えた。
それにしても、火狭さんってそんなにあったのか……。土館さんも、制服を着ているときは分からないけど、制服以外の私服や体操着などを着ると途端に大きく見えるから不思議だ……。私の場合は逆に小さく見えてしまうというのに……。
それに、二人とも身長は高いわけではないのに、私とは比べ物にならないほど格段に大きい。別に女性の価値がその部分だけに集約されているとは思わないけど、どうしても劣等感を抱かざるをえない。いやいや、きっとこれは遺伝的なものに違いない。悪いのは私ではなく、お母様や金泉家先祖代々そういうものなのだろう。
その後、私たち三人はテキトウに街中を歩き、喫茶店に入って軽くお茶をしてからそれぞれの家に帰った。この二人の珍しい組み合わせと一緒にいるというのは初めてのような気もしたので、変に緊張してしまったけど、無事に何事もなく終えることができた。
私たちがただの女子高校生としてごく平凡でありきたりな放課後の時間を過ごしているとき、その裏では何かが起きていた。ただし、誰と誰の間で何が起きたのか、私がそれを知るのはもう少し後になってからのことだった。