第8話:【ズデーテン・ラブソディ】
皆様、おはようございま~す♪
本日は真面目に朝と夜遅くしか時間が開かなさそうな暮灘です(^^;
さてさて、今回のエピソードは……
ようやく【PPGなんちゃって近代欧州史】もラスト♪
大体の欧州第二次大戦物でも割りと軽く流されがちな……
【ズデーテン地方の割譲】
がメインテーマですよ。
実はズデーテン地方の一連の動きって、第二次大戦に至るまでの流れの中で【政治的な意義】は凄く大きいと思うんですよ。
欧州の戦争は、移民と政治と歴史はとんでもなく根深いですから(^^;
相変わらず捏造(特にプロイセン絡み)と史実の混じるエピソードですが、歴史書を紐解く感覚で楽しんで頂ければ嬉しいッス☆
欧州の歴史は、移民の歴史と言っていい。
例えば【ゲルマン大移動】の歴史的意義……今の欧州の原型を作った事を考えれば、それも納得いくと思う。
しかし、世界大戦(第一次世界大戦)を契機として様々な要因が重なり保守化の流れとなり、欧州東西移民が著しく制限を受け始めた1930年代中期以降……
プロイセンとオーストリアを大雑把な境界線として別れた【国家間の経済格差】が鮮明化した"スペイン内乱"以後は、著しく制限された移民に代わる、"新たな潮流"が生まれる事になる。
そう、西部諸国に隣接した貧しい東部国家の地方が、経済的に豊かな西部国家に帰属を望むという動きが出てきたのだ。
その代表格が、チェコスロバキアの【ズデーテン地方】だった。
☆☆☆
元々、ズデーテン地方はチェコスロバキアの西方外縁部にあるプロイセンに接した土地で、オーストリア=ハンガリー帝国時代から【東方移民(ドイツ方面からの移民)】を積極的に受け入れ、ゲルマン(ドイツ)系住民が多い地区だった。
世界大戦後は新国家のチェコスロバキアに編入されたのだが……
実は1919年のポツダム条約締結の際、オーストリアはズデーテン地方のチェコスロバキアへの編入をゲルマン系住民の多さ故に反対し、どうしても編入するなら住民投票をすべきと主張する。
またアメリカも、民族の行動は自ら定めるべしとする【民族自決】の原則からプロイセンへの編入を支持したが、安全保障の観点からフランスが強硬に反対したのだ。
プロイセンの本国への手出し(例えば、史実のようなラインラントの非武装化等)が出来ない以上、フランスにしてみれば譲れない一線だったのだろう。
言い方を変えれば、プロイセン本国の無傷存続を認める代わりに、ズデーテンは見捨てろと要求したのだった。
☆☆☆
結局、敗戦国のオーストリアの意見は黙殺され、プロイセンの戦後処理を早期終了させたいアメリカはフランスに妥協(プロイセンはアメリカの決定に従うとだけ表明していた)し、ズデーテン地方はチェコスロバキア領になった。
こうして、ゲルマン系住民は310万人もの【チェコスロバキア国内最大の少数民族】を形成することになったのだ。
だが、そんな経緯があるのだから終戦直後からプロイセンへの帰属を望む風潮があったのは、住民感情を考えればむしろ当然だった。
それが激化したのは、"世界不況"とそれを物ともしない(ように見えた)プロイセンの驚異的な経済発展と、それに牽引されるオーストリアの姿を見た時だ。
決して成功してるとは言えないチェコスロバキアの経済政策のせいで貧窮してる自分達を鑑みれば、たまたま戦後処理の関係でチェコスロバキアに編入されただけで……
『同じゲルマン人なのに、何故……』
と思うのは当然だろう。
ならば、
『我々はゲルマン人なのだから、チェコスロバキアではなくプロイセンに属するのが当然』
という強い要望が再燃するのは、自明の理だった。
**********
実はズデーテン地方の動きは、チェコスロバキア政府の失策という側面もあるのだ。
チェコスロバキアは建国当時から、【少数民族保護条約】を締結していたにも関わらず、1920年に公用語がチェコスロバキア語に統一され、ドイツ語が公的な場所……それこそ地名からすら駆逐され、ドイツ人学校は半ば強制的に次々と閉鎖されていった。
世界不況ではチェコ人(ボヘミア人、ボヘミアン)優先の経済/雇用政策が取られ、ズデーテン地方はその影響が最も強く受け、他の地方に比べて失業率は2倍以上に達したという……
これでは【プロイセン帰属運動】の機運が盛り上がらない方がおかしい。
しかし、チェコスロバキアの初代大統領も1935年にマサリクの跡目を継いだ《エドヴァルド・ベネシュ》もズデーテン地方……いや、チェコスロバキア在住のゲルマン系住民に対して常に強硬だった。
自分達がゲルマン人達に差別的待遇をしてる事を自覚していたのか、プロイセンを警戒して世界不況前にズデーテン地方に【スケールダウンしたマジノ線】とも言える要塞線を設営していた(史実でもドイツを警戒して世界恐慌前に同様の要塞線を設営している)。
蛇足ではあるが……
PPGの世界では、【マジノ線】は構想だけで、着工前に廃案になっている。
これはプロイセンの民主化が明らかであった事に加え、また世界不況の影響でフランスも緊縮財政となり、
『敵対脅威度が下落したプロイセンに対して、果たして巨額の予算をかけて要塞を建造する必要があるのか?』
と疑問視されたからだ。
マジノ線計画は早い段階で頓挫し、その浮いた予算でフランスでは海軍艦艇や戦車、航空機の整備や近代化が進んだようだ。
またマジノ線が存在しない以上、史実ではドイツが設営した【ジークフリート線】は存在しない……というより、構想や計画すらも存在していない。
☆☆☆
話をズデーテン地方に戻すが、チェコスロバキアが多民族国家を自覚していたオーストリア=ハンガリー帝国より悪辣な……【少数民族保護条約】を無視するが如く政策をゲルマン系住民に取り続けた結果、30年代初頭にはズデーテン地方で民族系政治運動が起きる。
そう33年に結党されたコンラート・ヘンライン率いる【ズデーテン・ゲルマン郷土戦線(史実ではズデーテン・ドイツ郷土戦線)】だ。
物騒な名前だが断じてテロ組織等ではなく政治政党であるが……
やはり名前がヤバ過ぎると思ったのか、チェコスロバキアで選挙が行われる1935年には【ズデーテン・ゲルマン人党(史実はドイツ人党)】に改名された。
そして、同年の選挙ではチェコスロバキアのゲルマン系住人の圧倒的な支持を集めて15%近い得票率を獲得、一気にチェコスロバキアの第2政党へと躍進したのだ。
☆☆☆
ゲルマン人党は政府に参加せずに国政に干渉しない(国政は多数派のチェコ人に委ねる)見返りに、ズデーテン地方の自治権を求めた。
しかし、これで面白くないのが、1935年の選挙で"建国の父"トマーシュ・マサリクの跡目を継ぐ形になった前述のエドヴァルド・ベネシュだ。
ベネシュは極めてソビエト(スターリン)寄りの政策を好む人物で、思想的には"アカ"と言ってよかった。
そんな彼にとっては戦後は資本主義の権化となり、手の平を返したようにアメリカの手先となり暴利を貪る(ように見えた)プロイセンは、多分に許しがたい国だったろう。
更にスペイン内乱後の1936年には時代錯誤の多国籍狂信的宗教団体……とベネシュは考えていた【CETO(欧州十字教条約機構)】に加盟、真っ向から共産主義と対立するというのだ。
ベネシュにとり、そんなプロイセンに迎合しようとする国内のゲルマン人は、きっと国家の裏切者に見えたに違いない。
だからこそベネシュは1937年、ズデーテン地方におけるゲルマン人集会を全面的に禁じた。
更に同年、チェコスロバキア警察がズデーテン地方でゲルマン人党員を襲撃、暴行を加えるという事件が時を置かずに起きる。
それが報道されるやいなや、前々からゲルマン系住民の扱いの酷さに立腹していたプロイセン世論が沸騰。
ついにズデーテン地方は国際問題に発展したのだった……
☆☆☆
当初、プロイセン政府と第二次内閣を組閣したばかりの現プロイセン皇国大統領である《ハインリヒ・ブリューニング》は事態の沈静化を図り、穏便な解決を狙っていた。
しかし、1938年に恐れていた事態が起こる。
そう、チェコスロバキアがズデーテン地方に軍を集結させたのだ……
実はこれ、『プロイセンがズデーテン地方に攻め込む為に軍を集結させている』という"誤報"に、チェコスロバキアが過剰に反応しただけという事が後になり判明するのだが……
チェコスロバキアに駐在していた英米仏のマスメディアが、
『チェコスロバキア軍、ついにズデーテン地方のゲルマン人を武力鎮圧かっ!?』
と大きく報じたのだ。
☆☆☆
寝耳に水だったのは、ブリューニング・プロイセン大統領やプロイセン政府高官だ。
例えば、当時のプロイセン国防大臣だった《ヴィルヘルム・グレーナー》の驚愕っぷりは、報告された時に別件で取材していたイギリス人記者により克明にレポートされている。
戦争準備が整ってないこの時点での武力衝突を、なんとしても避けたいブリューニングは、ベネシュ・チェコスロバキア大統領に緊急会談を申し込むのだが、思い込みから徹底抗戦を覚悟していたベネシュは『話し合いの余地はない』とばかりにそれを拒否。
困惑したブリューニングはアメリカ大統領の《フランクリン・デラノ・ルーズベルト》だけでなく、イギリスの《ネヴィル・チェンバレン》首相、フランスの《エドゥアール・ダラディエ》首相に相談、プロイセンの都市【ミュンヘン】にて会合が持たれた。
後に言う【ミュンヘン会議】である。
☆☆☆
【自国民間人に武力弾圧】の嫌疑が世界中へ一斉に報道され、国際的批難を浴びて信用を失墜させたチェコスロバキア……
何をベネシュが言おうと申し開きしようと、状況証拠が揃い過ぎていた。
建国直後からのゲルマン系住人に対する差別的待遇……
事実上のドイツ語禁止令……
チェコ人最優先の政策とズデーテン地方の異常な失業率……
スターリンやソビエトとの接近の数々……
ゲルマン人集会の禁止……
ゲルマン人党員に対する公的権力からの暴行……
そして、ベネシュ自身の会談拒否……
ミュンヘン会議にて、英米仏三国はズデーテン地方のプロイセン皇国への割譲を許諾。
また、【ズデーテン割譲編入決議】は臨時国連決議で賛成多数で可決され、またチェコスロバキアに対しては【欧州の平和を不用意に乱した】事に対する批難決議が採択された。
☆☆☆
ベネシュにとってはまさに悪夢だったろう。
ズデーテン地方をプロイセンに割譲しなければ、国際世論を敵に回した自国はプロイセンどころかCETO全てに加えてイギリスやアメリカまで加えた連合軍相手に戦争しなければならないのだ。
そしてズデーテン地方は、【プロイセン皇国の一地域】として再出発をきり、国際世論に膝を屈する形になったベネシュは、帰国後に閣僚共々総辞職の憂き目を見るのだった。
**********
「……とまあそんな具合にベネシュは下野したからこそ、39年の【平和な離婚(チェコとスロバキアの分離:第1話を参照)】の調停ができたんですがね……」
実際にマサリク→ベネシュと続くチェコ人を優先し過ぎた政策は、ゲルマン人程でないにせよ国内のスラブ人(スロバキア人)の不満を醸成していたのだ。
それがゲルマン人のように爆発して国際問題に発展する前に、当時のチェコスロバキア政府が解決しようとしたのが【平和な離婚】の真相だった。
「だが、ベネシュは大統領から引き摺り下ろされたとはいえ、【チェコ国内の共産主義勢力】って厄介なバックボーンがあるからなぁ……」
クナイセンは一度言葉を切ると、
「だから、ポーランド侵攻に呼応して、潜伏してる【社会/共産主義感染者】どもが"騒ぎ"を起こす可能性は低くない……その場合、スロバキア分離に不満を持ってる不穏分子だって合流するだろうさ」
大尉が頷くのを確認してからクナイセンは、
「だから、俺達はスロバキアに行くのさ。アカが来たら戦うのは当然。だが同時に、」
今度はさりげなくまだ若い二人の小隊長を見ながら、
「不満だらけのハンガリアンと赤いボヘミアンが、混乱に乗じて悪さしないよう睨み効かせる為に、な」
そして、少し嫌気のさしたような顔で自分自身に言い聞かせるように……
「俺達が戦争するのは、そういう場所なのさ」
次回へと続く
皆様、ご愛読ありがとうございましたm(__)m
【クナイセン、PPG欧州近代史を語る】のラストは如何だったでしょうか?(^^;
プロイセンに関わりパートは基本的に捏造なのですが……
恐ろしいのは、【チェコスロバキアのズデーテン地方への政策】は、ほぼ史実のまんまなんです(汗)
なんか、第二次大戦の欧州ステージは、【ナチスだけが悪い】って意見が多いですが、【ナチスが一番悪い】かもしれませんが、他の国だって十分にマズイ政策とかしてるんですよね~(;^_^A
ともあれ、次回からいよいよスロバキアへの移動パート、もしかすると戦闘パートが入るかもしれませんが、楽しみにして貰えれば嬉しいです♪
それでは、皆様にまた次回お会いできる事を祈りつつ(__)




