現在の環境だと不幸になる未来しか見えないので駆け落ちしました
「サンドラ……」
「お母様……!」
ベッドに横たわる女性が手を伸ばすと、サンドラと呼ばれた少女がその手を握る。
サンドラの目には涙が溜まっていた。
周囲には、医師や使用人が待機している。
随分と痩せ細ってしまった手だと、サンドラは母の手を握りながら思った。
サンドラの母ドゥルセは病に侵されており、ここ数日で症状が悪化していた。先は長くないだろう。
「お母様、どうかお願いです。私を置いて逝かないでください」
サンドラの目からは涙が零れ落ちる。
ペリドットのような緑の目から零れ落ちる涙は、まるで水晶のようだった。
「泣かないで、サンドラ」
サンドラと同じペリドットの目を、優しく細めるドゥルセ。その目には涙が溜まっていた。
サンドラと同じブロンドの髪は、艶やかさを失いつつある。
「サンドラ、どうか幸せになって」
それがドゥルセの、母から娘に贈る最期の言葉だった。
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「おい、サンドラ! どこにいる!?」
「はい、お父様、ここに」
父ブニファシオの怒声が聞こえ、サンドラは慌てて返事をする。
掃除をする手を止め、急いでブニファシオの元へ向かったサンドラ。
きめ細やかで美しかった手は、たった一ヶ月で荒れが目立ち始めていた。
「遅い!」
「申し訳ございません。何かご用でしょうか?」
「領地で問題が生じたと連絡があった。お前が対処しろ」
どうして当主であるブニファシオではなく、娘である自分がやらなければならないのかと思うサンドラ。しかし以前それを口にしたら問答無用で打たれた。だからサンドラは黙って従うことしか出来ない。
「……かしこまりました」
するとサンドラの返事に満足したようで、ブニファシオは上機嫌になる。
「あら、ブニファシオ様」
甘ったるく下品な声が聞こえた。
「おお、ヴェラ、どうしたのだ?」
顔を見なくても、ブニファシオがニマニマとしていることが想像出来てしまう。サンドラは俯き唇を噛み締めた。
「使用人にお菓子を用意させましたの。娘のマルタも待っていますから、お茶にしませんこと? 家族三人水入らずで」
「それは妙案だな。流石はヴェラだ。この俺が愛する唯一の女」
ブニファシオとヴェラのやり取りに、サンドラは俯きながら表情を顰めた。
「あら、サンドラ、いたのね」
「……はい、お義母様」
ヴェラに声をかけられ、サンドラはそう返事をした。
「あんたはさっさと掃除を終わらせておきなさい」
「……かしこまりました」
サンドラはそう答えるだけだった。
その答えに満足したのか、ヴェラはブニファシオを連れてその場を離れた。
下品な二人の声がやけに耳にこびりつく。
言いたいことは色々あるが、サンドラが口答えをすると打たれるなど暴力を振るわれることが分かりきっていた。だからサンドラは我慢するしか選択肢がなかった。
今年十六歳になるサンドラ・ドゥルセ・デ・ケイロスは、グロートロップ王国のケイロス伯爵家長女として生まれた。
実母ドゥルセが生きていた頃は幸せだった。しかしドゥルセが亡くなり一ヶ月も経たないうちに父ブニファシオが後妻として平民のヴェラをケイロス伯爵家の王都の屋敷に連れて来た。おまけにヴェラの娘であるマルタはサンドラより二つ年下で、顔立ちがブニファシオにそっくりである。そこでサンドラは察してしまう。ブニファシオは以前からヴェラと繋がりがあったのだと。
ヴェラとマルタがケイロス伯爵家の王都の屋敷に来て以降、サンドラの立場はじわじわと悪くなり始めた。
ブニファシオからは領地経営の仕事を押し付けられ、ヴェラからは使用人のように扱われ、義妹マルタからは少しずつ私物を奪われていた。おまけにサンドラの味方になってくれた使用人は全員解雇されてしまう。まだ食事を抜かれたり、尊厳を奪われた生活を強いられていないことがせめてもの救いであるが、今後はどうなるか分からない。
(あ……)
ふと窓の外に目を向けると、見知った顔があった。
サンドラの婚約者、アタイデ伯爵家次男ゴンサロだ。
彼はマルタと楽しそうに話をしている。
ドゥルセが亡くなりヴェラとマルタが来て以降、ゴンサロもサンドラに冷たくなっていた。
ケイロス伯爵家はサンドラの生家であるにも関わらず、誰も味方がいない状況となってしまった。
しかしサンドラはまだ自力でどうにか出来る力はなく、ケイロス伯爵家に留まることしか出来なかった。
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数日後。
ケイロス伯爵家と交流のある公爵家で開催される夜会に、サンドラは参加していた。
ブニファシオやヴェラから、夜会などへの参加は認めてもらえているサンドラである。
しかし、マルタから流行りのデザインのドレスは奪われているので、サンドラはドゥルセの形見であるドレスを着て夜会に参加していた。
おまけに少し荒れた手を隠す為、手袋を着用している。
ちなみに、マルタはまだ十四歳で成人していないので、夜会には参加出来ないのである。
(このドレス、まるでお母様に守られているみたいだわ)
胸に手を当て、サンドラはドゥルセを懐かしむように微笑んだ。
マルタにこのドレスを奪われなくて良かったと思うサンドラである。
一通りの交流が終わると、サンドラはバルコニーで夜風に当たる。
心地良い風により、サンドラのブロンドの髪がなびいた。
(帰りたくないわ)
ため息をつくサンドラ。
夜空を見上げると、星々がダイヤモンドのように輝いていた。サンドラの心とは真逆の夜空である。
今のケイロス伯爵家は、サンドラにとって居心地が悪くなりつつあるのだ。
すると、サンドラの背後から足音が聞こえた。
ハッとして振り返るサンドラ。
端正な顔立ちの青年が、そこに立っていた。アッシュブロンドの髪に、アクアマリンのような青い目の持ち主だ。
サンドラはホッと肩を撫で下ろし、ゆっくりとカーテシーで礼を執った。
「サンドラ嬢、楽にしてくれて構わない」
頭上から品のある声が降って来たので、サンドラはゆっくりと姿勢を戻す。
「ご機嫌よう、マヌエル様」
胸の鼓動が速くなる。
ペリドットの目は嬉しそうに輝いていた。
マヌエル・アミディオ・デ・ラ・エンセナーダ。
彼はサンドラより二歳年上で、グロートロップ王国の北に隣接するニサップ王国のラ・エンセナーダ侯爵家長男だ。
見聞を広げる為に、昨年からグロートロップ王国に滞在中らしい。
サンドラは昨年から彼と交流があった。
見目麗しく物腰柔らかなマヌエルに、サンドラは密かに好意を抱いていたのだ。
しかし、サンドラには一応ゴンサロという婚約者がいるのでマヌエルへの好意を表に出すようなことはしていない。
「サンドラ嬢、君のお母上の件、お悔やみ申し上げるよ」
「恐れ入りますわ、マヌエル様」
マヌエルの言葉に、サンドラは眉を八の字にして返す。
隣国出身とは思えない程、マヌエルはグロートロップ王国の言葉が流暢だった。
「サンドラ嬢、君のお父上……ケイロス伯爵閣下が後妻を迎えたと聞いた」
「ええ……。お母様が亡くなって一月も経たないうちに……。二つ下の義妹もやって来ましたの。お父様と本当にそっくりで……」
サンドラはため息をついた。
「そうか……」
その時、マヌエルはサンドラが手袋を着用していることに気付く。
「あれ? 君、以前は手袋を着用していたっけ?」
マヌエルは意外そうにアクアマリンの目を丸くしていた。
「ああ、これは……」
サンドラはどう言い訳するかを考えたが、最もらしい言い訳が思い付かず、手袋を外すことにした。
「その手、どうしたんだい?」
少し荒れ始めているサンドラの手をそっと掴み、まじまじと見つめるマヌエル。
それに対し、サンドラは少し気恥ずかしくなった。
「えっと、実は……」
サンドラはドゥルセが亡くなって以降、ケイロス伯爵家でどのような扱いを受けているかを説明した。
「それは……あまり良くない状況だね」
「ええ。ですが、まだ大したことではありませんし……」
サンドラはため息をついて苦笑した。
「ではサンドラ嬢、このままケイロス伯爵家にいて君は幸せになれそうかい?」
マヌエルのアクアマリンの目が、真っ直ぐサンドラに向けられる。
「それは……」
サンドラは答えに困ってしまう。
このままケイロス伯爵家にいても良いことはないと、サンドラも分かっていた。
「サンドラ嬢、僕は君に不幸になって欲しくないんだ。君には、幸せになって欲しい」
真っ直ぐなマヌエルの言葉が、サンドラの胸に染み渡る。
『サンドラ、どうか幸せになって』
同時に、母ドゥルセの最期の言葉を思い出した。
(お母様……マヌエル様……)
サンドラの目からは、一筋の涙が零れる。
「マヌエル様、私、幸せになりたい。ケイロス伯爵家から逃げたいですわ」
それがサンドラの本音だった。
するとマヌエルの口角は弧を描くように上がる。
「サンドラ嬢、今君の目の前にはとても都合の良い状況があるよ。まず、今サンドラ嬢の目の前にいる男は、君に惚れていて妻として迎えたいと思っているくらいだ」
アクアマリンの目は、真っ直ぐ情熱的にサンドラへ向けられている。
「マヌエル様が……私を……!」
ペリドットの目を大きく見開いて驚くサンドラだが、じわじわと嬉しさが込み上げて来る。
「それから、ニサップ王国には我がラ・エンセナーダ侯爵家と結び付きを強くしたいと思っている伯爵家があるんだ。そこの当主は僕の父上と仲が良くてね。ラ・エンセナーダ侯爵家も、その伯爵家との結び付きを強めたい。でもその家には娘がいない。もしその家に僕と歳が近い娘がいたら婚約者になっているだろうね。もちろん、養子入りした娘だとしても」
その話を聞かされたサンドラの答えはもう決まっていた。
「マヌエル様、今すぐ私を攫ってください」
「サンドラ嬢、その言葉を待っていたよ。ニサップ王国へ向かう馬車を今すぐ用意しよう」
そこからサンドラとマヌエルの動きは早かった。
二人はこっそりと夜会を抜け出し、馬車に乗り込んでニサップ王国に向かったのである。
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二年後、ニサップ王国ラ・エンセナーダ侯爵城にて。
「サンドラ」
「マヌエル様」
夫となったマヌエルに名前を呼ばれ、サンドラは花が咲いたように表情を綻ばせた。
あの日の夜会で、サンドラはすぐにマヌエルと駆け落ちをした。
ニサップ王国に来てからは、マヌエルの紹介でラ・エンセナーダ侯爵家と親しく更に繋がりを強化することを望む伯爵家に養子入りしたサンドラ。その後、程なくしてサンドラはマヌエルの婚約者となり、一ヶ月も経たないうちに二人は結婚したのである。
「サンドラ、体は大丈夫?」
マヌエルのアクアマリンの目は、優しげで心配そうだった。
「ええ、もう大丈夫ですわよ。息子を出産してもう半年も経過したのですよ」
心配性の夫に対し、サンドラは少し困ったように苦笑した。
結婚後、サンドラはすぐに妊娠した。そして半年前にマヌエルそっくりの息子を出産したのである。
「でも、妊娠や出産は女性の体に大きな負担がかかるからさ。出産後も心配なんだよ。サンドラは命をかけて僕の息子を生んでくれたわけだし」
マヌエルから優しく抱きしめられるサンドラ。まるで宝物を扱うかのようである。
サンドラはマヌエルの腕の中で穏やかに表情を綻ばせた。
今のサンドラは、幸せに包まれているのだ。
(お母様、私は今幸せです)
ふとサンドラの脳裏に浮かんだのは、実母ドゥルセの優しい笑みと最期の言葉。
サンドラはそっと胸に手を当て、母を懐かしんだ。
「マヌエル様、私はニサップ王国に来てから、お母様のお墓参りに行けていませんでしたわ」
するとマヌエルは少し考え込んだ後に答える。
「確かにそうだね。そろそろ問題ない頃だろう」
「私体調は問題ありませんわ。ただ、なるべくケイロス伯爵家や元婚約者に会わないようにしたいのですが」
「サンドラ、それに関しては問題ないよ。君を虐げたケイロス伯爵家の奴らや元婚約者に会うことは絶対にないから」
マヌエルの口角は弧を描き、意味深な笑みを浮かべていた。
サンドラは不思議に思ったが、ドゥルセの墓参りに行くことが決まり、グロートロップ王国へ向かう準備で少し忙しくなった。
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サンドラはマヌエルと共に、グロートロップ王国へ入った。
生まれたばかりの息子はラ・エンセナーダ侯爵城で乳母や使用人に面倒を見てもらっている。
「この街並み、懐かしいですわ」
生家があった領地に入り、サンドラは馬車の窓から見える景色に思いを馳せていた。
サンドラの母ドゥルセが眠る墓地はこの近くにあるのだ。
「でも、この土地はケイロス伯爵領。お父様や新たに来たお義母様、義妹のマルタもいるのかしら。元婚約者のゴンサロ様も……」
嫌な顔ぶれを思い出し、サンドラの表情は曇る。
「サンドラ、それは確実にない。君が不安に思うことはもう何もないんだよ」
マヌエルはそっとサンドラを抱きしめた。
「そういえば、マヌエル様はラ・エンセナーダ侯爵城にいた時もそう仰っていましたわね。一体どういうことですか? 何か知っていることがあるのでしょうか?」
サンドラはマヌエルの腕の中で首を傾げていた。
マヌエルの言葉の意味を知ったのは、貴族向けの高級宿屋に到着した時のこと。
サンドラはグロートロップ王国の貴族と思われる者達の会話を聞いたのだ。
「この土地がケイロス伯爵領でなくなって以降かなり繁栄していますね」
「ああ。ケイロス伯爵家は最悪だったからな。ブニファシオ殿は領地経営の才能が全くなかったようだ」
サンドラは貴族の男二人の会話に、ペリドットの目を大きく見開いた。
(ここがケイロス伯爵領ではない……!? どういうことかしら?)
気になったので、サンドラはそのまま聞き耳を立てることにした。
「それはもう有名な話ですよね。それと、後妻だとかいうヴェラと娘のマルタ。あの二人も最悪でしたね。特にマルタなんか、十五歳の成人の儀で王女殿下に不敬を働いて王家を怒らせましたからね」
(マルタ……確かにマナーがなっていなかったわ。お父様達、まともな家庭教師を付けなかったのね)
サンドラは内心やっぱりかと思っていた。
「その不敬でケイロス伯爵家は王家に賠償金を支払う羽目になった。後妻は贅沢三昧、ブニファシオは領地経営能力がない。もちろん支払えるわけなくて爵位を返上する羽目になったと」
「そういえば、マルタの婚約者だとか言っていたアタイデ伯爵家次男ゴンサロ。あいつも同罪でケイロス伯爵家の三人と一緒に社交界から締め出されて平民にならざるを得なくなったそうだ」
(まあ、ゴンサロ様も……)
サンドラはペリドットの目を丸くしていた。
「でも、ケイロス伯爵家のご長女だったサンドラ嬢の行方はどうなったのでしょう? 一時期ブニファシオ達が、サンドラ嬢がいなくなったと騒いでいましたが」
「それは俺も気になるが、サンドラ嬢の行方はいまだに分かっていないそうだ。まあ、ケイロス伯爵家のブニファシオ、ヴェラ、マルタは最悪だったから逃げたのかもしれないな。サンドラ嬢だけは無事であることを祈るが」
「そうですよね」
サンドラは自分の名前が出たことにドキリとした。
その時、背後から小声で「サンドラ」と呼ばれ、抱きしめられた。
「マヌエル様……」
少し驚いたが、マヌエルの腕の中でふふっと微笑むサンドラ。
「もしかしてマヌエル様はケイロス伯爵家やゴンサロ様の顛末をご存じでしたの?」
そう聞くと、マヌエルは悪戯っぽく笑い、「ああ」と頷いた。
「そうでしたの」
サンドラは再びふふっと笑った。
現在マヌエルから愛されて幸せのサンドラは、父、義母、義妹、元婚約者がどうなろうと、もうどうでも良くなっていた。なるべく会いたくはないとは思っていたが。
「サンドラ、君のお母上のお墓参りに行こうか」
「ええ」
マヌエルの言葉に頷き、サンドラは墓地へ向かった。
十字架の下に眠るドゥルセに、サンドラは花を供える。サンドラの肩に、そっと優しく触れるマヌエル。
(お母様、来るのが遅くなって申し訳ございません。私は今、幸せです)
サンドラは穏やかに微笑むのであった。
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