拝月之儀
――どうしてこうなった。
むせ返るような香草と美酒の香り。
四弦一声、絹を裂くが如く鳴り響き、着飾った女官が袖を翻して舞う。
その下で参祭者に交じり、陳元龍は顔を引き攣らせていた。
毎年、中秋の晩には城外の月壇で拝月の儀が行われる。
そこに彼はぶちこまれたのだった。師の身代わりとして。
宮中の恒例行事には高官の参加が義務づけられているが、本物は不在だ。
入壇こそしたが、折を見て抜け出し、先に下男として潜りこんでいた陳元龍とすり替わった。
白晋から借りた外套を目深に被り、仮面の位置を整える。
彼はあの日から今日まで一言も自らの計画について話さなかった。陳元龍が身代わりにされることを知ったのもほんの数刻前のことだ。
上官だろうが師だろうが関係ない。無事に生還できたら一発殴っておかねば気がすまない、と思いながらも陳元龍は周囲に意識を巡らせていた。
集まった高官はそろって質素な格好をしている。
異例の事態に浮き足立っているせいか、幸いなことに、曲が終わってもこちらへ懐疑の視線を寄越す者はいなかった。
月を祀る祝詞が終わると同時に、陳元龍は逃げるように退出した。
耳鳴りがするほどの静夜だった。
白晋から伝えられた道筋に沿って馬を走らせる。
このまま欽天監へ戻るには城内を突っ切る必要がある。城内は広く、少なくとも半刻はかかる。
空を仰げば、歪に欠けた望月があった。
白晋は月食を見事に的中させた。
彼の言動は正確無比だ。ただ、きちんと説明をしないのだから、いつも狂言を言っているように見えるのだ。
今回もそうだ。
徐々に赤く光を失う月を見て、陳元龍は息を呑んだ。
ふと頭によぎったのは、格致について初めて二人で語り合ったあの日の押し問答。
いや、これでは先代と同じではないか。
彼の言葉を狂言と決めつけ、拒絶していたのは他でもない自身だったのではないか。
ただ単に、自分が知ろうとしていなかっただけなのではないか――
そのとき、冷たく尖った笛の音が陳元龍の思考を断ち切った。
異変に気づいた彼は馬を止め、背後に険しい視線を送る。
「何だ……」
星のない夜の闇に黒影が蠢いていた。
恐らくは騎馬だ。それが三つも。
横並びでこちらへ向かってくる影は、まるで押し寄せる荒波のようだった。
それが見る間に大きくなっているのを認めた途端、陳元龍は全速力で馬を走らせていた。
「刺客か!?」
迫り来る殺気から逃げようにも逃げられなかった。先に続くのは人目のない一本道だけだ。
馬は地面を激しく蹴りつけ、猛烈な速度で飛ばしているが、奴らは速く、気づいたときにはさらに速度を上げていた。
追っ手は瞬く間に互いの蹄の音が聞こえるほどの間合いに近づいた。
目前に突き当たりが現れ、陳元龍は馬首を右に巡らせる。
その瞬間、さらに奇妙なことが起こる。左側の道の陰から勢いよく馬車が飛び出してきたのだ。
「待ち伏せか……」
いや、違う。
一拍の後、背後から聞き慣れた声が飛び、彼は己の耳を疑った。
「こっちだ、元龍君!」
馬車の上で手綱を握り、陳元龍に向かって手を降っていたのは紛れもなく白晋だった。
それまで一糸乱れぬ連携を取っていた追っ手の間に動揺が走った。
陳元龍は手綱を引き、崩れた列の間を紙一重で通り抜けると、すかさず馬車に乗り移る。
「一体何だこれは、お前はどこから……!」
「見ての通り大捕物だ! 残念だが休んでいる暇はないぞ!」
白晋がそう言った瞬間、前方から飛んできた何かが馬車の木枠に刺さる。
目を凝らすと矢のようだった。奴らは馬に乗上で体を捻り、後方に向かって矢を飛ばしていた。
「気をつけろ、安息式射法だ! 奴らも正体を隠すつもりはなさそうだな!」
「西域の弓術……あのときの回民か!」
「ご名答! 奴らと我らは不倶戴天の間柄でな、ずっと互いを狙っていたのだ! 奴らがこの好機を逃すとは思わなかったが、念のため煽っておいたらまんまと食らいついた! 自尊心は高いが能無しなのは相変わらずだな、ふはははは!!」
「お前ら蛮族の争いに我々を巻き込むな!」
陳元龍たまらず絶叫した。
「落ちつけ元龍君、我も丸腰で来たわけじゃない! ちゃんと策があってだな……」
「いいから早く何とかしてくれ!」
「ええい、うるさい! こういうのは機会が大事なのだ!」
そう言いつつも、白晋は陳元龍に手綱を預け、紗幕を一枚隔てた奥で何やらごそごそと探っていた。
戻ってきた彼は、肩に自身の顔と同じ大きさの青銅器を担いでいた。
「ふふふ……此度の主役はこいつだ! 我の考えた最強の震天雷試作機!」
紗幕が引き開かれ、丸太のような全貌が姿を現す。
何だ、そのおぞましい武器は。嫌な予感が陳元龍の背筋を冷たく流れる。
「よく聞け! 今からこれをぶっ放すから、馬車が止まったら奴らを縛ってくれ!」
「は!?」
「いくぞ!」
そのとき、腹部に鈍い衝撃が走る。
白晋に蹴られ、紗幕の向こうに飛ばされた陳元龍は頭を馬車の床にぶつけて呻いた。
ほぼ同時に、外で轟音が鳴り響き、目の眩むような閃光が炸裂する。
がくんと馬車は一度大きく揺れ、それきり動きを止めた。
すぐさま我に返った陳元龍は馬車の外へ飛び出した。
見ると、白晋や馬を含めてその場にいるすべてが、目や耳を押さえて、あるいは苦しそうに四肢を動かし、その場にうずくまっていた。
陳元龍は驚く暇もなく、命じられた通りに場を制圧する。
まもなく轟音に気づいた兵が集まってきた。
「ご苦労だった!」
賊を兵に引き渡すと、満足げな声が彼を労った。
しかし、何かを言おうと振り向いた途端、陳元龍は言葉を失う。
白晋が笑顔で耳から血を流していたからだ。
「……大丈夫なのか」
「すまない! 今何も聞こえないんだ!!」
いつにもまして大きな声に鼓膜が震える。
彼は続けて「やはり試作機だな。威力は上々だが、危うく死ぬところだった」と確かに呟いた。
悠然と歩き出し、陳元龍も仕方なくその後をついていく。
一仕事を終えた後の闇は、火薬の残り香がした。
「おお、赤月だ! 見たまえ元龍君! 神が創り、人の支配するこの世のなんと美しいことか!」
白晋の青い双眸に血濡れの月が溶けこみ、深淵の紫が渦巻いている。
幽かな夜光を白銀の髪が照り返す様は伝承に聞く百幻蝶のようで、狂おしいほど美しかった。