格物致知
ある風聞があった。
遥か西方の大国から使いがやってきているのだと。奴らが奇妙な知識や道具を持ちこんでいるのだと。
「さあ問おう、迷える子羊よ! 『格物致知』とはいったい何か?」
最初の講義はそんな問いから始まった。
講義といえど、机を並べていなければ師が前方で四書五経を朗読しているわけでもない。
茶を飲みながら古書を読んでいた陳元龍に、白晋は世間話でもするように言った。
「物に格り知を致す――『礼記』の一節。『自己の誤りを正し、良知を得る』という意味の言葉だ」
「ふむ、従来の経典にそえばたしかにその通りだ!」
からからと音がしたと思えば、どこからともなく現れた人形の少女が茶を運んでいた。
白晋はそれを受け取ると、慣れた手つきで蓋を傾ける。
「ある者は我が教えた知識を格致と称した。だが、さっききみが言ったそれとは少し違うようだな。
ところで、きみは何の本を読んでいたのかね?」
「あ、おい――」
「ほう、『楚辞』か!」
白晋は油断していた彼の手から書物を取り上げると、ぱらぱらと項をめくった。
それは太古より伝わる詩集の一つ、中でも神話に関する問いを並べた一遍だった。
「なになに……太陽に烏が、月に兎が棲んでいるだと? はっ、笑止千万! これを書いたやつは望遠鏡すら使ったことがないんだな!」
陳元龍は白晋の言うことを理解することはできなかったが、彼の口調が濃い嘲りの色を帯びていたためむっとした。
彼は根っからの読書人であり、古賢の知が詰まった書物を特に好むのだ。
「話を戻そう! 我がきみに授けるのは格致、物事の本質を明らかにする学問だ!
それは神が創ったこの世界をとりまく疑問を解決してくれる。そうだな、例えば……なぜ物は落ちるのか? なぜ地球は回っているのか?」
「物が落ちるのは当たり前のことだろう。ただ、私は生まれてこの方、地面が動いていると感じたことはないが」
「否! そんな態度ではいつまで経っても世界を正しく理解できないぞ!」
「それが何になる?」
「すべてを支配できるようになる! きみたちが崇拝してやまない天子はおろか、神をも凌駕する力を手に入れることができる!
この本はきっときみみたいな愚かな草民を惑わすために編まれたのだ! すぐに捨てたまえ!」
「何だと?」
陳元龍は師の手から書物をひったくった。
自身の横柄な口ぶりが弟子を不快にさせたと気づいたのだろう。
白晋は何かを言いかけたが、ついに口にすることはなく背を向けた。
「ちなみに太陽は火の球だし、月はでこぼこしているだけで何もない。当然、鳥獣なんて棲めやしない」
部屋から出ていく前に、彼は一度振り向いて捨て科白をはいた。
「きみは存外夢見がちなところがあるようだな! 無論、この国の人間すべてに言えることだが!
ああ、安心したまえ! これから手取り足取り教えるつもりだ! 我のもとに来たのならば、せいぜい『自己の誤りを正し、良知を得る』ことに身を尽くすといい!」