侯爵令息と侯爵令嬢のモラル低い初恋 〜婚約者が仮面舞踏会にいたんですけど怒って良いですか〜
【仮面舞踏会と婚約者】
「相変わらずレディ・ファントムのエッセイは興味深いな。まさか仮面舞踏会に潜入するとは」
ヴェルマルク侯爵が、南部社交報の一記事を見ながら感心したように言う。
その娘、ユリア・ヴェルマルクが驚きながら返事を返した。
「女性だと言うのに、仮面舞踏会に潜入だなんて、大胆なことをされますのね」
「一説には男なんじゃないか、って噂もあるぞ。どこかの貴族男子が女性の振りしてるのではないか、とな」
ヴェルマルク侯爵の言及に、ユリアは曖昧に微笑んだ。
――その正体は私でございます、お父様。
ユリアの心の内の呟きは、ヴェルマルク侯爵には届かない。
南部社交報について、簡単に説明しておこう。
南部社交報は、この地域の社交界事情をまとめた情報誌だ。王国南部地域の盟主であるルーシェ公爵家から、毎週月曜日の午前中に、地域内の貴族たちに送られる。その内容は、社交界の動向や最近の流行といった情報だ。
南部地域の貴族たちにとって、この社交報は興味深い内容が詰め込まれているものだ。毎月届く公爵家の命令書や、貴族たちの活動報告と並んで、欠かせない情報源の一つとなっている。
そして、ここ数ヶ月、その社交報の中に新たなエッセイが差し込まれるようになった。それが「虚飾の街角」というシリーズで、レディ・ファントムを名乗る謎の作家によるものである。
このエッセイは、社交界の動向や流行について、皮肉混じりの視点で書かれている。それが、社交界の人々の間で話題となり、人気を博しているのだ。南部地域の貴族たちは、必ずと言っていいほど、このエッセイをチェックするようになった。
レディ・ファントムの正体は、何を隠そう、侯爵令嬢ユリア・ヴェルマルク本人である。「貞淑な侯爵令嬢」を求められ続けることに鬱憤を溜めていたユリアが、ストレス発散のために書いた散文は、自分でも思わず面白いと感じる内容となり、試しに南部社交報に投稿してみることにした。その結果、あれよあれよという間に連載が決まった。
以前は面倒だと感じていた社交への参加も、「ネタ探し」という明確な目的ができたおかげで、俄然やる気が出てくるというもの。ユリアは社交界に参加するたびに、エッセイの題材として新たなネタを求めている。
そして先月。ユリアは、より刺激的なネタを求めて、少しインモラルな社交場――仮面舞踏会に赴いたのだ。保守的な貴族からは眉を顰められる社交場だが、冒険したい若者貴族たちの心を掴んで離さない、隠微で魅惑的な社交場。本人が気をつけていれば危ないことはないが、油断すれば絡め取られてしまう、そんなスリリングな場所である。
賛否分かれるネタであったが、その評判は、今朝の父の反応を見る限り上々だろう。
「今月もまた仮面舞踏会があるわ。行ってみましょう」
ユリアは私室で独り言を呟いた。
満月の夜。今月の仮面舞踏会は、南部の大商人の別館で開かれていた。煌びやかなシャンデリアが天井から吊るされ、色とりどりのドレスを着た貴族たちが踊り、会話を楽しむ中で、ユリア・ヴェルマルクはひとり、銀の盃を片手に静かに周囲を見渡していた。
その目は、冷静に、そして厳しく、部屋の中のあらゆる動きと表情を観察している。
――あの派手なドレスの女性、先月もいらっしゃった方ね。いろんな男性が声をかけるけど、楽しそうにしながらも絶対に一線は超えさせない。あれは熟練者だわ。
ひとしきり観察した後、次に視線を向ける。
――あちらは初参加の女性かしら。情熱的な口説きにうっとりしてるけど、その男性、さっき別の女性にも同じように迫っていたわ。やめておいた方がよろしくてよ。
次に目が留まったのは、気品溢れる男性だった。
――あちらの男性、仮面をしてても高貴さが隠せてないわね。どこかの侯爵令息に違いない……。
その瞬間、互いの仮面越しに、その男性と目が合う。ユリアの目の中に、突如として閃光が走った。
――ヒルド・ホーキンス!
その名を心の中で叫んだ瞬間、彼もまたユリアへと、ゆっくりと歩み寄ってきた。
ヒルド・ホーキンス――ユリアの婚約者であり、侯爵家の長男。端正で上品な外見、そして絵に描いたような理想的な侯爵令息で、南部地域の若いご令嬢たちの憧れの存在だ。しかしユリアが最も強い印象を抱いているのは、その「理想の侯爵令息」に徹した、息の詰まる振る舞いだ。2人は婚約して半年が経ち、毎月お茶会を開く仲だが、決して本心を曝け出すことはなく、どこか一歩引いた距離感を保っている。
ユリアはこれまで、「理想の侯爵令息」「貞淑な侯爵令嬢」としての関係に疲れ切り、心の中で何度も嘆息していた。彼との婚約関係が、「レディ・ファントム」として発散するきっかけになったと言っても過言ではない。
そして今、目の前に立つヒルド・ホーキンスは、仮面をかぶりながらも紳士然として、彼女に微妙な挑戦を突きつけてきた。
「へぇ……まさか貴女とこんな場所でお会いするとは、運命の出会いというやつでしょうか」
その言葉に含まれる非難が、ユリアをチクリと指す。ユリアは笑みを浮かべた。しかし、その笑顔の裏には確かな不快感が隠れている。
「運命ですか…」
ユリアは少し間をおいて、皮肉交じりに言った。
「もしもお互いが、屋敷の寝所で夜を迎えていたら、運命も交差することなくすれ違っていたでしょうね」
ユリアの言葉に、ヒルドは思わず口を閉ざした。しかし、ユリアの皮肉に屈しないかのように口を開く。
「ではその運命を受け入れて、少し僕にお時間をいただけますか?」
仮面で覆われた目元が、挑発的に誘惑する。ユリアに差し出された手が、他に逃げ場はないことを伝えていた。
「……どうぞ」
ユリアは優雅にその手を取り、ヒルドに導かれるように休憩室へと向かう。周囲の貴族たちが、その後ろ姿に「おやおや」と好奇の目を向ける中、2人は静かに歩みを進める。
休憩室に入りドアを閉めると同時に、2人ともに堪えていた言葉が堰を切った。
「嫁入り前の未成年の女性が、なぜこんな場に!?」
「自分は成人しているから良いと!? 婚約者がいながらここに出入りしている時点で同罪では!?」
「罪かどうかじゃない。女性一人で参加するなんて危ないだろう!」
ヒルドの言葉に、ユリアはまったく譲らない。
「気をつけていればなんてことはないですわ。それに男性だって悪い女に絡め取られるリスクはありますわ! それともそれが目的かしら!?」
ヒルドの顔が一瞬、硬直した。しかし、その表情もすぐに冷徹なものに戻る。
「へぇ、僕の不貞を疑うと?」
「それ以外に何があると!」
ユリアが強く返したその言葉に、ヒルドはほんの少し目を見開いた。
互いの顔が険しくなり、言葉の応酬はしばし続き、どんどん売り言葉に買い言葉となっていく。
「『理想の侯爵令息』が聞いて呆れますわ!」
「そちらこそ『貞淑な侯爵令嬢』とは、猫を何匹も被っていたものだ!」
しかし、時間が経つにつれて、その激しさは少しずつ収まり、やがて静寂が訪れる。
ヒルドは疲れ切ったようにソファに身を沈め、天を仰ぎながら静かに言った。
「結婚するまではお互いに目を瞑ろうか……」
ユリアは一瞬、沈黙を保った。やがて小さな笑みを浮かべ、軽く頷いた。
「……それが良いでしょうね」
元より政略結婚の婚約である。互いの不貞に傷つくほど、繊細な感情を持っていたわけではない。
そして2人はお互いに向き直り、少しだけ視線を交わす。激論を交わした2人の間には、奇妙にも、互いの健闘を讃える気持ちが芽生えていた。
【仮面の下の本性】
――南部社交報『虚飾の街角』第20号――
仮面舞踏会。確かに、その場の男女は互いに情熱を込めて踊り、言葉を交わす。だが、その情熱が空虚であることに誰が気づくか。いかに腕を取り、唇を重ねても、肝心の心が交わらない。この華やかな舞台でも、言葉の背後には何の意味もない。その時の喜びも、熱を帯びた眼差しも、ただの仮面に過ぎない。
今日も華美なドレスに身を包んだ一人の女性が、数多の男性からの誘いを楽しみつつ、それ以上の一線を越えることは決してない。虚飾の愛の囁きを受け取るだけ受け取って、自分から差し出すことは絶対にしない。それがまるで、この仮面の淑女の嗜みであるかのように。
しかして、この仮面舞踏会よりも虚飾にまみれた場所が存在する。それこそが、普段の社交界である。誠意も愛もなく、ただ表面だけで結ばれた関係が延々と続く。人々は言葉を交わし、互いに微笑むが、その裏には他者を利用するための策略と虚飾しかない。
仮面舞踏会で身につけるのが仮面なら、普段の社交界で被るのは猫である。
著 レディ・ファントム
仮面舞踏会での出来事から2週間が経った。今日は月に一度のお茶会の日。ユリア・ヴェルマルクは、ヒルド・ホーキンスとの静かなひとときを迎えていた。従者が部屋に控え、2人の間にはいつも通り品行方正な振る舞いが求められる。互いに身分にふさわしい姿勢を崩さず、社会的な役割を演じながら会話を交わす。しかし、その目の奥には、他者には見せない何かが秘められていた。
ユリアが紅茶を静かに一口含み、カップを置くと、ヒルドがやや鋭く、そして慎重に言葉を紡いだ。
「貴族が好む虚飾には慣れたものですが、その奥に隠されたものを垣間見ることになるとは思っておらず、新鮮でした」
ユリアはその言葉を受けて、ゆっくりと視線を下ろしながら、微笑みを浮かべた。
「虚飾が分厚くなればなるほど、その先の本質への期待感が高まるというもの。私も思わず感情の昂りを感じましたわ」
ヒルドは少しばかり興味深そうにユリアを見つめ、その反応を楽しむように続けた。
「そのために一体何匹の猫が犠牲になったのやら。動物愛護団体に訴えられてしまいそうですね」
ユリアはその言葉にわずかに顔をしかめるが、すぐに冷静さを取り戻し、笑みを深めた。
「運命が交差しなければ、あの猫たちは今も行儀よくお茶会でもしていたのでしょうね」
ユリアのほのかな挑戦を感じ取ったヒルドは、しばらく黙ってから、わずかに口角を上げる。
「運命とはずいぶん気まぐれ屋なものらしい。おかげで僕の予定調和な日々に、変化が訪れていますよ」
ユリアはその返答に満足そうに頷き、再び紅茶を口に運ぶ。2人の間で交わされる言葉の裏には、誰にも知られてはならない緊張感が漂っていた。そのスリルを楽しむように、互いに小さな挑戦を投げかけ、そして受け入れる。
これまでの定例のお茶会で、ユリアが何度も感じていた「完璧な礼儀と距離感」。それはそれで美しい関係だった。しかし今日は違った。今日の会話は、ユリアにとって初めて素直に楽しいと感じる瞬間があった。
再び満月が訪れる。月光が仮面舞踏会を照らす中、ユリアは舞踏会の会場に足を踏み入れた。華やかな衣装を身にまとった貴族たちが、色とりどりの仮面をつけて舞い、音楽が優雅に流れている。今日もユリアは、エッセイのためのネタを探す。どんな出来事でも、一瞬のきらめきがユリアの鋭い観察眼に引っかかるだろう。
今日もまた、仮面の熱情にあてられた不慣れなご令嬢が、いとも容易く悪い紳士に籠絡されている。
しばらく会場の隅で様子を見ていると、遠くから見慣れた風体の男性が目に入った。それはヒルド・ホーキンス――ユリアの婚約者であり、理想の侯爵令息の名をほしいままにする男だった。彼もまた、この舞踏会に参加している。
やがて、ユリアの視線に気づいたヒルドは、ゆっくりと彼女の方へ歩み寄る。そして、互いに目を合わせた瞬間、ヒルドが言った。
「運命の再会ですね」
ユリアは微笑みながらその言葉を受け流し、皮肉交じりに返す。
「目を瞑るはずが、結局お互いを見つけてしまうものですね」
ヒルドはその言葉に軽く肩をすくめ、笑顔を浮かべながら答えた。
「見られて困ることもありませんから」
「あらあら、堂々とされてますわね」
ヒルドは仮面の下で少し目を細め、ユリアをじっと見つめた。次に口を開く。
「貴女こそ、後ろめたさが全くなさそうだ」
ユリアは少しの間、その言葉を反芻した後、冷静に答えた。
「私は目の前の光景を眺めているだけですから。後ろになど興味ありませんわ」
その言葉に、ヒルドは微笑んだ。
ユリアはふと、ヒルドに対する素朴な疑問を抱き、言葉を続けた。
「ところで、せっかくの仮面舞踏会。私にかまけてて良いんですの?」
ヒルドにとって、ユリアと交流を深める機会はいくらでもあるはずだ。手紙、お茶会、通常の舞踏会。わざわざ仮面舞踏会でユリアと話し込む必要がないように、ユリアには思えた。
ヒルドはユリアの質問に、少しの間考え込む素振りを見せてから答える。
「猫を被った貴女のことは見飽きていますが、仮面をつけた貴女のことはまだまだ知らないことが多いので。その仮面に隠された本性を暴きたくなるのです」
ユリアはその言葉に、わずかな驚きを浮かべつつも、冷ややかな微笑みを浮かべた。
「まぁ、レディに対して暴きたいだなんて。紳士が聞いて呆れますわ」
ヒルドはその返答に、深く頷くようにして言った。
「男が女性の前で紳士でいられるのは、その女性に興味がない時ですよ」
ユリアはその言葉に目を見開き、動揺を見せたが、すぐに冷静さを取り戻して、ヒルドを見据えた。
「それが貴方の本性なの?」
ヒルドは微笑みを浮かべ、少しだけ顔を近づけて答える。
「どうでしょうね。興味がおありなら暴いてみてください」
その言葉にユリアは一瞬沈黙し、目の前にあるチャンスを考えるように黙っている。彼女の内心は少し高鳴っていた。こうした微妙な駆け引きが、どこか刺激的で楽しいのだと自覚している自分がいる。
そして、ユリアは少しばかり考えた後、苦笑いを浮かべて言った。
「仮面をつけてる今の方が、お互いの本性に近づけるなんて」
ヒルドはその言葉を受けて、少しだけ目を細め、彼女に返した。
「確かに。仮面があるからこそ、素顔を見たくなるのかもしれませんね」
2人の間に、しばらく沈黙が続いたが、その後、ヒルドが再び口を開いた。
「では、今夜は素顔で本性を暴いてみますか?」
ユリアはその言葉に少しだけ思案してから、意味深な笑みを浮かべて言った。
「それはお楽しみが過ぎますわ。今は仮面を楽しむ方がよろしいと思いますわよ」
ヒルドは少し残念そうに目を細めて、頷く。
「確かに。仮面舞踏会ですから、仮面のままダンスに興じるべきですね」
そう言って、ヒルドはユリアにダンスの誘いの手を差し伸べる。仮面越しでも隠せない気品ある仕草に、ユリアは苦笑する。
音楽が響き渡り、舞踏会の熱気が会場を包む中、ユリアとヒルドはダンスフロアに足を踏み入れた。普段の社交界では見られないような、情熱的で官能的なダンスが主流となるこの舞踏会では、ダンスの技術ではなく、どれだけ互いに熱を帯びた関係を示すかが注目される。しかし2人はその期待に応えるようなことはせず、むしろその情熱から一歩引いて、穏やかに踊り始めた。
ユリアはヒルドの腕にしっかりと手を置き、仮面越しの彼の目をじっと見つめた。
「貴方とのダンスは何度もしてるけど、何だか新鮮ね。まるで知らない殿方と初めて踊るみたい」
ヒルドはユリアの目を見返し、少し挑戦的に笑った。
「おや、不貞に興味がおありと?」
ユリアはその言葉に少し驚いたが、すぐに軽く笑い飛ばした。
「理想の侯爵令息相手だったら、いずれそうなったかもしれないわね」
ユリアは冗談のつもりで言ったが、ヒルドはその冗談を無視して、まじめな声音で答える。
「そうなる前に貴女を引き止められてよかった」
「そう言う貴方こそ、私に興味なんてなかったくせに」
ヒルドは静かに、そして少しだけ自嘲気味に笑った。
「どうやら僕は、皮肉屋で負けん気が強くて、僕の予想外なことをする女性に弱いらしい」
ユリアはその言葉に軽く首をかしげ、ふっと笑った。
「それ本気で口説くつもりあります?」
「普通の口説き文句など、貴女の心に響かないでしょう?」
ユリアはその言葉に、少し考え込むような仕草を見せた。
「……それはそうかも」
今まで、何度も礼儀正しい口説き文句を言われてきたが、全てが空虚に感じていたことを思い出す。それに引き換え、今の言葉は、ユリア自身の心に長らく残るだろう予感があった。
ヒルドはユリアの反応を楽しんでいるように、少し間を置いて言葉を続けた。
「どうしたら貴女の気を引いて、その本性を暴けるのか。僕の予定調和な日々を壊してくれる、楽しい課題です」
ユリアは一瞬、その言葉に胸を打たれたような気がしたが、それをすぐに抑えるように、冷静さを保ちながら答えた。
「人の乙女心を遊戯みたいに扱わないでいただきたいですわね」
ヒルドはその答えを静かに聞いて、少し微笑んだ。
「逆です。遊戯で身を持ち崩す者だっているんですから。貴女にはそれだけの魅力がある、僕が身を持ち崩すかもしれないほどに」
その言葉に、今度こそユリアは、心が跳ね上がった。しかし、それを隠すように、軽く笑って返す。
「将来の旦那様がそれでは困りますわ」
ヒルドは少し驚きの表情を浮かべるが、それが一瞬だったことに気づく。仮面越しの彼の目には、ユリアに対する興味と共に、微かな戸惑いも見えた。それでも彼はユリアに静かな微笑みを向ける。
「ああ……その響き、すごく良いな」
ヒルドの呟きは小さく、舞踏会の熱狂にすぐに溶けていく。ユリアに向けた言葉ではなく、むしろ自分自身の心を確かめるような呟きだった。
2人はそのまま穏やかなダンスを続けながら、どこかお互いに少しずつ近づいていることを感じていた。小声での会話を交わしながら、次第に互いの存在が自分の心の内で熱を帯びていくのを感じる。
ユリアの中で、何かが少しずつ変わり始めていた。ヒルドが見せる鋭さや皮肉の中に、彼の自分に対する情熱が垣間見えることが、どこか心地よい。ユリアはその変化を自覚する。
2人はその後もダンスを続けながら、目に見えない距離を縮めていった。周囲の貴族たちから無視されている間に、2人だけの世界が広がっていくのを感じながら。
【素顔の先】
――南部社交報『虚飾の街角』第24号――
仮面。それは単なる外見を覆い隠すものではなく、仮面が完璧であればあるほど、隠された素顔はそれとかけ離れていることに気づくべきだ。完璧な仮面を被っても、その獰猛な素顔は、今か今かと暴れられる瞬間を待ち侘びている。
特に、世慣れしないお嬢さんたちは、このことを肝に銘じておくべきだろう。隠された仮面の下で、舌舐めずりをして待ち構える狼たちが、貴女の乙女心を食い散らかそうとしている。
その歯牙にかけられたくなければ、よく観察することだ。完璧に仮面を作り上げたつもりでいても、その仮面はどこかでひび割れ、裏に隠された素顔がちらりと見える瞬間が訪れる。社交界で演じる姿こそが最も虚飾に満ちており、それが破られたときに見えるものが、最も恐ろしい本性であるのだ。
ただし、仮面がもたらす一時的な安寧よりも、その素顔の獰猛さに惹かれるようになったら、貴女はもう立派な淑女である。
著 レディ・ファントム
月に一度のヒルドとのお茶会の日。ユリア・ヴェルマルクはいつものように、ヒルド・ホーキンスと静かなひとときを過ごしていた。従者が控えめに部屋に立ち、2人は社交界の礼儀に従い、品行方正な振る舞いを見せる。しかし、誰の目にも明らかだったのは、2人の間に見え隠れする親しみの兆しだった。以前よりも笑顔が増え、打ち解けた雰囲気が漂っている。
ユリアは、カップを手に取り、紅茶を口に運びながらヒルドを見つめた。その瞳の奥に浮かぶ静かな思索に気づいたヒルドが、ゆっくりと口を開く。
「最近、君との手紙が僕の楽しみなんだ」
その言葉にユリアは一瞬驚き、顔を上げた。ヒルドが続ける。
「君の文章は素晴らしい。君の知性にはいつも驚かされるし、何より素直に心が伝わってくる」
ユリアの胸が、わずかに高鳴るのを感じた。彼の言葉には、どこか温かみがあり、素直に嬉しい気持ちが湧いてきた。それは、これまで感じてきた他の賛辞とは少し違う感覚だった。
「お褒めにあずかり光栄ですわ」
ユリアは、軽く微笑みながら、少し照れくさそうに言った。その背後には、彼に対する微かな意識があったことを自覚している自分がいた。しかし、ユリアの心の奥底では、確かに何かが変わり始めていた。
「君の素顔が見え始めて、僕も本来の君を感じ取れるようになった」
ヒルドの言葉に、ユリアは頷いた。確かに、彼とのやり取りは以前と比べて、自然になった。手紙でも、彼に対して本来の自分を見せることができていた。それはヒルドにとっても同様だった。
「ヒルド様の前で仮面をする必要もなくなりましたから」
ユリアは、ヒルドの目をじっと見つめ、心の中でその言葉を確かめるように答えた。
「貴方の手紙も、以前よりずっと素直なものに感じますわ」
ヒルドはしばらく黙ってユリアを見つめていたが、やがて口元をほんの少しだけ緩め、軽く頷く。
「君がそう言ってくれると、嬉しいよ」
その言葉に、ユリアの胸が再び温かくなるのを感じた。
しばらくの間、2人は静かに紅茶を味わい、何気ない会話を交わしていた。しかし、その中に、以前にはなかったような親密さと安堵があった。ユリアはふと、自分の心が少し揺れていることに気づき、それを驚きながらも感じていた。
――まさか、この静かな時間がこんなにも心地よいなんて。
彼との会話の中で、ユリアの心が少しずつ開かれていくのを感じていた。そして、ヒルドもまた、以前とは違う彼女の変化に気づいているようだった。それが何を意味するのか、2人の間に漂うわずかな緊張感が、次第に新たな可能性を感じさせる。
ユリアは、静かに湧き上がる心の揺らぎを隠しながら、礼儀正しく微笑んだ。
再び、満月の夜が訪れた。月光が煌めき、仮面舞踏会の会場が幻想的に照らされる中、ユリアはその場所に足を踏み入れた。鮮やかな衣装に身を包んだ貴族たちが、仮面をつけ、優雅に舞い、音楽が響く。今日もまた、ユリアの目は鋭く、エッセイのための新たな題材を求めて舞踏会の光景を捉えようとしていた。
その時、会場の隅で彼の姿を見つけた。ヒルド・ホーキンス――ユリアの婚約者であり、理想の侯爵令息。その存在が視界に入ると、何の違和感もなく、ユリアはその場を離れ、彼の元へ向かう。2人の目が合った瞬間、無言のまま、互いに歩み寄る。すれ違うことなく、自然に会話が始まる。
「3回目ともなると、運命というよりは、習慣ですね」
ヒルドの言葉に、ユリアは微笑みながら答える。
「良い習慣は成功を、悪い習慣は破滅をもたらす、なんて言葉がありますが、どちらになるでしょうね」
その皮肉な言葉に、ヒルドは少し笑みを浮かべた。彼の笑顔に、ユリアはふと、心の奥に浮かぶ微かな感情を感じ取る。
少しの間、2人は会話を楽しんだ後、ヒルドが突然、ユリアを見つめながら言った。
「君の仮面の下の素顔が見たい」
その言葉にユリアは一瞬、戸惑いを覚えた。しかし、直後に自分でも驚くほどスムーズに彼の手を取ってしまった。すぐに言葉を続ける前に、2人は舞踏会の喧騒を避けるように、静かな休憩室へと足を踏み入れる。
休憩室の扉が閉まると、周囲の音が一気に遠のいた。2人だけの空間。ヒルドはユリアの顔をじっと見つめ、無言で仮面に手をかける。その手のひらに触れる感覚がユリアの肌を震わせた。
ヒルドは優しく、しかし決してためらうことなく、ユリアの仮面を外した。ユリアの顔が露わになり、蝋燭の灯りがその美しい輪郭を照らし出す。ヒルドはその顔を両手で包み込むようにして、覗き込んだ。
「私の顔など、見飽きてるでしょうに」
ユリアは微笑みながら言ったが、その顔には少しの照れが混じっていた。負けじと、ユリアもヒルドの仮面を取って、床に落とす。その行動に、ヒルドは驚きとともに、少しだけ楽しげに目を細めた。
ヒルドの端正な素顔が顕になる。ただそこに浮かぶ表情は、ユリアにとって初めて見るものだった。
「いかに自分の目が節穴だったか、痛感してたんだよ」
ヒルドの声が低く響く。
「君の目の奥に宿る、抉るような鋭さにも、それを皮肉として繰り出す唇にも気づけなかったなんて」
ユリアはその言葉を受けて、少しだけ顔をしかめた。
「だからそれは褒めてないわよ」
ユリアは冷静に答えたが、心の中でわずかに動揺していた。ヒルドの目には、確かに今まで見たことのない、何かが溶け出すような光が宿っていた。
「いや……君の全てが、ものすごく魅力的で、扇情的だ」
ヒルドの声は、もはや理性を欠いたように響く。ユリアはその言葉に胸が高鳴るのを感じ、心臓の鼓動が一気に早くなる。ヒルドの目に、これまでの理性的な彼からは信じられないような、情欲の揺れが生じているのを感じ取った。
――絡め取られた。
ユリアは自身の指先に走る甘やかな痺れを感じ、もうここから逃げ出す術はないと観念する。
ヒルドはほんの少し顔を近づけ、ユリアの唇にそっと触れる。その一瞬、ユリアの心が震え、彼女は何の抵抗もなく、その唇を受け入れた。
キスの中で、時間が止まったように感じた。唇から伝わる熱が、ユリアの全身に、ヒルドの存在を刻み込むようだった。その心の内が、ヒルドに焦がれる想いで染まっていく。
2人の唇が互いのそれを解放する。
「初めてなんだ。こんなに誰かに恋焦がれることが」
そのヒルドの珍しくも素直な、慕情の言葉。彼の切なげな瞳がユリアを捕らえて離さない。ユリアは、それを大切に扱わなければならないと、直観する。しかし自分の口では、結局いつものような憎まれ口になってしまう。だからユリアは、返事の代わりに、もう一度ヒルドにキスをした。ヒルドは目を見開き、やがて受け止め、ユリアをきつく抱きしめた。
室内の蝋燭の火が寿命を迎えた。窓から差し込む月光の中で、2人は飽きることもなく、何度もキスを重ね、深めていた。
【婚約破棄の予感】
件の仮面舞踏会から数日後の午後、ユリアは父親から思いも寄らぬ話を聞かされていた。
「ホーキンス侯爵家から婚約破棄を匂わされている」
父、ヴェルマルク侯爵の言葉が無情に響く。ユリアはその言葉に驚き、すぐに反応を示した。
「なぜそんなことを? 理由は?」
父はため息をつく。
「お前が仮面舞踏会に参加していたからだ」
その声音は、怒りを通り越して呆れているようだった。
ユリアはその一言に愕然とした。
「ホーキンス夫妻が、結婚にあたってお前の素行調査をしたとのことだ」
自分の息子にも同じことしなさいよ、と、ホーキンス夫妻に心の中で反抗の声をあげたが、彼らの言い分がどうしようもない正論だということもわかっていた。一般的に見て、仮面舞踏会にわざわざ参加するのは、火遊び目的に映るだろう。実際のところ、ユリアはただエッセイのネタ探しのために参加しただけだ。しかしその言い分はレディ・ファントムとしての正体を隠している以上主張できない。今の状況で正体を伝えたところで、火に油を注ぐだけだ。
父親の表情は険しく、状況の悪さを物語っている。
「私の監督不行届だ。しばらく家から出ることを禁ずる」
「……分かりました」
ユリアは自室に戻り、ソファにもたれかかる。ヒルドとの婚約が解消される――その予感が、ユリアの心臓を焦らせる。
――このまま行儀良く、彼を取り上げられるのを待つなんて、許せるものですか。
ユリアは拳を固く握り、決意を新たにする。
時同じ頃、ホーキンス家の邸宅では、ヒルドと両親が深刻な話し合いをしていた。ヒルドとユリアの婚約破棄を決めるべきか、否か。その決断を下すために、三者は静かに議論を重ねていた。
「ヒルド、本当にこの婚約を続けるつもりか?」
ヒルドの父が、その冷徹な目を息子に向けて問いかける。ヒルドは一瞬黙った後、ゆっくりと語り始めた。
「はい。その戦略的価値を考えれば、今回の問題など瑣末なことです」
ヒルドは表情を一切揺らすことなく、理由を述べる。
「表向きは、対等な侯爵家同士の結婚です。しかし、今回の件があったことにより、裏ではホーキンス家がヴェルマルク家に対して弱みを握っている結婚になります。それは今後の政略的交渉の中で、確実に有利なカードとなるでしょう」
父は黙ってヒルドの言葉を聞き入る。それは息子の発言に理と利があることを認める態度だった。
「婚約破棄すればそこで終いの話です。しかしこれを好機と捉えれば、ホーキンス侯爵家にとっての利を引き出せる結果になる」
ヒルドは理と利を盾に、決して譲らない。
「ヴェルマルク侯爵家の南部地域での影響力は大きく、我々にとっても貴重な結びつきです。この結婚がもたらす利点を考えれば、あらゆることは大河に流れる水の一滴に過ぎません」
ヒルドの目は静かだが、どこか鋭く、言葉以上に強い執着が窺えた。ヒルドの本心が言葉とは別のところにあることを、彼の父母は薄々感じ取り始めていた。
しかし母が、心配そうに言葉を重ねた。
「そうかもしれないけど……ユリアさんの行動は、貴方に対して不誠実よ。そのような相手を妻に迎えることが、貴方の将来を蝕むことになりかねないわ」
ユリアの名前が挙がったとき、ヒルドの口元に一瞬の微笑みが浮かんだが、それはすぐに消え、冷徹な表情に戻った。
「母上、ご心配なく。……お二人はご存知ないかもしれませんが、僕もあの場にいましたから。全ては相互了解の上です」
ヒルドの告白に、両親はいよいよ衝撃を受けた。父は勢いよく立ち上がり、ヒルドに何かを叫ぼうとするも言葉が出てこない。母はその顔を真っ青にし、口を手で覆う。
「仮面舞踏会に参加する令嬢の行動が問題だと言うのなら、僕もまた脛に傷を負っている身ですね」
ヒルドの開き直りに、その日のホーキンス侯爵家の家族会議は、別の方向へ紛糾することとなった。
【仮面舞踏会で築かれた純愛】
――南部社交報『虚飾の街角』第26号――
仮面舞踏会という華やかな舞台で結ばれた1組の男女がいる。元々、婚約関係にあった者同士が仮面舞踏会で偶然再会し、すったもんだありつつ却って愛情を深めることになったそうだ。男女の愛とは誠に不可解なものである。
社交界の礼儀正しい喧騒の中で、最初はただの虚飾と役割演技をこなす令息と令嬢。2人とも、完璧に猫をかぶり、互いに義務感で接していた。しかし皮肉にも仮面舞踏会という場で、彼らはその裏に隠された本性に強く惹きつけられるようになった。
軽薄な仮面舞踏会において、彼らはわざわざ互いだけに声をかけ、愛を囁き合う。他の者たちが一時の熱情に浮かされ踊る中、2人はただひたすらに互いに向き合い、視線を交わす。外から見ていると、他のすべてが背景に溶け込み、2人だけの世界が切り取られたようだった。その距離感と静けさは、他の男女には見られない特別なものであり、虚飾の舞踏会の中でひっそりと紡がれていく愛を感じさせた。
虚飾に満ちた愛の舞台で、正規の婚約者同士がこっそりと真実の愛を育んでいるなど、滑稽な喜劇ですらある。しかしこういうことが稀に起きるから、社交界とは面白い。
著 レディ・ファントム
「まさか、レディ・ファントムに言及されるとは……」
ホーキンス侯爵家に届けられた南部社交報を読みながら、ヒルドは驚きを隠せずに呟く。彼女、あるいは彼の皮肉的な視点の中に込められた、自分たちの関係への温かいエールに、ヒルドの心に光が灯る。
そしてこのエッセイはもちろん、ヒルドの両親の目にも触れられた。
「ここに書かれていることは、お前たち2人のことで間違いないか?」
父母に書斎へと呼び出されたヒルドは、その問いに即座に頷いた。
「間違いありません」
「そうか……お前たちが仮面舞踏会などに足を運んだ理由も、多少は理解できた」
父は眉間を抑えつつ、ため息をつく。
「ヴェルマルク侯爵家との結びつきの重要性はお前も認識のとおりだ。それに加え、お前たちの間に誠実な関係が育まれているというなら、もはや婚約破棄する必要はないだろう」
父の裁定に、ヒルドは表情を揺らさない。それでも、「寛大な処置、誠にありがとうございます」という声には、喜びと安堵の気配が滲み出ている。
「全く……許すのは今回限りよ。これ以上、馬鹿なことはしないでちょうだい」
母もまた、息子の意外な奔放さに肝を冷やされ通しであった。
「申し訳ございません、母上。しかし、なぜ急に許していただける気になったのですか?」
「貴族と言えど、政略だけで何十年も共にできるほど、人生は甘くないわ。そこにしか価値を見出せない相手なら今のうちに考え直した方が良いと思ったまで。ただ、貴方たちの絆は理解したわ……ちょっとお転婆ではあったけど」
母の嘆息に、ヒルドは静かに目を向けるだけだったが、その内心は驚きで埋め尽くされていた。ヒルドを「理想の侯爵令息」として自分を育て上げた母が、貴族の責務以外の価値に言及するとは思いもよらないことだった。
ヒルドの心の内を知ってか知らずか、母は続ける。
「まさかあそこまで徹底して本心を語らないとは。これまで私も、貴方に対して厳しくしすぎたと、反省したわ……」
母が頭を痛める様子に、父も静かに頷いている。ヒルドは、「最初から正攻法で攻めれば良かったのか」とあらぬ方向で反省した。
【最高で最愛の理解者】
午後の日差しが静かに差し込む中、ユリアとヒルドはお茶会の席に座り、何事もなかったかのように穏やかに紅茶を飲んでいた。しかし、2人の間に流れる空気は以前とはまるで違っていた。従者が部屋に控えているにも関わらず、もう2人は猫をかぶることなく、率直な言葉を交わしていた。
「レディ・ファントムのエッセイのおかげで、両親も婚約継続を納得してくれてね」
ヒルドが軽く笑いながら言うと、ユリアも微笑んだ。
「そうでしたか。私も両親からだいぶお叱りは受けましたが、あのエッセイによってなんとか理解してもらえまして」
ユリアは肩をすくめ、嘆息した。
「君の両親も知るところなんだね。じゃああの戦略的価値は消えたな」
「戦略的価値?」
ユリアが目を細めて尋ねると、ヒルドは淡々と答えた。
「こちらのことさ。どうせ最初から君との関係を続けるための建前だったし、大したことじゃない」
「なるほど。碌でもない話だということはわかりましたわ」
ユリアは冗談交じりに言い、ヒルドは思わずくすりと笑った。
「さすがユリア。君は僕の最高で最愛の理解者だよ」
「だから褒め言葉でも口説き文句でもないですからね、それ」
ユリアは不満気に言い返す。
2人は思わず笑い合う。しばらくの間、穏やかな空気が流れた後、ユリアがふと話題を変えた。
「そう言えば、ヒルドはなぜ、仮面舞踏会にいらっしゃったの?」
ユリアは当初、ヒルドの不貞目的での参加だと思っていた。しかし交流を重ねる内に、ヒルドには不貞に興味を持つほど人間に対する情熱的な関心がないこと、そしてユリアに対して抱いた感情がむしろ彼にとってのイレギュラーであることを、ユリアも理解するようになった。故に、あの日、ヒルドが何故あの場に赴いたのか、その理由を掴みきれずにいた。
ユリアの問いに、ヒルドは少し顔を引きつらせて、目をそらしながら答えた。
「実はレディ・ファントムの大ファンでね……会ってみたかったんだ」
ヒルドは珍しく照れくさそうに言い、ユリアはその言葉に目を見開く。
「世の中にはこんなにも興味深い視点と舌鋒で社会を切り抜ける人物がいるのかと、衝撃を受けた。まぁ結局会えずじまいだったけど、観測されてたことがわかっただけでも、光栄さ」
ヒルドが少し顔を赤らめながら話すと、ユリアは満面の笑みを浮かべた。
「なるほど……貴方が最初から私に心底惚れていたということがよくわかりましたわ」
「え? ……いや、え、待って。本当に?」
ヒルドは今日一番の動揺に、もはや取り繕うこともできなかった。
「秘密ですよ」
ユリアは指で口元を押さえながら、軽くウィンクをしてみせた。
ユリアの可愛らしい仕草に、ヒルドは時が止まったように呆けた。そして彼の目はますます熱っぽくなり、真剣な眼差しでユリアを見つめる。
「君は本当に僕の予想を超えてくる。一生僕のことを翻弄してほしい」
ヒルドの声は、もはや理性が欠け、恍惚そのものだった。ユリアもヒルドの様子にたじろぎながらも、口を開いた。
「『理想の侯爵令息』も今や形無しですわね」
ユリアは少しからかうように言うと、ヒルドは少し笑って答えた。
「そちらこそ、『貞淑な侯爵令嬢』とは、さすがに飾りすぎじゃないだろうか」
ヒルドは意地悪く言い返すと、2人の間に再び笑いがこぼれた。
その言葉に込められた皮肉と愛情が、2人の間にしっかりとした信頼と絆を結びつけていた。
ご覧いただきありがとうござきました。
この短編は連載中の作品のスピンオフ作品です。お気に召したらそちらも覗いてくれると嬉しいです。
拗らせ女公爵と策略王弟の愛と希望の日々 〜政略と社交の狭間で愛し合ってみせます〜
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