ハードボイルドなまいまいは夕焼け色の夢を見るか。
※全編ヌメヌメドロドロテカテカしています。苦手な方はご注意下さい。m(_ _)m
その日は、いつまで経っても夜が明けなかった。
夜が明けないのは別に構わない。俺達は夜行性なので、暗いうちから寝ていると多少怠惰な気分になるというだけのことだ。
ただ、この寒さは頂けない。
俺は丸くなったまま、長いこと身を縮こませていた。
寒くなったら大人しく寝るのが自然の摂理とはいえ、今は秋、蓄えの季節のはずだ。そして夜が明けないことなど、いまだかつてなかったのだが。
「――――」
急にガタガタと音がして、俺は眩しい光の下に引き摺り出されていた。
空気がぬるむのを感じる暇もなく、大根の葉の裏に張り付いていた俺を激しい水流が一気に押し流す。俺は光る床の上を為す術も無く転がっていくばかり。
「あっ!?」
暗黒のような穴に吸い込まれる寸前、何かが俺を洪水から摘み上げた。
「あらやだ。まだ生きているかしら」
俺のご自慢の草色の殻が、圧倒的な力の前で今にも押し潰されんばかりに悲鳴を上げる。俺は苦しさのあまりうごめきながら、意識が遠退いていくのを感じた。
俺の脳裏に、最後に見た夕日が過った。
昼の間、いつものように大根の葉の裏で身を潜めていた俺は、赤い夕日を眺めながら一日のスタートを切ったのだ。あれが見納めだと分かっていれば、もっと心に焼き付けるよう真剣に見たものを。残念だ。
*
どのくらい経ったのか。
気が付いて恐る恐る頭を出してみると、自分が小高い石の上にいるのが分かった。すでに殻を圧迫する力は消え去り、辺りは夜の闇に静まり返っていた。
見上げれば、白い月が煌々と輝くはずの夜空は地面から突き出した巨大な黒い壁に切り取られ、霞んだ星々が弱々しく瞬くのみである。今まで暮らしていた大根畑とは似ても似つかぬ場所だが、命が拾えただけでもマシというものだろう。
俺は体温が外気と馴染むまでしばらく待ってから、草地へと降りていった。
ここが何処だって構わないさ。俺は自嘲気味に笑う。
物心付く前から泥水を啜り、腐った草の茎を舐めて生き延びてきた。最初は大勢いた兄弟の姿も一つ減り二つ減り、気がつくと俺はたった一匹になって――。
もうやめよう、そんな回想は。まったく建設的ではない。
いつだって、俺は俺だけの力で切り抜けてきたじゃないか。
『――きゃーっ、誰かっ、助けてーっ!』
夜の闇を俺の想いごと断ち切るように、甲高い悲鳴が辺りに響き渡った。
『あっちか?』
出会いはバッチリ、来た早々ツイているようだ。
俺は大根畑イチを誇る速さで、声のした方向へと腹足をくねらせた。
*
『やめてーっ、お願いっ、堪忍してーっ!』
その黒光りする外骨格からやたらと長い三対の脚を伸ばした縦長の大きな虫は、切り立った崖の手前にいた。
奴は同胞と思しき琥珀色の殻を長い前肢で押さえ付け、同胞が必死で張った殻口の薄皮をこじ開けようと、その細長い頭を強引に突っ込んでいる最中だった。奴の姿は俺の知っている『敵』とほとんど変わらないようだ。
奴の足元には、朽ちた同胞達の殻が空しく転がっているばかりだった。
名前など知らなかったが、宿敵は何処に行っても同じということか。
俺は口の端が自然に捻じ曲がっていくのを感じた。
奴等はそうやって俺達の身体に消化液を注入し、ドロドロの汁状にしてから聞くもいやらしい音を立てて啜るのだ。兄弟達がそうやって食われていくのを、幼かった俺はただ隠れて見ているしかなかった。
しかし俺はもう、子供ではない。
『待ちなデカブツ。お前の相手は俺だ』
『ふがっ!?』
突然の俺の声に驚き、奴が同胞の殻口から頭を抜いた瞬間だった。
とっくの昔に奴の背後に廻り込んでいた俺は、あらかじめ拾って置いた同胞の殻を奴の尖がった頭にすぽっと被せる。それはまだ幼かったであろう幼体の残骸で、どんなに奴の頭が細かろうともそう簡単には外せまい。
『――?――』
奴は後肢で立ち上がり、頭から殻を外そうと必死でもがいている。割れて黒光りしている奴の腹に、俺は前から思い切り体当たりを食らわせる。
『!?』
奴は後肢を踏み外し、崖下に落ちていった。
底には浅く水が溜まっていて、奴は頭に殻を被ったままのマヌケな姿で腹を見せ手足をばたつかせて浮いていた。奴は他の虫のように羽根を広げて飛ぶことは出来ないが、これが時間稼ぎにしかならないのは分かっている。
俺は失神寸前の同胞を背中に貼りつかせ、全速力でこの場を後にした。俺は大根畑一の俊足で、これでいつも自分の命を繋ぎ止めてきたのだ。
*
俺は草地を抜けもといた巨石を這い上がり、また反対側の草地の中へとひた走った。夜間で湿度が高いとはいえ、さすがに体中の水分が持っていかれそうだ。
それでも、俺は歯舌を食いしばって走り続ける。
しばらくすると、背中の同胞――カワイコちゃんが意識を取り戻したので、俺は歩みを止め降りるに任せた。その三本スジの入った琥珀色の殻は、俺より一回りほど大きかった。大人なのか、種族的特徴なのかは分からない。
『危ないところを助けてくれて、どうもありがとう――――あっ!』
カワイコちゃんは可憐に大触角を揺らした。わずかに開いた口から、行儀良く並んだ歯舌がのぞいている。とても可愛らしい。
『あなたの殻はとても綺麗な若葉色なのね。私達とはちょっと種類が違うみたい――あ、ごめんなさい。何か、お礼でも出来るといいのだけれど』
カワイコちゃんの開閉する呼吸口を眺めながら、俺は思い切って口にしてみた。
『もし礼をして貰えると言うのなら――交換して欲しいものがあるんだが』
『あら……それは構わないけれど』
カワイコちゃんは最初、戸惑ったように口元の小触覚を出し入れしていたが、
『でも、私……初めてだから……その、どうしたらいいのか……』
『簡単なことさ。俺のやり方をそっくり真似ればいい』
そしてカワイコちゃんは恥ずかしそうに、大触角の先の目を伏せた。
――星明りの下で、互いの身体を絡み合わせた。
どちらが上でどちらが下なのか、何処までが自分で何処からが相手なのか分からなくなる。俺が相手の大触角の下の生殖口に自身の恋の矢――子種の詰まった袋――を打ち込むと、カワイコちゃんは初々しくも見よう見まねで挿し入れ返してきた。月が一巡りもすれば、お互いに卵を産むことが出来るだろう。
生殖行動を取ることで寿命がかなり持って行かれるという話もあるが、無駄に長く生きたところでしょうがない。
自家受精などもってのほか、一人で生まれてきた意味すら無くなってしまう。
俺達は、自分以外の誰かに出会う為に生きているのだから。
*
夜が白々と明けて来たようだ。
煤けた星々は最後の力を失い、一つ、また一つと消えていく。
『カワイコちゃん。アンタ、夕焼けを見たことがあるか?』
『……ん……』
『俺の住んでいた大根畑から見る夕日はとても綺麗だった。大根の青白い首も、トゲだらけの緑の葉も、地面や周りの林はもちろん空でさえも燃えるような赤一色に染め上げるんだ。アンタに見せてやれないのが残念だな』
初めてで疲れが出たのか、傍らのカワイコちゃんは殻口の反り返った殻の中で、とっくの昔に琥珀色の夢を見ているようだった。
外敵に襲われたらなすすべもなかったが、今のところ奴の気配はない。
俺はカワイコちゃんに寄り添ったまま意識を手放した。ここの夕焼けが俺の知る夕焼けと同じくらい美しくあればといいと、密かに願いながら――。
*
時間が少し戻る。
――台所で洗い物をしていた奥さんは、ふと居間にいる旦那さんに声を掛けた。
「大丈夫だったかしら。あの子」
「なにが?」
「九州の伯母さんから頂いた大根が冷蔵庫に入れっぱなしだったの。それで、思い出して調理を始めたら葉っぱの中から変わった色のカタツムリが出てきたのよ。光沢があって、巻き始めの殻の部分が綺麗な緑色をしていているの。初めて見たわ」
「ふーん」
「ふーんじゃないでしょ、パパ。この辺のカタツムリはみんなミスジマイマイなのよ。琥珀色の平たい殻に茶色の筋が何本か入っているやつ。見たことない?」
「琥珀色とは、またママも詩人だねぇ」
奥さんは洗い物を止め、手を拭きながら台所から出てきた。
「まだ生きていたから外に置いてきたんだけど、九州のカタツムリならいきなり環境が変わって戸惑っているかも。見知らぬ土地で生きていけるのか心配だわ」
「まぁ、そんなに気にすることないよ。何処に行っても出会うのは男と女しかいないんだから、彼なりにうまく生きていけるだろうさ」
と、スマフォから目を離さない旦那さんが上の空で呟くと、
「あら、パパ違うわよ」
「何が」
エプロン姿の奥さんは、ちょっと得意げに胸を張ってみせた。
「カタツムリに男女の区別はないの。雌雄同体なのよ」
「突っ込むところ、そこなの?」
「考えようによっては、すごく平等な世界よね。これってポリコレ的にまったく問題が無いから、ハリウッドで映画化決定だと思わない?」
「……俺、あんまり見たいとは、ちょっと思わな――」
――了――
お読み頂き、誠にありがとうございました。読了、おつかれさまです。(-人-)
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コハクオナジマイマイ:カタツムリ。九州に分布。外来種のオナジマイマイは近縁種だが、こちらは日本固有種。巻き始めの殻の色は黄色か白で光沢がある。”最近は本州でも”見受けられる。
ミスジマイマイ:琥珀色の殻に三本の濃い色の筋が入っている樹上性のカタツムリで、 関東地方の南部から中部地方東部に分布する日本の固有種。
マイマイカブリ:細長い大型のオサムシ。日本の固有種で全国に分布。主食はカタツムリで、消化液を注入し、溶けた軟体部を食べる。空を飛ぶことは出来ない。益虫。Gではない。大事なことなので繰り返す、Gではありません。