#09 どこまでも私の知ったことじゃないんだけど
夕方、食事の仕込みをしているときにノック音が響いた。ノルバート様が帰ってくるにはまだ早いが、何かあったのだろうか。雪崩が起きてその対応に追われているという話があったが、もしかしてノルバート様も巻き込まれてしまって急いで運ばれてきたとか……!
雪解けの始まった季節だ、有り得なくはない。慌てておたまを放り出して玄関に駆け寄り、勢いよくドアノブを掴んだ。
「大丈夫ですか!?」
「うわっ!?」
扉を吹っ飛ばす勢いで開けば、向こう側で誰かが尻もちをついた。雪解け後の湿った地面にべちゃっと座り込んだその人は、いかにも雪国を警戒してきましたと言わんばかりの厚着をしている。
「あ、すみません……えっと、大丈夫、ですか……?」
ノルバート様の客人だとしたらとんでもない失礼をしてしまった。しかし、その分厚いフードのせいで顔は分からなかったが、妙に声に覚えがあるような気も……する。
そろりと手を伸ばして――背筋が凍った。
「いたたた……」
呻きながらフードをとったのは、オトマールだった。
「……何してんの、オトマール」
「やあ、エレーナ、久しぶりだね」
久しぶりだねじゃねーんだよ、どの面下げて何してんのって聞いてんだよ。へらへら笑いながら見上げてくる顔に悪態を吐きそうになったものの、尻餅をつかせてしまったのは私だったのでぐっと言葉を飲み込んだ。
「……何か用?」
「いや、それがさ、本当に参っちゃって。エレーナを訪ねようと思ったら、勘当して北国にやったとか言われちゃったから。伯爵も酷いよね、婚約が駄目になったくらいで家を追い出すなんて」
言葉を飲み込んだことを後悔したし、どこからツッコミを入れればいいのか分からず拳が震えた。私を訪ねるな、追い出されたのは演技だし、そんなことをする羽目になったのはお前のせい、婚約が駄目になったのも他人事みたいに言うな――などなど。
「……それで、オトマール。あなたは私に何の用?」
が、こんなところで騒ぎを起こすわけにもいかない。いたって平静を装いながら、必死に言葉を絞り出す。
オトマールは「いや本当に、さっき言ったとおり参っちゃったんだ」とわざとらしく頬をかいた。
「ヒルデのことだけれど」
「なんで私が痴話喧嘩の相談に乗んなきゃいけないわけ?」
遠路はるばる、元婚約者に会いに来る時点で頭がおかしいというのに、話題がそれってどういうことなんだ? もはや謝罪すら受け付けたくないというのに。
「喧嘩してるんじゃないんだよ。ただ、ヒルデが言うことを聞かなくてさ」
「それを喧嘩っていうんだよ」
「最後まで話を聞いてくれよ、おかしいのはヒルデのほうなんだ」
「すみませーん、従者の方とかいらっしゃいませんかー?」
早くオトマールを帝国へ強制送還しなければ。馬車のほうへ向かって声をかけたが、手と首を横に振られた。どうやら雇われの御者らしい。
「貴方、一人で来たの? 曲がりなりにも伯爵令息が一人で北国なんてなに考えてるわけ? 公的な立場は措くとして、貴方はいまヒルデの夫で――しかももう子も産まれたんでしょう? 私的にも妻子を置いてのこのこ北国に遊びにきていい立場じゃないのよ、分かってる?」
「だから、そのヒルデがまったく役に立たなくて困っているんだ!」
悲痛な叫びと共に被害者のような顔をされ、一瞬何を言われているのか分からなかった。
「……何の話?」
「もともと僕とエレーナが婚約していたのに、ヒルデが妊娠してしまったから結婚せざるを得なくなったわけだろう?」
「いや妊娠は一人じゃできないんだから貴方にも非があるでしょ、何言ってんの」
「産後、屋敷のヒルデはぐうたらと寝て食べてを繰り返すばかりで、息子の世話は母と乳母に任せきり。せめて息子のために他のしかるべき夫人と交流を持っておくべきじゃないかと諭すんだが、他の夫人たちとは話が合わないと言って、令嬢たちの社交場に出掛けるんだ」
「それこそ私の知ったことじゃないわ、貴方とヒルデの問題でしょ」
「しかも母とは折り合いが悪いし……ああ、ヒルデは君と違って、父母と全く仲良くしようとしないんだ。お陰で食事の時間が地獄だよ」
「本当にどこまでも私の知ったことじゃないんだけど。私、食事の支度中だったから帰ってもらえる?」
私はあしらったのだが、オトマールは「ほら、君はそうやって自立してるだろう!」と顔を明るくした。話が通じないのかコイツ。
「ヒルデなんて、ろくに食事も作ることができないんだから」
「当たり前でしょ、普通の令嬢は食事なんて作らないんだから。これは私の趣味、それ以上でもそれ以下でもない」
「大いに結構な趣味じゃないか、ヒルデの趣味なんて浪費か散財なんだ」
「貴方、私が料理してた頃はいろいろ作ったんだねくらいしか言わなかったじゃない。それがなんで今更持ち上げてくるのよ、しかも遥かなる高みから。もういいでしょ、私はすることがあるんだから、早くヒルデのところに帰りなさい」
「だから話を聞いてくれエレーナ!」
「だから帰れって言ってるでしょ!」
追いすがるように掴まれた腕をぐいと引っ張り引っ張られ。オトマールは貧相な体つきをしているが、それでも男女の力の差は歴然としている。
「あんな嫁がいたら我がドナート家の将来は危うい! どうにかしてヒルデとの婚姻をなかったことにしてくれ!」
「何の立場でしゃしゃり出させるつもりっていうか私をなんだと思ってんの!?」
ノルバート様が住んでいる屋敷の敷地内で騒ぎを起こしてはいけない、そんな礼儀が空のかなたに吹っ飛ぶほど意味の分からないことを並べ立てられ、やっとこさ治り始めていた堪忍袋の緒が再度ズタズタに切れた。
「私は元・婚約者、つまりは他人! そうでなくとも貴方の不埒な婚姻の世話をする義理がどこの誰にあるっての? 第一、ヒルデは他でもない貴方が選んだ夫人でしょ!」
「いや選んだのではなく、妊娠したから仕方なく――」
「だからさせたのは貴方だって言ってんでしょうが! 放しなさいよ!」
ノルバート様がお戻りになる前に追い払わなければ、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。ぐいと腕を強く引っ張ったその瞬間。
ヒュッ――と私とオトマールの鼻の間を閃光のようなものが駆け抜けた。
驚いたオトマールが「ひえっ」と間抜けな声と共に手を放し、今度はそろって尻餅をついてしまった。少し離れたところでは、ビィンと硬いなにかが揺れる音が響いている。
「レディ・エレーナ!」
ノルバート様のご帰宅だ。「助かった」より先に「申し訳ない」が頭に浮かび、慌てて立ち上がりながら「すみません」と口にしようとした。
しかし、ズンッと足の先に剣が刺さるのを見て絶句してしまった。まるで私とオトマールの関係を断ち切るようにさされたそれの向こう側で、オトマールが再び「ひぎゃあっ」と叫びながら間抜けに後ずさり……私はノルバート様に腰から抱きかかえられた。
「何者だ、狙いは私か、それとも彼女か?」
地面に突き刺さった剣に手をかけたその目は、いまにもオトマールを殺しかねないほど冷たい通り越して凍っていた。さすがの私も、オトマールと同じくらい震えあがってしまう。同時に気付いた、さっき私達の間を物理的に引き裂いたのは矢であった、と。
「いいいえ、僕はその――」
「すみませんノルバート様! この人は私の帝都暮らし時の知り合いでございます!」
いくらオトマールに腹が立ったからって、死んでよしなんて微塵も思わない。しかし、私に焦燥が浮かんでいたせいか、ノルバート様はその顔から険しさを消さなかった。
「……レディ・エレーナ、この距離であれば私なら一振りで相手の首と胴を切り離せよう。脅されているのならそう口にして大丈夫だ」
「違います違います、本当に違います大丈夫です! 彼はオトマール・ドナート、帝国のドナート伯爵の令息です!」
私と一緒にいるときは静かで穏やかなのに、こんなに物騒な人だったとは! いや、私も初めて会ったときはかなり警戒されていた。ホルガーお兄様が警護を任せたくらいだし、カッツェ地方ではこのくらい気を引き締めていてしかるべきなのかもしれない。
ノルバート様はまだ剣から手を離さなかった。じろじろとオトマールを観察し「その割には従者も何もいないようだな」と怪しい点を潰していく。
「それは、はい、そのとおりですね。なんで従者がいないの、オトマール」
「仕方ないだろ、君に会いに行くなんて誰にも言えないじゃないか!」
「誰にも言えないようなことって分かってるならするんじゃない」
「言い争いをしていたようだが、何の問題だった?」
「それは……」
オトマールの首がかかっている、ならば正直に言うか、元婚約者だと――。恥ずかしい身の上を暴露するか、苦悩してぐっと拳を握りしめている私を前に。
「僕はエレーナの元婚約者で、現夫人の代わりに改めて夫人になってくれと言いにきたんです!」
…………事情を知らなさそうな他人の前でなぜそれを暴露するのか、しかも全く意味の分からない要素ばかり並べたてられているし、何より私でさえ初耳のご要望に、怒りも行き場を失った。
さすがのノルバート様も固まっていた。何を言われたのか分からなかったのだろう。私達の間には沈黙が流れる。
「……レディ・エレーナ」
「はい」
「……君が脅されているわけではないことは分かった。外は冷えるから家に入ろう」
「はい」
「待ってくれレニー! 僕の話をいい加減に聞いて――」
ノルバート様はささっと私を抱え込み、まるで誰もいないかのように、オトマールの鼻先でぴしゃりと玄関扉を閉めた。
沈黙が落ちていた。グツグツとお鍋の音を聞いて、我に返る。
「あっ、今日は鶏煮込みご飯なんです。焦げていないか確認してきますね」
「なるほど」
なにがなるほどなのか、考えてみればおかしいのだが、そのときの私は気が動転していたので、とにかく用事をする理由がほしかった。ちなみに外からはオトマールの声も音も聞こえなかった。オトマールのことなので、ノルバート様に恐れ慄き、すごすごと馬車に戻ったのだろう。ありがとう、ノルバート様。
が、だからこそ、何も説明しないわけにはいかない。食事を準備した後、いつもどおり向かい合って座った後で、きちんと手を膝にそろえた。
「ノルバート様、さきほどは大変失礼いたしました。お疲れでお帰りのところ、妙な騒ぎに巻き込んでしまい」
「いや、騒ぎを起こしていたのはあの男――ドナート伯爵の令息のほうだろう。……元婚約者だと話していたが」
「その件ですね……」
怪訝そうな顔を向けられるだけで、当時を思い出して頭痛に襲われた。子が産まれて云々と聞いたし、あれからずいぶん時が経ったというのに、どうやら私は根に持つタイプらしい。
そんなこんなで事の顛末を伝えると、ノルバート様は不思議そうに顎を指で挟んだ。
「……なぜその流れでドナート伯爵令息が君に会いに来るんだ?」
「さあ……」
「しかも夫人との婚姻を取り消してほしいとは。夫人が不貞でも働いていたのか? 子がドナート伯爵令息の血を引いていなかったなど……」
「いえ、私は全く存じ上げませんし、彼の認識でもそういった事由はなさそうです」
「そうだとしてなぜ頼るのが君なのか……?」
「本当に、私もそう申し上げたいです」
オトマールの摩訶不思議な思考回路は、ノルバート様には到底理解できないらしい。首を傾げたまま、しかし珍獣に理屈をといても無駄だと言わんばかりに「そういうことを言う者もいるのか」と無理矢理自分を納得させていた。
「ノルバート様のお陰で追い返すことができましたが、本当に、ご迷惑をおかけいたしました」
「大したことではない、むしろ君の役に立ったというのなら多少安心する側面もある。いつも世話になってばかりだったからな」
「世話って、居候が食事を作っているだけですよ」
「もとを辿れば、以下略だ。しかし、厄介な令息につきまとわれたものだな」
冷める前にいただこう、とノルバート様はお椀を手前に引き寄せる。
「今日のこの……この白い粒はなんだ」
「東洋の穀物です。稲穂がジャスミンの花に似ているので、ジャスミンライスと呼ばれるそうですよ。それと鶏肉をお鍋で煮込みました」
ノルバート様に引き続き、私も口に運ぶ。我ながら、鶏出汁がきいていておいしい。
「東洋の穀物なので珍しいですが、わりと気に入っているのです。少し手間はかかるのですが、チーズとの相性も悪くありませんし」
せっかく手に入ったのだ、次はリゾットもいいかもしれない。うんうん、と満足気に頷きながらスプーンを動かす私の前で、ノルバート様の手は珍しく進みが悪い。
「……すみません、お口に合いませんでしたか?」
「いやそんなことは。まったく。むしろいつもどおり美味しい」
なにかを誤魔化していますと言わんばかりの早口だった。
「……いやすまない」
「なにがでしょう」
「……どう見ても貴族令嬢であるし、辺境伯の妹君同然の立場であるし、しかしろくに供もつけずに一人で北国に来たというのは、なにか深い訳があるとは分かっていたのだが。このように無粋な形で踏み込んでしまい、申し訳ない」
スプーンを置いて膝に手をつき、深々と頭を下げられて仰天した。いやいや、無粋な形でオトマールが「事情」という秘密の部屋の扉を開け放って行っただけですから!
「そんなことないんですよ! 本来なら説明しておくべきだったかもしれませんし……まさかドナート伯爵令息が私を訪ねてくるとは思いませんでしたというのは言い訳ですが」
「いや、無理矢理訊ねてしまって申し訳なかった」
「ほら、あれは脅迫されていないかとご心配していただいたわけですし」
「……そう……だな、その危険性は、もちろん……そうだな……」
珍しく歯切れが悪かった。しばらくだんまりを決め込んでいたノルバート様は、再び誤魔化すように素早くスプーンを手に取った。
「せっかくの食事の時間にすまなかった。改めていただこう」
「あ、はい、もちろんです、どうぞ」
しかし、ノルバート様の手の動かし方はどうもぎこちがない。私の帝都落ち事情がよっぽど衝撃的だったに違いないと、なんだか申し訳ない気持ちになってしまったのだった。