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#31 これは私の“幸せ”のひとつ

 陽が高いうちに、パラディス川沿いに光る庁舎の明かりを見ながら馬車に乗った。ノルバート様は城下町を案内してくれると言ったが、せっかくなので一緒に食材を選んで食事を作ることを提案した。ノルバート様と過ごす夜はこれで最後になるからだ。


「私はもちろん嬉しいが、君はそれで構わないのか。私がもてなすという話だったと思うのだが」

「もちろん。その代わり、食事の支度は手伝ってくださいね」


 市街地の外にある市場で馬車を降り、なにを作ろうかしらと考えながら見てまわる。鶏、豚、牛……野菜は玉ねぎ、にんじん……。


「なにかリクエストあります? といっても、以前おうかがいしたスープは作ることができていないままなんですけど……」

「そうだな……夕方はまだ冷えるし、煮込み料理がいいな。パンも、せっかくなら今日のうちに食べたほうがいい」


 さきほどのカフェのパンだ。私があまりにもおいしそうに食べていたせいで「明日の朝も食べればいいのではないか」と買ってくれた。その中に大きなバゲットがあるのだ。

 そう言われると、そうですねえ……なんて呟きながら見ていて、トマトを見つけた。春トマトだ。


「トマトシチューなんてどうでしょう。ただのスープと違ってメインになってくれますし、ビーフシチューほど冬の食卓ではありませんし」

「……トマトか」

「あれ、お嫌いでしたっけ?」

「いや、まったく。そうしよう、味がしっかりすればバゲットにも合うだろう」


 じゃさっきの間はなんだったんですか? そう訊く前に、ノルバート様がトマトを買い始めてしまったせいでタイミングを失った。

 でも、野菜の好き嫌いはともかく、グライフ王国の件はそろそろ聞いてもいいだろうか。そう悩みながら家に帰り、トマトを煮込んでいたとき。


「これだったかもしれないな」

「なにがですか?」

「例の、幼少のころによく食べていたというスープだ。こんな色をしていた気がする」


 まさかのトマトシチュー? グライフ王国の郷土料理だとばかり思っていたのに、意外と身近なものだった。

 かと思えば、ノルバート様は顎を指で挟んでお鍋を覗きながら「しかし、トマトの味ではなかったと記憶しているのだが……」と眉を顰める。


「もっと独特の風味があったような……少なくとも酸味があるとは思わなかったしな……」

「トマトでも調理方法によっては酸味がとれますよ」

「そう言われるとこれかもしれないとも思うが……。よく見ているともう少しピンク色か紫色に近かった気がするな」


 トマトの赤色ではなく、ピンクか紫か……。玉ねぎやキャベツも思い浮かんだが、あれはスープの色を変えるものではない。


「そうなると、心当たりのある野菜がないんですよね……。グライフ王国で見かけてたのにここらへんにはない野菜ってないんですか?」

「ないことはないが、あまり名称が分からなくてな」


 そういえば、鮭の切り身を見て「赤い魚」なんて言っていたな……。もしかしたらスピナッチとケールの区別がつかない人かもしれない。しかし、王子の前に出されるのは調理済みのものばかり、いちいち名称が分からなくても仕方がないような気もする。

 そうして食卓にトマトシチューを出すと、ノルバート様は満足気に「あいかわらず美味しいな」と頷いた。


「今回はノルバート様も手伝ってくださったではありませんか」

「味付けは君だろう」

「だってノルバート様、塩をザーッと入れようとするんですから……」

「……あれは悪かった。止めてくれて助かった」


 適当に振ってくださいと言ったら「一回しくらいでいいか?」とよく分からない確認をされてしまった。何かと思えば、ノルバート様はお鍋の上で塩の容器を一周させるほど、とんでもない量の塩を入れようとしていたらしい。そのわりに味覚はまともなので不思議なものだ。


「ところで結局、例の故郷のスープの味ではありませんでした?」

「違うな。……違うというだけで、おいしいのはこのシチューのほうなんだ。気にしないでくれ」


 なんだか最後の最後に期待を裏切って悪かったな……。ちょっとしょんぼりしてしまったのに気付かれてしまったらしく、分かりやすくフォローされてしまった。


「いえ、ノルバート様こそ。そう気遣っていただかなくても」

「気遣いではなくて本心だ。正直なところ、私は特にそのスープを好きだと思っていたわけではないし、どちらかというとあまり好んでいない」

「……そうなんですか?」


 リクエストしたのに? 疑いの眼差しを向けたけれど「本当だ」と苦笑いされてしまった。


「味が嫌いだったわけではないんだが……そのスープと政変の記憶が強く結びついていてな。もともと、物心ついてしばらくしてから食卓にはあまりいい思い出もなく、あのスープを思い出すたびに当時の苦い気持ちが甦るんだが、君と食べれば変わるかもしれないと思っただけだ」

「……その政変って」


 喉まできた答えを声にするか悩んでいると、ノルバート様は静かに頷いた。


「……ああ。現宰相一族による十年前のクーデターだ」


 確定的なことは言わなくとも、答えを言っているようなもの。その素性を、いま話す気になったのはなぜか? ずいぶん前にノルバート様の素性を知ってしまったこともあって、いまさら答え合わせをされても驚くことはない。むしろ、まるで近くにいるのは最後だから教えてくれる気になったかのように思えるほうが気になった。


「……食卓にいい思い出がなかったのは、例えば……毒殺されかけた、とか……」

「いや、私は標的ではなかった。毒を盛られたのは私の父だったが、それこそ食卓で話すことではなかった。すまないな」


 当時のグライフ王国国王は夫妻で暗殺されたのではなかったのか? 首を傾げたが、それを詳しく教えてくれそうな様子はなかった。


「……今更だが、私の素性は分かっているのだろう?」


 やっぱり、ノルバート様は明確なことは口にしなかった。スプーンを静かに置き腕を組んだ、その仕草から読み取れることもなかった。だから私も、ただ静かにスプーンを置くことしかできなかった。


「……ええ。きれいすぎる帝国語と年齢と出身と、祖母と暮らしていた経緯を聞いてなんとなく察しはつきました。ホルガーお兄様がご存知だと知ったのはしばらく後でしたが」

「辺境伯が気付いた理由も似たようなものだ。ただ、あまり言語のなまりから気付かれることはなかったな。君はずいぶん耳がいいらしい」

「一応伯爵家で生まれ育ちましたから、楽器はひととおり習いましたし。でも、他の方には気付かれないものなんですか?」

「私は内乱で死んだことになっているし、内乱の性質上、王国側も表立って私を探すことはできない。それに、匿われているならまだしも、あの辺境伯にこき使われている騎士の素性などろくなものではないと誰もが思うだろう」

「ろくなものでないとは言いませんが、まあ……」


 いや、むしろあのお兄様だからこそ一国の王子もこき使い得る。知っていれば逆に納得できる面もあった。


「しかし……、いまさらこんな話をするのはなんですが、もともとノルバート様はここにおひとりでお住まいでしたよね? それで何の問題もなかったのでしょうか」

「その点はどちらかというと辺境伯と話し合った結果だ。ただの騎士があれこれ護衛をつけていると要人だと言っているようなものだからな、私も腕に覚えはあったし、あえて一人で暮らしておくことにした」

「あ、なるほど……」


 これまた、亡命した王子が一人で無防備に暮らしているとは思われないだろうということか。


「ああそれから、話しそこねていたが、私は髪も薬品で色を変えている。もとはグレイに近いブラウンだ」

「え!?」


 ノルバート様の白銀の髪がかなり好きだったのに……!? 愕然とすると「そんなにショックか、すまないな」と笑われてしまった。


「いえ……いえまあ、ショックですが……、でも、そうですね、グレイに近いブラウンなら似合いそうですし……。……そうですか」

「なにがそう残念なんだ。冗談のつもりだったんだが」

「……ノルバート様は私の髪が黒でもどうでもいいでしょうからね」

「見てみたい気はするが、そうだとして君は君だろう」

「……そういうことじゃないんです」


 照れるべきか反論すべきか本気で悩んだ。それでもいいんだけど、そういうことじゃない。そりゃ、ノルバート様だって銀だろうが茶だろうがノルバート様ではある。

 ただそれより、どうせ出自の話をしてくれるのなら聞いておきたいことがあった。膝の上に置いた手を軽く握り、ほんの少し息を吸い込んでお腹に力をこめる。


「……ノルバート様は、いつか、グライフ王国に戻るおつもりなんですか?」

「……さあ、どうだろう」


 私の真剣さとは裏腹に、ノルバート様はあまり緊張感のない様子で首を傾げた。


「……どうだろうって」

「私はここでの暮らしを気に入っているし、王国は既にオスヴィン王が統治している。もちろん政権の問題はあるが、それは私が玉座につくこととイコールではない」


 ノルバート様が“玉座につく”……。考えたことがあったとはいえ、本人の口から聞くと背筋を不気味なもので撫でられるような妙な感覚が走った。

 もしノルバート様が王か王子として王国に戻れば、それは私の手の届かない人になることを意味する。


「……ではずっとカッツェ地方に?」

「王国の状況と関係次第だな。ただ、オーム海商の一件でオーム伯爵の発言力はかなり小さくなったと聞いている。これからの帝国はN派の政策を推し進めると考えると……三年後もここにいるかは分からないな」

「……そうですか」

「まあ、そう心配することはない、レディ・エレーナ」


 なにも私は心配をしているわけではないのだが、ノルバート様は天然女たらしのくせに鈍いらしい。


「私が王国に関わるとしても、自分が帝国騎士に叙されていることには充分留意するつもりだ。君や辺境伯に迷惑をかけるようなことはしない」


 むしろ迷惑ならいくらかけてもらっても構いませんから――そう返そうとして、続きが分からないことに気が付いて口を噤んだ。ノルバート様にならいくら迷惑を掛けられたって迷惑とは思わないけれど、でもだから、私はノルバート様にどうしてほしいのか。


「……はあ。ありがとうございます」


 答えが見つからなかったせいで、何も言えなかった。

 せっかくの最後の晩餐は、そんな若干の消化不良を残しながら終わってしまった。しかも、ノルバート様は大して名残惜しくもなさそうに、いつもどおりに「おいしかった、ありがとう」とだけ言って帰って行った。お陰であまり眠ることができず、朝もだらだらと過ごし、ノルバート様が荷物を運び出す音を聞いてようやく寝室から出た。

 身形を整えてから外に出ると、冬より強くなった日差しが目に刺さった。ノルバート様の荷物は少なく、馬車は小さかった。


「すまない、起こしてしまったか」

「もう11時前なんですよ、寝ていたわけではありません。……お見送りはさせていただきます」


 ノルバート様は、昨晩と変わらず平然としていた。城で仕事をするときと同じく、淡々と荷物を運んで馬を確認していただけで、その間に私を振り返ることもしない。

 四ヶ月、二つ屋根の下で暮らしたといっても、所詮は他人だものね……。自分で言い聞かせていて寂しかったが、事実だった。それに、なにも今から今生の別れをするわけではない。城に行けば、また今までどおり仕事を手伝うために顔を合わせる。だからノルバート様の態度はごく当たり前のものだ。

 それなのに、すぐ近くにいなくなるだけで寂しいと思うなんて。家族と離れることすら寂しいと思わなかったのに、赤の他人に対してそう思う私のほうがどうかしている。

 御者を先に行かせ、ノルバート様は自分の馬に乗った。城を出入りするのをたまに見ていたが、黒くて大柄な馬で、それにまたがっていると余計に一介の騎士には見えなかった。


「ではレディ・エレーナ、世話になった。また城でよろしく頼む」

「……いえ、こちらこそ。……またよろしくお願いします」


 私は辛うじて笑みを浮かべたけれど、ノルバート様は愛想笑いすらしなかったし……走り出した後も、振り返ることもしなかった。

 その後ろ姿が見えなくなるまで見送ってしばらく、ぼんやりと玄関に立ち尽くしていた。さすがにいつまでもこんなところに突っ立ってても馬鹿馬鹿しいし、というか危ないし、と家の中に入ったものの、昼食を準備する気にもならず、お行儀悪くソファに寝転んでいた。

 廊下の向こう側の部屋からノルバート様が消えただけ。もともとこちら側には一人で暮らしていたからノルバート様の気配を感じるわけもないし、なんならこれからは使用人もきて屋敷自体はにぎやかになる。ノルバート様とはどうせ城で顔を合わせる。それは頭では分かっていても、体がついてこない。


「……私、こんなに寂しがりだったかしら」


 一体なにがそんなに悲しいのだろう。たったこれだけのことの、一体なにが。

 胸の上で手を組んで目を閉じて、意味のないことばかりずっと考えて、どのくらい経った頃か。外に蹄の音が聞こえて起き上がった。お兄様の手配した使用人だとしたら、寝転んではいられない。

 が、扉を開けると、ノルバート様が馬からとび降りたところだった。駆け寄ってくるその手には書簡を握りしめているが、その表情が妙に焦っている。


「……忘れものですか?」

「辺境伯のミスだ」

「はい?」


 引越しの日が延びたとか、そういうこと? 首を傾げていると、駆け寄ってきたノルバート様が書簡を握りしめた腕で扉を押さえつつ、私の前に立つ。抱きしめられそうな距離に思わずたじろぎ、一歩下がった。


「……あの、どういう……?」

「城下町ではない。この裏だ」

「裏って……」

「辺境伯に渡された書簡は庁舎の移転先だった。私が住むのは、このすぐ裏の屋敷だ」


 裏? 確かに、この屋敷には背中合わせで小ぢんまりとした屋敷が建っている。レンガ造りの小ぢんまりとしたもので、人が住んでいる気配はない。

 そこに、ノルバート様が住む? ここを離れて城下町に住むのだと思っていたのに、真後ろにいてくれる?

 ノルバート様は笑っていた。まだ春なのに、よっぽど急いで引き返してきたのか、その雪のような白銀の髪は風にあおられ後ろに流れていた。


「庁舎に辺境伯もいて叱られてしまった、君を一人にするとは何事かと。確かに、君の身の安全を守るという任務はとかれていない。それなのに隣を離れてしまって申し訳なかった」


 手袋をしたままの手が私の手を取った。それはただの騎士の礼なのに、まるでなにか特別なことをされたように、ノルバート様の目から目を逸らせなかった。


「いましばらく、辺境伯の騎士として君を任されたい。引き続き、傍にいさせてくれ」


 きっと、ノルバート様の仕草や声には不思議な力があるのだろう。なにせ、数日前から漠然と胸に落ちていた悲しさも寂しさも、いまは嘘のように消し飛んでいた。

 カッツェ地方にきて四ヶ月、私は自分が幸せかどうか考えることはなかったけれど、だから幸せだとも思っていなかった。もしかして私にとっての幸せは仕事なのかもしれないと思いさえした。それでも何か違う気がしていた。いまでも、それが何なのかは分からない。

 でも、間違いなく言える。少なくともこれは私の“幸せ”のひとつだ。顔がほころぶのも隠さず、握られた手を握り返した。


「とりあえず、おいしいお昼を一緒に食べましょう!」


 だって、ノルバート様がいるだけで、日々はこんなにも楽しいのだから。

これにて第一部完結です。第二部では恋愛に鈍い2人の関係が少し進展するかもしないかもというところですが、下書きを溜めるため少しお休みさせていただきます(第一部は毎日書いていてかなりしんどかったので……)。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。また、一区切りで評価いただけると励みになります。

よろしければ続きもお付き合いください!

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[一言] 離れに同居からお隣さんへw もう諦めて(?)一緒に住めばいいのに
[一言] 一部終了お疲れ様です。 一向に進展しない二人の仲ですが、これからも楽しみにしています。(距離はこんなにも近いのに!)
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