#30 私の“幸せ”はどこにあるのだろう
湖畔でひととおり騒ぎ、そろそろ小腹が空いたかもと思い始めた頃に「町のほうへ向かおう」と馬車に乗せられた。ノルバート様の顔を真正面で見るのが恥ずかしくて窓の外ばかり眺めていたけれど、来たときと道が違うので意外と楽しい。しばらくは雪をちょっとかぶった木々しかなかったけれど、市街地近くまでくれば市場もやっている。ぶらさがっている鶏を見ていると余計にお腹がすいてきた。
そんな有様で運ばれた先は、カフェだった。橋を越えた先にある小ぢんまりとしたお店で、入口のすぐ隣にテラスがある。お店の向かい側がパラディス川だから、テラスからの眺めがきれいなんだろうな……。
パラディス川を振り返りながら店内に足を踏み入れると、今度は焼きたてのパンの匂いに襲われた。いい匂いがするし、なにより内装が好みだった。このあたりでは珍しい木造建築で、そのダークブラウンの床や壁は、落ち着いた色なのになんとなく可愛い。それに、石造りの家よりも暖炉の熱に包み込まれるような温かさを感じる。
ちょっとうきうきしながら顔ごと視線を動かしていると、奥から「ああ、ノルバート様、お待ちしておりました」と声が聞こえた。給仕の恰好をした若い男性だった。
「先日は悪かったな、急に来てしまって」
「いえいえ、ノルバート様であればいつでも大歓迎です。旦那様は本日不在にしておりますが」
「構わない。テラスを使わせてもらっていいか?」
「もちろん、承りましたとおり空けております」
テラス席……! 案内されるがままに座ると、想像したとおりいい眺めだった。パラディス川はシレナ海峡へと流れる大きな川で、市街地から城下町へは大きな橋がふたつもかかっている。そのひとつと川を眺めながらコーヒーを飲めるなんて。
「こんなカフェがあるなんて知りませんでした。素敵な場所ですね」
「気に入ってもらえてよかった。私としては、ホルガー辺境伯に見張られているようで落ち着かないんだがな」
確かに、対岸の高いところにはホルガーお兄様のお城が見える。ふふ、と笑ってしまった。
「そういえば聞くタイミングを逃してしまっていたのですが、ホルガーお兄様とは親しいのですよね。ノルバート様ほどフランクにお兄様と話す方を知りません」
「そうだな、なにせ恩人が辺境伯の大叔母君であるし、辺境伯の父君にも大変世話になった。その関係で十年近く顔見知りであるし……客観的には辺境伯の腹心といったところだな」
腹心が自分で腹心と名乗るのも妙な話だが、確かにそう見える。
「辺境伯はあまり出自を気にせずに身分や仕事を与えるだろう。本来、私も騎士に叙されるような身分ではないからな、父君に引き続き重用してもらって大変ありがたい」
そうですね、隣国の王子を騎士に叙する辺境伯なんて聞いたことがありませんね……。そう相槌を打ちたいのを堪えた。というか、ノルバート様はこの期に及んでまだ正体がバレていないと思っているのだろうか。そうだとしたら、やはり妙なところで抜けている。
そういうわけで、とノルバート様は悩まし気な溜息を吐いた。
「あまり本人には言いたくないが、辺境伯含め、ゲヘンクテ家には頭が上がらなくてな……」
「あのホルガーお兄様に頭が上がらない状況というのは……避けたいですね……」
「ああ。お陰様で馬車馬のごとくこき使われている」
隣国の王子を馬車馬のごとく使う辺境伯……。遠いとはいえ親戚筋にあたるせいで少し責任を感じてしまう。うちの変狂伯がごめんなさい。
「お待たせいたしました、ノルバート様。それからレディ・エレーナ」
申し訳ない気持ちになっていると、最初に案内してくれた給仕の男性がパンとコーヒーを置いてくれた。コーヒーからは挽きたて、パンからは焼きたてのそれぞれいい香りがする。しかも、パンは形と色の違うものが3つ、4つプレートに盛られていてこれまた可愛らしい。
「あ、もうだめです、匂いだけでお腹が……」
「冷めないうちにいただこう」
塩パンと、デニッシュと、オニオンのパンと、もうひとつは何かと思ったらイチジクとくるみが練り込まれていた。こんなふたつが合うものかしらとおそるおそるかじると、イチジクの甘みがナッツ独特の風味と絶妙にマッチしていた。
「すっごくおいしい……お菓子みたいなパンですね。ノルバート様、これお好きでしょう」
「…………なぜ分かった」
「分かりますよ、四ヶ月近く毎日一緒にお食事をしていれば」
むしろなぜ分からないと思ったのか。心底不思議そうな顔に笑ってしまいながら、コーヒーも口に運んだ。深く、苦味の強い味で、デザートのようなパンにぴったりだった。
「……そうか。もう四ヶ月も経つか」
「ええ、なにせ私が来たときのカッツェ地方は一面真っ白な雪景色でしたから」
それが今となっては……。湖の氷は溶け、市街地にはもう雪が残っていない。パラディス川を挟んだ対岸には、少しずつ明るい緑色を取り戻している木々も見えた。
「季節が変わって、すっかり春ですね」
春は好きだった。どんよりと重たい雲が晴れ、明るい青い空に薄い筋が飛ぶようになる。雪解けと芽吹きを同時に迎え、新たな始まりを告げる季節だ。
でも、今回に限っては別れの季節となる。ノルバート様も、私が何を考えているか気付いたのだろう。私に向けられた目は、自惚れでなければ、少し寂しそうだった。
「ああ。区切りをつけるのにちょうどいい季節だな」
「……新居はどちらになるんです? 遠いんですか?」
「どうやら城下町に宛がわれたそうだ。仕事には便利だが、名実ともに辺境伯の膝元となるので正直気が滅入っている」
「お兄様ったら、ノルバート様が大好きなんですね」
「大変光栄だな」
冗談に笑いながらも、内心には影が落ちていた。ということは、これからは顔を合わせるのは城だけになる。いや、そもそも私は臨時でノルバート様の仕事を手伝わされていただけ。これからは城で顔を合わせることもなくなる可能性もある。
今日は、歓迎会であると同時にお別れの会でもあるのかもしれない。
「……少し硬い話になるが」
「ええ、なんでしょう」
「この二ヶ月近く、君の働きぶりは本当に助かった。……だからというわけでもないんだが、辺境伯には引き続き君を補佐につけてもらうよう頼んでおいた」
ぱちくり、と目を瞬かせた。ノルバート様は、湖畔で同じ言葉を繰り返したときと同じ顔をしていた。
「……ドナート伯爵家にまつわる君の噂と、そして君のランセル家の立場は、オーム海商の件を経てかなり改善されたはずだ。だから君には帝都に戻るという選択肢もあろうが――」
「いえ、ないです」
ないです。再考する間もなくその返事が飛び出た。ノルバート様はいささか驚いた顔になったけれど、しかしすぐに「そう言うと思った」と笑う。
「そう言うって……そんなにカッツェ地方を気に入っているとバレバレでした?」
「というよりは、オーム海商の一件で――もちろん苦労もしていたが、君は非常に生き生きしていたからな。ランセル伯爵令嬢にこう言うのは失礼なのかもしれないが、どこかの伯爵家に嫁ぐより、仕事をして能力を発揮するほうが合う女性なのだろうと思っていた。その意味で、カッツェ地方を出て行く理由はないだろうと」
……そうか。そうかもしれない。私は、誰もが“幸せ”だというものを“自分の幸せ”でもあるのだと思って疑わなかった。それを、オトマールと婚約破棄することになって、意外とそういうものではないのかもしれないと考え直していた。
では私の“幸せ”はどこにあるのだろう。カッツェ地方に馴染むのに精いっぱいで考える余裕をなくしていたけれど、確かに、ノルバート様の仕事の手伝いは楽しかった。
私の幸せは、もしかして仕事にあったのか?
「……私、働くのが向いているんでしょうか?」
「少なくとも私にはそう見えた。もちろん結婚に向いていないという意味ではないのだが。君が迎えてくれる家ほど暖かい場所を、私は知らなかったし……」
……それはどういう意味ですか? パンを口に入れようとしていた手を止め、そう訊こうとした――矢先に、ノルバート様が不意に吹き出した。
「いや、すまない。いま思い返してもたまに笑ってしまうんだが……方便なのは分かっているんだが、宝石を嫌いな理由が自分の輝きで霞むだけの石ころだというあの理由が本当にくだらな……おかしくてな」
「いまくだらないって言いましたよね? これでもオーム海商から売買品リストを引き出すのに頑張ったんですよ!」
憤慨してみせるが、ノルバート様は「いや、本当にすまない、それは分かっているんだ」と言い訳しながらまだ笑っている。
「咄嗟に思いついたものだとは分かっていたんだが、アインホルン王国の世間知らずの我儘な令嬢の演技があまりに上手くてな。いや、これは感心したのであって」
「形のいいお口が笑っていらっしゃいますよ。珍しいですね、いつもポーカーフェイスのノルバート様が」
「君の近くにいると予想外のことが多くてな。もちろんこれも褒めている」
「説得力がありません。前言撤回いたします、ノルバート様は詐欺師にはなれません」
「褒め言葉として受け取っておこう。話は戻るが、だからまだしばらく、城ではよろしく頼むという話だ」
「ええ、ええ、もちろんです。今後も手八丁口八丁で活躍させていただきます」
喜ぶべき場面なのは分かっていたけれど、投げやりなふりをしなければ平静を装うことができなかった。
まだ未確定とはいえ、これからも城ではノルバート様のお手伝いをできる。楽しかった仕事にまた取り組むことができるし、ノルバート様にお会いすることもできる。
でも、それだけでは、胸にぽっかり空いた穴が埋まらない。
みんながいう“幸せ”は私の“幸せ”ではなかった。では、それはどこにあるのだろう。もう一度自問する。